二、 無理難題のオーダー
ある夜、店の重い防音・遮光扉を開けて、一人の客が助けを求めるように迷い込んできた。他人の感情をハッキングし合う社会に疲れ果て、網膜がボロボロに傷ついた新人類の富裕層。男は誰も信じられなくなった虚ろな目で、カウンターに大金を積み、突飛な要求を口にした。「頼む……かつての大衆魚と呼ばれていた、秋刀魚の味を私にくれ。誰もが絶賛するあの幻の味がどんなものだったのか、この舌で、この目で確かめたいんだ」
秋刀魚。それはあのパンデミックから六十五年、二〇八五年の今、ただの脂質とタンパク質の記号に過ぎなかった。
国際的な漁獲枠削減ルールに反発、従わない国や密漁者の新人類による乱獲により海洋の生態系が致命的に崩壊したこの世界では、サンマやサバ、イワシといった青魚以上の大型海洋種はほぼ壊滅。
科学はクリーンLEDのドーム内で養殖された生食用の鮭や、再生三期作によって年中新米が並ぶ、完璧に管理された食生活へとかえた。
しかし、一匹数百万円の値を付ける高級珍味として期待された秋刀魚や他の青魚のドーム養殖だけは、すべて失敗に終わった。神経質な彼らは、人工光の刺激に耐えられず集団狂乱による激突死を繰り返したのだ。親潮の消滅も重なり、青魚たちは人間の計算を拒むように地球上から静かに絶滅していた。
義体しか持たない自分に、生物の遺産を再現することなどできるのか。しかし、男の放つボロボロの熱(IR)が、彼女のセンサーに冷たく響いた。「分かりました。お時間をいただきます。データではなく、あなたの求める『本物』を織り上げます」紬は静かに頷き、その夜から、失われた味の捜索に乗り出した。




