閉ざされた過去の名前
時計の針は午後四時二十分を指していた。
誰も口を開かなかった。
雨が再び降り始めていた。
ダイニングの大きな窓を叩く雨音だけが、静かなリズムを刻んでいる。
その穏やかな音とは対照的に、家の中には重い沈黙が流れていた。
舞夜はテーブルのそばに立ったままだった。
両手には手紙が握られている。
彼女はそれを手放そうとしなかった。
まるで、手紙を置いてしまえば、長い間胸の奥に閉じ込めていた感情が一気にあふれ出してしまうかのようだった。
誰も言葉を発しない。
ただ、時間だけがゆっくりと過ぎていく。
窓の外では、雨が静かに降り続いていた。
そして、その雨音だけが、張りつめた空気をわずかに和らげていた。
「舞夜...」
最初に沈黙を破ったのは結衣だった。
その声はとても優しかった。
「まだ話せないなら、無理をしなくてもいいんだよ」
舞夜はゆっくりと顔を上げた。
そして、小さく微笑んだ。
それは安心したような笑顔だった。
「ありがとう」
そう言ってから、彼女は少しだけ視線を落とした。
「ずっと前から話したいと思っていたの」
短い沈黙が流れる。
窓の外では雨が静かに降り続いていた。
「ただ...勇気がなかっただけ」
そう言うと、舞夜は近くの椅子に腰を下ろした。
結衣も向かい側の席に座る。
俺は二人の隣にある椅子を引いた。
三人がテーブルを囲んだ。
それでも、誰もすぐには言葉を発しなかった。
今から語られる話が、決して軽いものではないことを、全員が理解していたからだった。
「私たちが初めて会った日のことを覚えてる?」
突然の質問だった。
俺は思わず結衣のほうを見た。
彼女も少し戸惑っているようだった。
「もちろん覚えてるよ」
結衣は小さく笑った。
「文学部で初めて会った時でしょ?」
しかし、舞夜はゆっくりと首を横に振った。
「違うの」
彼女は静かな声で続けた。
「もっと前のこと」
「私たちが話すようになる前の、あの日のこと」
俺は記憶をたどった。
すると、少しずつ一つの光景が頭に浮かび上がってきた。
窓際に座る一人の少女。
手には一冊の本があった。
教室のあちこちでは楽しそうな話し声が聞こえていた。
けれど、彼女だけは別の世界にいるように見えた。
誰とも話さず、ただ静かに本を読んでいた。
「覚えてるよ...」
ようやく俺はそう答えた。
舞夜はゆっくりと視線を落とした。
そして、小さな声で言った。
「あの日の私は、とても怖かったの」
「転校してきた時、私は自分自身に一つだけ約束したの」
舞夜はそう言って、手元の封筒をそっとなぞった。
「誰とも深く関わらないこと」
静かな声だった。
けれど、その言葉には強い意志が込められていた。
「誰にも心を開かない」
「誰も信じない」
少し間を置いてから、彼女は最後の言葉を口にした。
「そして、二度と同じ過ちを繰り返さないこと」
その言葉が部屋の中に静かに響いた。
結衣が驚いたように目を見開く。
俺も何も言えなかった。
それは単なる決意ではなかった。
何か大切なものを失った人だけが口にするような言葉だった。
舞夜は小さく息を吐いた。
「最初の頃は、それで十分だと思っていたの」
窓の外では、雨が変わらないリズムで降り続いていた。
けれど、部屋の空気は少しずつ変わり始めていた。
「長い間、私はその約束を守れると思っていたの」
舞夜は封筒の端を指先で静かになぞった。
「学校へ行って、授業を受けて、良い成績を取る」
「必要な時には笑う」
「誰かに話しかけられたら、ちゃんと返事をする」
彼女は少しだけ視線を落とした。
「それだけで十分だった」
部屋の中には雨音だけが響いていた。
「誰にも気づかれなかったと思う」
「本当は、みんなとの間に壁を作っていたことを」
結衣はゆっくりとうなずいた。
「今なら分かる気がする」
舞夜は顔を上げた。
「何が?」
結衣は少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「どうして放課後の誘いをいつも断っていたのか」
「どうして、いつも何か理由をつけて帰ってしまったのか」
「どうして、誰とも距離を縮めようとしなかったのか」
舞夜は小さく笑った。
けれど、その笑顔には悲しみが混ざっていた。
「もう二度と傷つきたくなかったから」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
彼女がどれほど強く見えても、その心にはずっと消えない傷が残っていたのかもしれなかった。
舞夜の指が手紙を少しだけ強く握った。
「そんな毎日が続いていたの」
そう言ってから、彼女はゆっくりと俺のほうを見た。
「でも、それは長くは続かなかった」
「えっ?」
思わず声が漏れた。
舞夜は小さく笑った。
それは、俺たちが家に来てから初めて見せた本当の笑顔だった。
「大輝が現れたから」
「俺?」
思わず聞き返した。
「でも、俺たちはほとんど話していなかっただろ?」
「だからよ」
俺は首をかしげた。
まったく意味が分からなかった。
舞夜は静かに俺を見つめた。
「無理に近づこうとしなかった」
「答えたくないことを聞こうとしなかった」
「笑うことを強制しなかった」
そして、少しだけ視線を和らげた。
「ただ、そこにいてくれた」
胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
特別なことをした覚えはない。
ただ、それが自然なことだと思っていただけだった。
舞夜は再び視線を手紙へ向けた。
「それが、一番怖かった」
「怖かった?」
彼女はゆっくりとうなずいた。
「だって、あの日以来、初めて誰かを信じたいと思ったから」
部屋の中は再び静まり返った。
雨は変わらず窓を叩いている。
やがて、舞夜は手紙をテーブルの上に置いた。
深く息を吸う。
そして、これまでよりもはっきりとした声で言った。
「三年前、私は別の学校に通っていたの」
俺も結衣も何も言わなかった。
舞夜の視線は手紙に向けられたままだった。
そして、長い沈黙のあと、彼女はその名前を口にした。
「青龍学園」
その言葉が部屋に響いた瞬間、俺は直感した。
俺たちは今、二度と引き返せない過去の入り口に立っているのだと。
第百三話を読んでくださって、ありがとうございました。
ついに舞夜は、自らの過去を語り始めました。
三年間、胸の奥に閉じ込めていた「青龍学園」という名前。
その過去に何があったのか。
次回もぜひお楽しみください。




