二、 図書館の沈黙
大学で彼が選んだのは、量子力学と光学の最先端をいく物理学科だった。世界をすべて数値化し、数式に変換していく新人類のトップエリート。それが彼のすべてだった。そしてそのキャンパスで、彼は浅倉薫という、世界の「真逆の極」にいる女子大生と出会うことになる。
当時の薫は、新人類の天才たちに囲まれながら、頑なにARゴーグルや調光レンズを拒み、自分の「見えない目」の価値を手探りで探していた、孤高の旧人類だった。
一度だけ、大学の図書館の片隅で、二人は言葉を交わしたことがある。彼は、窓から差し込む大気中のUVの屈折率を視覚で測定しながら、緻密な数式でノートを埋めていた。隣に座った薫は、ただ古い紙の匂いを嗅ぎながら、太宰治の黄ばんだ文庫本を静かにめくっていた。あまりの効率の悪さに、彼は思わず声をかけた。
「浅倉さん。君はその不便な目で、どうやって世界を正しく認識しているんだ?」
彼の問いに、薫は本から目を離さず、静かに答えた。
「正しく認識することだけが、世界のすべてじゃないわ、怜人くん。あなたの目は、すべてを色で数値化してしまうけれど、私の目は、見えないからこそ、その間にある『沈黙』や『心の揺らぎ』を想像できるの。あなたの綺麗な目には、他人の『言葉の重さ』は見えている?」
彼にはその言葉の意味が、量子力学のいかなる方程式よりも理解できなかった。しかし、言葉を失った彼が見つめた薫の顔――そこから放射される熱データ(IR)が、新人類の誰よりも穏やかで、ノイズが一切なく、まるで古い白熱灯のように「静か」だったことだけは、彼の網膜に強烈な記憶として焼き付いた。すべてが見える自分の眼球が、彼女の言葉の重さだけを捉えきれなかった。その非対称な交差が、彼の胸の奥に小さな「ほつれ」を残した。




