二、 白熱灯下の書庫
そんな薫にとって、唯一呼吸ができる場所が、郊外にある母方の祖父母の家だった。祖父母はあの狂騒の中で頑なにワクチンを拒んだ古い世代の旧人類だった。
木造の古い日本家屋。本家の息苦しさから逃げ出し、薫がその門をくぐると、そこには完璧な「情報の引き算」があった。新人類の都市を埋め尽くしているUVインクの警告標識も、電子機器の熱漏れもない。そこにあるのは、昔ながらの白熱灯が放つ、柔らかく温かいRGBの光だけだった。
「薫、お前は何も悪くないんだよ。この世界はね、本当はこれだけで十分に美しいんだ」
祖父はいつも、皺の刻まれた温かい手で薫の頭を撫でてくれた。彼の顔には極彩色の熱のゆらぎはなかった。ただ、穏やかな声のトーン。それだけで、薫には十分だった。
祖父母の家の奥にある書庫で、薫は二十一世紀以前に書かれた夏目漱石や太宰治の小説を貪るように読んだ。それらは、紫外線や赤外線といった「余計な情報」が存在しない世界で、かつての人間たちが言葉と五感だけを頼りに紡ぎ出した結晶だった。
『月が綺麗ですね』という逸話に、薫は衝撃を受けた。新人類であれば、相手の顔の熱(IR)を見れば好意など一発でハッキングできる。しかし、かつての旧人類は、相手の表情や言葉の裏にある微細なニュアンスを手探りで推し量り、こんなにも遠回りで、だからこそ美しい言葉に変えて伝えていたのだ。
顔の熱を見なくても、言葉の並びだけで、人間の愛おしさも醜さもすべてが残酷なほど克明に描かれている。その事実は、色のない世界に置き去りにされた薫の心を深く静かに満たしていった。
大学進学の際、両親は薫に「旧人類向けのARゴーグル開発学科」など、多数派の社会にしがみつくための「補具」を扱う道を勧めた。しかし、薫はそれを拒み、文学部を選んだ。
「私は、見えない目でしか見つめられない世界を教えたいんです。色を見るだけで相手のすべてを分かった気になっている子供たちに、言葉の解像度を教えたいの」




