金貨四枚の静寂と、冷たい三文字
私は魔法学校の傍らに立つ魔導師御用達の高級宿の、天井を見つめていた。
本来なら今頃、山頂の丘から宝石箱をひっくり返したような夜景を、彼女と二人で眺めているはずだった。
だが、彼女は来なかった。
約束から二時間。受信を示す紋章が灯らない魔導通信機を握りしめ、私は結局、予約していた部屋へ一人でチェックインした。
一泊金貨二枚。この国の物価では最高級の贅沢だ。だが、糊のきいた清潔なリネンも、広すぎる寝床も、今の私には悪意に満ちた皮肉にしか思えない。私はただ、一銭の得にもならない静寂を買うためだけに金貨二枚をドブに捨てた男として、そこに横たわっていた。
夜の十時を回った頃、ようやく魔導通信機が震えた。
『本当にごめんなさい。昨日、お店でお酒を飲みすぎて、そのまま倒れるように寝てしまったの……』
文面から、彼女の日常が透けて見える。若く細い体で酒を煽り、客をあしらう過酷な夜。
(……そうか、それなら仕方ない)
私は自分を納得させるための材料を、彼女の言い訳の中から必死に掻き集め、無理やり瞼を閉じた。金貨二枚は、彼女への「同情代」だと自分に言い聞かせて。
だが、地獄は繰り返された。
翌週、私は再び同じ宿の、同じ天井を見つめることになった。
二度目の反故。既読のつかない画面。そして、一字一句違わぬ言い訳の魔導文字。
私の奥底で、何かが冷たく冷えていくのが分かった。そこへ、謝罪を上書きするように「追撃」が届く。
『今日は『Viculus』にくる?』
それは、あまりに無機質な営業だった。
私がこの二晩、彼女を信じようとして飲み込んできた惨めさも、金貨四枚という大金の重みも。
彼女にとっては、飲みすぎてこぼした酒程度の価値もなかったのだ。
その無神経な一通に対し、私は震える指で『なぜ?』とだけ返した。
せめてもの抵抗、魂を振り絞った問いかけだった。だが、返ってきたのは、魂を凍らせる一言だった。
『別に……』
……愕然とした。私の怒りも、悲しみも、二晩の孤独も、すべてが「別に」という三文字の塵として切り捨てられたのだ。
しばらくの間、私は通信機を放り出し、暗い部屋で頭を抱えていた。こんなにあっけなく、すべてが終わってしまうのか?
だが、沈黙の重圧に耐えかねたのは、やはり私の方だった。
『なぜ、謝れないの?』
送信。既読。返信はない。
闇の中で冷たく発光する画面を見つめ続ける時間は、針の山を歩かされる拷問に等しかった。
(このまま終わるのは嫌だ。彼女を失いたくない)
聖地巡礼で学んだはずの自制心はどこへ消えたのか。私はプライドを土足で踏みにじり、媚びを売るようなメッセージを打ち込んでしまった。
『……『Viculus』に行ったほうがいい?』
その瞬間、彼女の猛攻が始まった。
『来なくていい!』
『あなたは別の女のところへ行くんでしょ!』
支離滅裂だった。 約束を反故したのは彼女で、誠意を示すべきも彼女だ。それなのに、彼女は「私が浮気をする」という根拠なき濡れ衣をこちらに被せ、被害者の座を鮮やかに奪い取った。
私はパニックに陥り、彼女が仕掛けた蟻地獄の底へ、自ら滑り落ちていった。
『いや! 違う! 私が愛してるのは、君だけだ!』
指先が汗ばみ、画面が滑る。綴りを間違えるたびに、彼女との絆が崩れ落ちていくような強迫観念に駆られた。私は、自分がどれほど情けない言葉を並べているかを自覚しながら、その愛の言葉を送信してしまった。
金貨四枚の重みも、二度の裏切りも、今の私には関係なかった。
ただ、彼女に嫌われたくない。
その一心で、私は自分を惨めに貶めながら、彼女という毒に溺れていった。




