常夏の国に、白い祈りを
ギルドの重い木の扉を押し開けると、熱気と酒臭さ、そして冒険者たちの怒号が鼓膜を叩いた。
「――あ、すみません。短期の依頼で、できれば体力をそこまで使わなくて、時間である程度区切れるようなものはありますか?」
受付嬢にそう問いかけながら、私はギルドの掲示板に並ぶ羊皮紙に目を走らせる。
結果から言うと、彼女の仕事探しは拍子抜けするほどあっさりと「保留」になった。彼女がこの国に到着する具体的な日程がまだ決まらない以上、ギルド側も確実なポストを用意できないのは当然だった。
結局、私は彼女がいつ来ても出迎えられるよう、日雇いに近いギルドの雑用(魔導具の簡単なメンテナンスや書類整理)を繋ぎとして引き受けることにした。重要ではない、ただの時間を埋めるための作業。それでも、彼女との新生活を思えば、どんな退屈な作業も苦にならなかった。
(もしくは、『Viculus』に似たような場所で働いてもらうものありか?……。私が住んでる場所にも繁華街はあるし、彼女は可愛いから人気でるかもな……、よし!そうと決まれば繁華街で聞いてみるか)
異国の女性たちが働く社交場でオーナーに聞いてみると、やはり大歓迎みたいだ。まず慣れた仕事でここでの生活に慣れてもらい少しずつ仕事を変えるのもありだな……
そんなことを考えながら自分の仕事をこなし、彼女の仕事を探し続けているうちに、瞬く間に季節が流れた。
もうすぐ年末。都会のせわしない空気のなか、空からハラハラと白いものが落ちてきた。
(あ……雪だ)
新居の窓から外を見つめ、私は小さく息を吐いた。真新しい板張りの床は、今ではすっかり私の生活に馴染んでいる。
ふと、前の国で泥のように働かされていた彼女の姿を思い出す。一年中、じっとりとした暑さに包まれたあの南国で、彼女は雪なんて見たことがあるだろうか。きっとない。毎晩のようにお客に煽られ、身体を壊すまでお酒を飲まされていた彼女に、こんなに静かで、綺麗な景色を見る余裕なんてあるはずがなかった。
「ここへ来たら……一番に、この雪を見せてあげたいな」
そんな独り言を呟いた、まさにその時だった。
机の上で、静かに眠っていた魔導通信機が、冷たい通知音を響かせた。
跳ね起きるようにして画面へ飛びつく。彼女からのメッセージだった。
しかし、液晶に浮かび上がった淡い魔導文字を目にした瞬間、私の視界は、外の雪景色よりも白く、凍りついた。
『ごめんなさい。そっちへ行けないかも』
『お父さんが、急に亡くなっちゃったの。お葬式のお金が、どうしても捻出できなくて……どうしたらいいか分からないの』
画面の文字を見つめたまま、私の思考は急速に冷えていく。
一年中、じっとりとした暑さに包まれたあの南国だ。人が亡くなれば、またたく間に遺体の損傷が始まる。まともな葬儀を行い、魂を安らかに眠らせるための「防腐の儀式」には、莫大な聖魔力が必要だった。
だが、あそこの医療魔術で彼女の魔力は枯渇し、看病していた母親もとうに限界のはずだ。今すぐ儀式を行わなければ、父親の遺体は尊厳すら守られず、法律によって無慈悲に処理されてしまう。
都会のギルドで稼いだ現金を送る? いや、間に合わない。国境を越える遠隔送金には、またあの大聖堂の回線手数料がかかる上に、手続きに何日も費やしてしまう。
ならば、答えは一つしかなかった。
(魔力だ。私の魔力を、またあの送金陣から直接、現地の教会の祭壇へ送り込む……!)
国境を越える転送は、途中の魔導回路で半分以上が霧散する。葬儀の防腐出力を維持するためには、前回の術後でまだ癒えきっていないこの身体から、ふたたび限界以上の生命魔力を絞り出さなければならない。
――カチ、、カチ、、カチ。
胸の奥で、嘘のように静まり返っていた不穏なメトロノームが、再び狂ったように秒読みを始めた。
「待ってろ……今、送るから」
彼女の父親の尊厳を守るため、そして何より、異国の地で一人、冷たい絶望に震えている彼女を救うため。私は真新しい上着を掴み、あの冷淡で事務的な『中央聖堂』の窓口へと向かって、雪の降り始めた都会を再び走り出した。
息を切らせて飛び込んだ深夜の『中央聖堂』は、あの日と変わらず、冷淡な静寂に包まれていた。
窓口に並ぶ人々の背中を追い越し、私は手持ちの硬貨を受付へと叩きつける。事務的な聖職者の対応を待つ時間すら、今の私には拷問に等しかった。
「??……――国境越えの遠隔送魔ですね。では、そこの魔力測定器に両手を」
一瞬、受付の聖職者が私の顔を見て動きを止めた。数日前、死に体になりながら限界以上の魔力を送っていった男だと気づいたのだろう。だが、彼はすぐに何事もなかったかのように無機質な対応へと戻った。
デジャヴのような無機質な声に促され、私は鈍く光る魔法陣へと両手を突き入れる。
瞬間、身体の奥底から熱が、生命力が、容赦なく引き抜かれ始めた。
だが、今回は前回のときのような鮮烈な痛みはなかった。代わりに襲ってきたのは、骨の髄まで染み渡るような、深く、重い疲労感だ。
前回の術後から、私の身体はまだ完全に回復しきっていなかったのだ。空っぽになりかけていたバケツの底を、さらに無理やり抉り取られるような感覚。視界がかすみ、膝の力が抜けかける。
(……くそ、やっぱりまだ、身体が戻ってない……!)
頭の芯が酷くぼんやりとして、周囲の音が遠のいていく。それでも、私は歯を食いしばり、魔法陣へと意識を注ぎ続けた。南国の、あのじっとりとした暑さの中で、一人泣き崩れている彼女の姿をただ必死に思い浮かべながら。
どれほどの時間が経っただろうか。
カチ、と魔法陣の光が収束し、受付の聖職者が「――送魔、完了しました」と淡々と告げた。
その声を聞いた瞬間、私は大理石の床に這いつくばりそうになるのを、かろうじて壁に手を突いて堪えた。指先ひとつまで完全に感覚がなくなっている。
魔導通信機の画面を見れば、送信完了を示す淡い魔導文字。
(……届いた。これで、お父さんは守れる……)
そこからの家路の記憶は、ひどく曖昧だった。
雪が激しさを増していく都会の夜道を、まるで幽霊のように、ただ足を前に動かすことだけに集中して歩いた。新居のドアを開け、真新しい板張りの床にたどり着いた瞬間、私は上着も脱がずにその場へ倒れ込んだ。
体温が奪われ、身体の芯まで冷え切っているというのに、不思議と胸の奥のメトロノームは、静かに、優しく、泥のような眠りへと私を誘うテンポを刻んでいた。
画面の向こうの彼女が、少しでも救われていることを願いながら、私は深い闇の中へと意識を沈めていった。




