四、 相談室の墨色
ある日の放課後、事件は起きた。薫が職員室でノートをまとめていると、クラスの女子生徒、珀屋日々希が泣きそうな顔で駆け込んできた。
日々希は生粋の新人類で、いつもは首筋のUV模様を誇らしげに輝かせている生徒だった。しかし今の彼女の顔は、激しい感情によって、まるで燃え盛る石炭のように白熱(IR放射)しているのが見て取れた。隣の席の新人類の教師が、日々希の熱線データをチラリと見て薫に耳打ちした。
「浅倉先生、典型的な『嘘がバレた時の焦燥』のパターンです。どうせ友達同士のIRハッキングで陰口が見破られてハブられたんでしょう。適当に頭を冷やすように言って、帰らせればいい」
新人類の教師たちは、生徒の感情を「熱の動向」というデータだけで切り取り、表面的なプロファイリングで片付けようとする。しかし、薫の目には日々希の熱線データなど見えない。薫が見つめたのは、日々希の「言葉の震え」であり、涙で濡れた「視線の泳ぎ方」であり、制服のスカートの裾をぎゅっと握りしめている「指先の躊躇」だった。
「日々希さん、あっちの相談室で話そうか」
遮光カーテンの下ろされた相談室で、日々希は顔を覆って泣き出した。
「先生……私、もう嫌だ。学校に来たくない……。私の首の模様(ブラシュコ線)の形が変だって、みんなに言われて……。新解像度のUVカメラアプリで撮影したら、生まれつきの配列が少し歪んでるって。恋愛市場でもこういう血筋は選ばれない、将来の優生交配から外れるゴミだって、SNSに顔の熱の動画を勝手にアップされて……!」
日々希の言葉は、新世界の歪んだ「新ルッキズム」の暴力そのものだった。
「私、みんなの前では笑うしかなくて。でも、笑えば笑うほど顔の熱(IR)が『嘘をついている色』に変わっちゃうから、それを見たみんながまた『ほら、本当は怒ってる、不気味だ』ってハッキングしてきて……! もう、誰の顔も目も見られないの……!」
新人類の教師が言った「嘘がバレた焦り」というプロファイリングは、完全に間違っていた。日々希の熱は、自分の本心を強制的に曝け出され、傷つけられたことに対する必死の防衛の熱だったのだ。薫は静かに立ち上がり、日々希の隣に座ってその震える肩をそっと抱きしめた。薫の体からは、断熱ファンデーションのせいで熱のデータは一切漏れ出ていない。日々希にとって薫の抱擁は、自らの感情の色を盗み見られる恐怖から完全に解放される、世界で唯一の「避光地」だった。
「苦しかったね、日々希さん。皆さんは目に見える色や模様で人間を品定めしてハッキングし合っているけれどね、人間の本当の心はそんな単純な色のグラデーションなんかで表現できるものじゃないのよ」
薫は日々希の涙を拭った。
「夏目漱石という作家がね、『こころ』という本の中で、人間の複雑な感情を、何万文字もの言葉を使って描いたわ。そこには赤も青も、UVの模様も出てこない。でもね、だからこそ、何百年経っても色褪せない人間の本当の熱がそこにあるの。あなたのその苦しみも、言葉にすればきっと誰かに正しく伝えることができる。明日、教室に行くのが怖ければ、私のこの国語のノートを開いて、文字を追いかけてごらんなさい。そこには、あなたをハッキングする光は一つもないから」
日々希は、薫の「鉄のポーカーフェイス」をじっと見つめていた。その顔の奥に、新人類の誰よりも深く自分を見つめてくれている「言葉の解像度」があることを、彼女は確かに感じ取っていた。
「……はい。先生……ありがとう」
日々希の口から漏れたのは、色に頼らない、純粋で温かい感謝の言葉だった。




