真新しい床と、届かない既読
私の住んでいた田舎とは、まとう空気がまるで違っていた。
彼女がこの国へ来る。あとは渡航許可書の手続きが終わるのを待つだけ。そのわずかな猶予の間に、私は彼女を迎え入れるための完璧な城を築く必要があった。
都会で見つけた新しい家。仕事の見つけやすさを最優先に選んだその部屋の、真新しい板張りに差し込む夕日を、私は魔導通信機で撮影して彼女に送る。
(きっと、喜んでくれるはずだ)
画面の向こうの笑顔を想像すると、胸の奥で小さなメトロノームがせっかちなテンポを刻み始める。その鼓動すら愛おしかった。
引っ越しの片付けが夜遅くにようやく一段落し、静寂が部屋を満たす。ふと、床に置いた魔導通信機に目をやった。
まだ、既読が付いていない。
胸のメトロノームの刻みが、わずかに不穏なリズムへと変わる。
(……きっと、毎晩のようにお客に煽られてお酒を飲み、泥のように眠り込んでいるのだろう)
その時は、自分にそう言い聞かせて苦笑する余裕があった。
だが、一日が過ぎ、二日が過ぎ、三日が経っても、画面の文字は色を変えない。一向に付かない既読。
静まり返った新居の中で、冷たい不安が澱のように足元から這い上がってくる。普段から彼女は小さく咳き込んでいた。まさか、何か重い病気にでも。あるいは、不慮の事故にでも巻き込まれたのではないか。
暗い部屋の真ん中で膝を抱え、絶望の深淵に落ち込みかけていた、その時だった。
――ブー、ブー。
突如、魔導通信機が生き物のように激しく震えた。
「来た!!」
弾かれたように画面を覗き込む。やっぱり、少し体調を崩して寝込んでいただけなんだ。そう自分に言い聞かせようとした私の視界が、次の瞬間、凍りついた。
送られてきたのは、言葉ではなかった。
赤黒い血がべっとりと染み込んだ布。そして、冷たい地面に不規則に広がる生々しい血溜まりの写真。
視界がぐにゃりと歪んだ。血の気が一気に引き、指先から急速に体温が失われていく。さっきまでうるさいほどに鳴り響いていた胸のメトロノームが、一瞬で壊れたように動かなくなった。呼吸の仕方を忘れた私に、追い打ちをかけるように冷酷な魔導文字が浮かび上がる。
『母です。彼女の代わりに打っています。彼女は今、国境の『王立ルミナス出入国管理・特級療養院』に緊急搬送されました。連晩の飲酒が祟り、激しく吐血したのです。これから、命に関わる手術が必要になるかもしれません』
震える指で、私は文字を打ち返す。一文字打つごとに、心臓が爆発しそうだった。
『手術をすれば、絶対に助かるの……!?』
『わかりません。ただ、非常に危険な状態です』
私は無機質な都会の天井を見上げた。その視線の先にあるはずの神へ、届かぬ呪詛を吐き捨てる。
(マーレ様、あなた達は私を……私達を幸せにしてくれるのではないのですか!? それとも、これも試練だと言うのですか!)
彼女は私の全てだ。彼女を失う世界など、絶対に存在してはならない。私の家族や友達も彼女を心待ちにしている
(これがあなたからの試練だと言うなら、私は神の喉元を食い破ってでも、乗り越えてみせる!)
時間は一刻を争う。私はすぐさま画面に指を走らせた。
『いくら必要なの?』
金なら働いて貯めた分がある、問題ない。だが、返ってきた母親の言葉は、私の予想を裏切るものだった。
『お金は、大聖堂への回線手数料として金貨四枚もあれば足りるのです。ですが……圧倒的に魔力が足りません。この国の医療魔術は、術者だけでなく患者本人の生命魔力を激しく消費する。彼女の魔力は、もう枯渇しかけているのです』
魔力。
その単語が脳裏に弾けた瞬間、全身の血が逆流するような衝撃が走った。
(魔力?……魔力なら、この身体に有り余るほど溢れている……!)
私は真新しい新居を飛び出し、夜の都会を狂ったように走り出した。目指すは、この街で最も巨大な『中央聖堂・大口魔導送金陣』の窓口だ。
冷たい大理石の床、そして深夜にもかかわらず淡々と並ぶ長蛇の列。溢れる焦燥感とは裏腹に、大聖堂の窓口は徹底的に事務的で、非情だった。
「――国境越えの遠隔送魔ですね。手数料として、まず銀貨一枚を」
深夜の中央聖堂。並んだ長蛇の列の先で、受付の聖職者は私の顔も見ずに冷淡な手を差し出してきた。私は焦る心を落ち着かせようと息を呑み、握りしめていた銀貨をその掌へ滑り込ませる。
「はい、確かに。では、そこの魔力測定器に両手を」
言われるがままに、鈍く光る魔法陣へと両手を突っ込んだ。
その瞬間、身体の芯から生命力をじわりと引き抜かれるような、奇妙な喪失感が走った。痛いというより、体内の空気を一気に吸い出されるような不快感に、思わず奥歯が鳴る。じわり、と視界の端がかすんだ。
だが、容赦なく魔力を吸い上げ続ける魔法陣の数値を一瞥し、受付は無感情に言い放った。
「基準値に達していませんね。あと銀貨二枚分の魔力を補填してください」
「――な、おい、嘘だろ? これだけ吸われて、まだ足りないのか!?」
思わず声を荒らげた私に、聖職者は眉ひとつ動かさずに告げる。
「当然です。国境を越える遠隔転送は、途中の魔導回路で半分以上が霧散しますから。補填できなければ転送は失敗、先ほどの手数料も返金されません」
都会のシステムは、どこまでも事務的で非情だった。理不尽な要求に目の前が暗くなりかける。だが、異国の『王立ルミナス出入国管理・特級療養院』で、血を流して倒れている彼女の姿が脳裏をよぎった。ここで引き下がるわけにはいかない。
「……チッ、これで足りるか!」
私は舌打ちを噛み殺し、体内の魔力の底をぐっと押し出すように、魔法陣へとさらに深く意識を注ぎ込んだ。




