閉ざされた扉の向こう側
最後の授業は、これまで以上に長く感じられた。
どれだけ集中しようとしても、意識は同じ場所へ戻ってしまう。
窓際の席。
そこには、今日一日ずっと誰も座っていなかった。
ようやく終業のチャイムが鳴る。
教室のあちこちから椅子を引く音が聞こえた。
生徒たちは楽しそうに話しながら、次々と教室を出ていく。
けれど、俺はしばらく席を立つことができなかった。
「行こう」
結衣の声が聞こえた。
俺はゆっくりと顔を上げる。
そして、静かにうなずいた。
その時、すでに鞄を肩に掛けていた松が近づいてきた。
「本当に行くのか?」
「うん」
「だったら、俺も一緒に行く」
そう言った松に対して、結衣は小さく首を横に振った。
「大丈夫」
「どうして?」
「もし体調を崩しているだけだったら、三人で突然押しかけるのは迷惑かもしれないから」
松は少し考え込んだ。
やがて、小さくため息をつく。
「そうかもしれないな」
そして、俺たちを交互に見つめた。
その表情には、はっきりとした心配の色が浮かんでいた。
「何かあったら、すぐに連絡しろよ」
「分かった」
俺たちは学校の正門で松と別れた。
そして、結衣と二人で舞夜の家がある住宅街へ向かって歩き始めた。
しばらくの間、俺たちは何も話さなかった。
街のざわめきだけが、静かに耳へ届いてくる。
道路には車が行き交い、商店街には買い物をする人たちの姿が見えた。
楽しそうに笑いながら帰宅する学生たちもいる。
いつもと変わらない午後だった。
変わっていたのは、俺たちだけだったのかもしれない。
誰にも気づかれない不安を抱えながら、ただ前を見て歩き続けていた。
沈黙を破ったのは結衣だった。
「ねえ」
俺は隣を見た。
「何?」
彼女は少しだけ視線を落とした。
「こんなふうに連絡もなしで学校を休むなんて、本当に珍しいの」
「前にもあったのか?」
結衣は首を横に振った。
「ないと思う」
少し考えるような表情を浮かべる。
「熱がある時でも、必ずメッセージを送ってくれていたから」
その言葉を聞いて、胸の奥がさらに重くなった。
「一人暮らしなのか?」
「ううん」
結衣はすぐに答えた。
「ご両親はいるよ。でも、昼間は仕事で家を空けていることが多いの」
「そうなんだ」
それ以上、言葉は続かなかった。
俺たちは再び黙ったまま歩き続けた。
俺は自分自身に言い聞かせていた。
きっと大丈夫だ。
ただ体調を崩しただけかもしれない。
確認して、それで終わる。
きっと、それだけだ。
そう思おうとしていた。
けれど、胸の奥にある不安は消えてくれなかった。
二十分ほど歩いた頃だった。
結衣がゆっくりと足を止めた。
「ここだよ」
俺は顔を上げた。
目の前には二階建ての一軒家があった。
派手な造りではない。
けれど、とても丁寧に手入れされていることが一目で分かった。
小さな庭には色とりどりの花が咲いている。
昨夜は雨が降っていたはずなのに、その花々は変わらず美しく咲き続けていた。
どこから見ても、ごく普通の家だった。
それなのに――。
言葉では説明できない違和感があった。
「カーテンが...」
気づけば、そんな言葉が口から漏れていた。
結衣も俺の視線を追った。
一階の窓を覆うカーテンは、すべて閉じられていた。
リビングの窓も例外ではない。
この時間にしては不自然だった。
結衣も小さく眉をひそめた。
「確かに、珍しいかも」
俺たちは顔を見合わせた。
胸の奥にあった小さな不安が、少しずつ大きくなっていくのを感じていた。
俺たちは玄関へ向かってゆっくりと歩いた。
小さな庭はきれいに手入れされていた。
雨上がりの花々は鮮やかな色を保っている。
それなのに、家の中からは生活の気配がまったく感じられなかった。
結衣は玄関の前で深く息を吸った。
そして、インターホンのボタンを押した。
「ピンポーン」
静かな電子音が響く。
俺たちは返事を待った。
一秒。
二秒。
五秒。
しかし、誰も出てこなかった。
結衣はもう一度ボタンを押した。
「ピンポーン」
再び沈黙が訪れる。
風が木々の葉を揺らした。
それ以外の音は何も聞こえない。
結衣は困ったように眉をひそめた。
「おかしいな...」
俺も同じことを考えていた。
この時間なら、誰かがいても不思議ではない。
それなのに、家の中は静まり返っていた。
胸の奥の違和感が、少しずつ形を変え始めていた。
それは、もう単なる不安ではなかった。
結衣はポケットからスマートフォンを取り出した。
慣れた手つきで舞夜の連絡先を選ぶ。
すぐに発信音が聞こえ始めた。
彼女はスマートフォンを耳に当てたまま、じっと待っている。
俺も無意識のうちに息を止めていた。
数秒後――。
結衣はゆっくりとスマートフォンを下ろした。
「やっぱり駄目」
「まだ電源が入ってないのか?」
彼女は小さくうなずいた。
「うん」
胸の奥に重いものが沈んでいくような感覚がした。
まだ恐怖ではなかった。
けれど、朝から感じていた違和感は確実に大きくなっていた。
結衣は玄関を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「どうしたんだろう...」
その言葉に答えることはできなかった。
俺にも何も分からなかったからだ。
ただ一つだけ確かなことがあった。
何かがおかしい。
そんな感覚だけが、はっきりと胸に残っていた。
その時だった。
家の中から小さな音が聞こえた。
何かが床に落ちたような音だった。
とても小さい。
けれど、静まり返った空間では十分すぎるほどはっきりと聞こえた。
結衣が目を見開いた。
俺も同じだった。
「今の音...」
彼女の声がわずかに震えていた。
俺は黙ったまま玄関の扉を見つめた。
聞き間違いではない。
確かに、家の中から聞こえた音だった。
結衣は一歩前に出た。
「舞夜!」
もう一度、大きな声で名前を呼ぶ。
返事はなかった。
風が吹き抜ける。
庭の花が小さく揺れた。
それでも、家の中は静まり返ったままだった。
俺たちは顔を見合わせた。
言葉は必要なかった。
二人とも同じことを考えていたからだ。
家の中で何かが起きている。
胸の鼓動が少しずつ速くなっていく。
朝から感じていた胸騒ぎが、現実のものへと変わろうとしていた。
そして、その扉の向こうには――。
俺たちの想像を超える何かが待っているような気がした。
第百話を読んでくださって、ありがとうございました。
ついに大輝と結衣は舞夜の家を訪れました。
しかし、そこにあったのは静寂だけでした。
閉ざされたカーテン。
応答のないインターホン。
そして、家の中から聞こえた小さな物音。
胸騒ぎは、もう単なる予感ではありません。
扉の向こうには、まだ誰も知らない真実が隠されています。
次回もぜひお楽しみください。




