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空と海の淵、彼女の掌

次に彼女と顔を合わせたとき、私は何を言えばいいのか分からなかった。

怒りもあった。

悲しみもあった。

裏切られたという感覚も、確かにあった。

だが、それらは胸の奥で絡まり合い、言葉になる前に崩れていく。

店に入ると、彼女はすぐに私に気づいた。

一瞬だけ視線を逸らし、それから――

苦笑いを浮かべた。

謝罪はなかった。

言い訳もなかった。

まるで、私が勝手に傷つき、勝手に戻ってきただけだと言わんばかりの、静かな表情だった。

そして彼女は、何事もなかったかのように手を差し出した。

その仕草は、あまりにも自然だった。

私は一瞬だけ、迷った。

高級宿の天井。

動かない魔導通信機。

減っていく貨幣。

金貨四枚。

二週間。

すべてが、喉元までせり上がった。

それでも――

私は、その手を握った。

温かい。

あの日、初めて会った時と同じ温度だ。

そのぬくもりが、私の怒りを溶かした。

いや、怒りだけではない。

私の誇りも、疑念も、そしてわずかに残っていた自尊心も、

音もなく、溶けていった。


『握手』


それが、私たちの仲直りの儀式だった。

もっと問い詰めるべきだったのかもしれない。

もっと怒るべきだったのかもしれない。

だが、その瞬間、私の胸を満たしたのは怒りではなかった。


(よかった……)


ただ、それだけだった。

彼女を失わずに済んだ。

また笑ってくれる。

また隣にいられる。

それだけで、胸が震えるほど救われた。

自国の山々を歩き、「執着を捨てる」と唱え続けたはずの私が、今は一人の女性への執着に救われている。

山で唱えた共鳴詠唱よりも、

聖地で押した聖印よりも、

目の前のこの掌のほうが、

私にはずっと尊かった。


(……これでいいんだ)


そう自分に言い聞かせながら、私は心の中で必死に理屈を編んでいた。


(これは試練なのかもしれない……)


大聖女マーレ様は愛する者にこそ沈黙を与える。

私の愛が、金貨程度で揺らぐかを試しているのだ。


(彼女とは国も文化も違うのだから、これでいい)


時間にルーズなのも、気まぐれなのも、異国の奔放さゆえ。

それを理解できない私が狭いのだ。

そうして私は、誇りの傷口に麻酔を塗り込み、

再び、自分を騙すことに成功し、彼女の隣に座った。


彼女のペースで。

彼女の沈黙で。

彼女の世界で。

この先に何が待っているのか、考えないようにした。


――私の金貨は「空」へ昇り、心は「海」に沈んでいった


1200kmを歩き、マーレ様と二人で目指したはずの境地。

だが、そこに辿り着く前に私を救い上げたのは、あの日、聖女すら否定して握りしめた、彼女の掌のぬくもりだった。


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