銀貨4枚の純真
周囲の喧騒が、まるで深い海の底に沈んだ時のように、ぼんやりと遠のいていった。
彼女は、媚びを売るような笑みを浮かべてはいなかった。ただ、迷子のような、あるいは全てを見透かしたような純粋な瞳に光を宿して、私を見ていた。
なぜ、彼女だったのか。
圧倒的に綺麗だったからか? それとも、彫刻のようなスタイルに目を奪われたからか?
……いや、そんな綺麗な理由ではない。
理由を脳で考えるより先に、私の本能が、泥のような執着とともに疼いていた。
彼女の露出した肌のあちこちに刻まれた、毒々しくも美しいタトゥーの群れ。その冒涜的な文様を見た瞬間、自分でも理解しがたい暗い興奮が、背筋を這い上がってきたのだ。
あるいは、ただ単に彼女が私の正面にいたという、無機質な偶然に過ぎなかったのかもしれない。
自分でも何が正解なのか分からぬまま、気がついた時には、私は吸い寄せられるように彼女の手を取り、自分の隣へと引き寄せていた。
指先が触れ、彼女を隣に引き寄せた瞬間。
世界から、すべての音が剥ぎ取られた。
爆音の音楽も、客たちの下卑た笑い声も、厚い鉛の壁の向こう側へ追いやられたように聞こえない。
この騒がしい夜の底で、私たちの周りだけが、まるで時間が凍りついたような無音の真空に包まれていた。
私の隣に座った彼女は、それまでの挑発的な視線が嘘だったかのように、ふいと顔を伏せた。
握りしめた彼女の手は、驚くほど小さく、そして頼りなげに震えていた。
さっきまでの「暗い興奮」は、いつの間にか、喉を焼くような切実な熱情へと変貌していた。
軽く握手を交わし、互いの名を告げた。その時、彼女からこぼれ落ちた言葉は、私の予想を裏切るものだった
「このタトゥー………モデルの仕事で入れてるの」
彼女は少しはにかんで笑った。指定された絵柄を肌に刻むことで、小遣い稼ぎをしているのだという。夜の仕事だけでは足りず、自分の身体をキャンバスに変えてまで、彼女はたった一人で家族の生計を背負っていた。
自国の山々を歩き、大聖女の教えを学んできた私の心に、激しい衝動が突き刺さる。
(この子を、助けてあげなければ)
それはもはや下心を超えた、歪んだ「慈悲」だった。私は彼女のために酒を注文した。グラスを掲げ、子供のように無邪気にはしゃぐ彼女の姿を見て、私はわけもわからず目頭が熱くなるのを感じていた。
やがて別れの時間が訪れる。恐る恐る伝票を覗き込み、私は自分の目を疑った。
わずか銀貨4枚……
「……なんて健気なんだ」
客である私に負担をかけまいと、彼女は注文を最小限に抑えてくれていたのだ。
異国の夜、私はかつてない「尊いもの」に触れた充足感に包まれていた。
「また、来週も来るよ」
再会を約束し、店を出る。夜風が火照った頬に心地よい。そして私にはある予感があった。
(多分、私はこの子と結婚するだろう……)
そんな、確信に近い予感があった




