最初の友達
部屋の中は静まり返っていた。
結衣と俺は思わず顔を見合わせた。
青龍学園。
その名前を知らないわけではなかった。
交換留学の時に耳にしたことがあったからだ。
けれど、舞夜がその学校に通っていたとは想像もしていなかった。
舞夜は手紙から目を離さなかった。
たった一行を読むだけでも、大きな覚悟が必要なように見えた。
結衣が優しく口を開いた。
「学校の名前なの?」
舞夜は静かにうなずいた。
「そう」
少しだけ間を置いてから、彼女は続けた。
「私立の高校よ」
「とても有名な学校だったの」
その声は穏やかだった。
けれど、その瞳には複雑な感情が浮かんでいた。
窓の外では、雨が変わらず静かに降り続いていた。
「それなら...どうして転校したの?」
結衣が遠慮がちに尋ねた。
舞夜はすぐには答えなかった。
封筒の端を指先でなぞりながら、静かにうつむいた。
「もう、あの場所にはいられなかったから」
短い答えだった。
あまりにも短すぎた。
けれど、その言葉の裏に隠されているものは、とても重いように感じられた。
俺は何も言えなかった。
結衣も、それ以上は質問しなかった。
雨が窓を打つ音だけが、静かな部屋に響いていた。
やがて、舞夜はゆっくりと顔を上げた。
「十三歳の頃の私は...あの学校が理想の場所だと思っていたの」
その声は、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
まるで、別の誰かの人生を振り返っているかのようだった。
「先生たちは優秀だった」
舞夜は静かな声で語り始めた。
「生徒たちはいつも競い合っていたの」
「みんなが一番を目指していた」
懐かしそうな笑みが浮かぶ。
「最初は、それが楽しかった」
「私も負けたくなかったから」
彼女は視線を窓の外へ向けた。
雨粒がガラスを流れ落ちていく。
「朝から夜まで勉強していたわ」
「眠る時間より、本を読んでいる時間のほうが長かったかもしれない」
結衣が小さく笑った。
「それ、今の舞夜とあまり変わらないかも」
舞夜も少しだけ笑った。
「そうかもしれないわね」
そして、彼女はテーブルの上の手紙に視線を落とした。
「文章を書き始めたのも、最初は小論文を上達させるためだったの」
「まさか、それが私の人生で一番大切なものになるなんて思ってもいなかった」
その言葉を聞きながら、俺は黙って彼女を見つめていた。
舞夜にとって、「書く」ということには、俺たちが知らない特別な意味があるのかもしれなかった。
「なるほどね...」
結衣が小さくつぶやいた。
舞夜は顔を上げた。
「どういうこと?」
「舞夜の文章って、いつも感情がすごく伝わってくるから」
結衣は優しく微笑んだ。
「どんな気持ちでも言葉にできる人なんだなって、ずっと思ってた」
舞夜はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと首を横に振った。
「そんなことないわ」
その声は少し寂しそうだった。
「自分の気持ちを言葉にできなかった時期もあったの」
部屋の空気が静かに変わった。
俺も結衣も何も言わなかった。
舞夜は窓の外を見つめていた。
雨はまだ降り続いている。
その横顔には、言葉にできないほどの孤独が浮かんでいた。
俺は黙ったまま彼女の話を聞いていた。
邪魔をしたくなかった。
今の舞夜には、自分の言葉で過去を語る時間が必要だった。
舞夜は深く息を吸った。
「青龍学園では、たくさんの人と出会ったわ」
「優しい人もいた」
「でも、他人に勝つことしか考えていない人もいたの」
彼女は少しだけ目を閉じた。
「あの学校では、成績がすべてだった」
「評価も、将来も...人間関係でさえも」
短い沈黙が流れる。
そして、舞夜は小さく微笑んだ。
「でも、そんな場所で、私は特別な人に出会ったの」
結衣の表情が少し明るくなった。
「友達?」
舞夜はすぐには答えなかった。
しばらくしてから、ゆっくりとうなずいた。
「そう」
「私にとって、初めて本当の意味で友達と呼べる人だったの」
舞夜の顔に、優しい笑みが浮かんだ。
それは、この日になって初めて見せた心からの笑顔だった。
けれど、その笑顔はすぐに消えてしまった。
「彼女が教えてくれたの」
舞夜は静かに言った。
「文章を書く目的は、良い成績を取ることだけじゃないって」
手紙に視線を落とす。
「誰かを理解するためにも使える」
「誰かの痛みを和らげることもできる」
「そして、言葉にできない気持ちを伝えることもできるの」
彼女の瞳が再び潤み始めた。
「私が書いた物語を、最初に読んでくれたのも彼女だった」
誰も言葉を発しなかった。
「その時、彼女は私にこう言ったの」
舞夜は小さく息を吸った。
そして、その言葉をゆっくりと口にした。
「書き続けて。いつか、あなたの言葉は誰かを救う日が来るから」
部屋の中は静まり返っていた。
やがて、舞夜は目を閉じた。
「卒業するまで、ずっと一緒にいられると思っていた」
そして、ゆっくりと目を開く。
「何も変わらないと思っていた」
小さく首を横に振った。
「でも、違った」
雨音だけが静かな部屋に響いていた。
そして、俺はようやく理解した。
本当の話は、これから始まるのだと。
第百四話を読んでくださって、ありがとうございました。
舞夜は青龍学園での生活について語り始めました。
そして、そこで出会った大切な友達の存在も。
しかし、その思い出の先には、まだ語られていない出来事が残されています。
次回もぜひお楽しみください。




