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夜の修行

数日間の静寂、そして漆黒の山嶺。

私の感覚は、木々のざわめきと足元の泥の感触だけに削ぎ落とされていた。だが、峠を越えた私の目に飛び込んできたのは、神の奇跡よりも鮮烈な、不夜の都ファウケス・マリスの光芒だった。

「……なんだ、この輝きは」

魔導ランプが惜しげもなく灯され、街全体が虹色の熱を帯びている。

田んぼ道で聞き飽きたカエルの合唱に代わり、喧騒と、甘い香水の匂いが鼻腔を突く。

その街角、ひときわ淫らな桃色の光を放つ看板の前に、私は吸い寄せられていた。

(……待て。私は巡礼者だ。こんな場所、修行の身には毒でしかない)

脳内の大聖女マーレが警鐘を鳴らす。しかし、別の自分がそれ以上に雄弁な理屈を並べ立てた。

(いや、これもまた修行ではないか? 孤独を知るだけが巡礼ではない。人の欲望が渦巻く深淵に身を置き、それでもなお己を失わないこと――それこそが、真の『精神の荒行』ではないのか?)

一度「これは修行だ」という結論に達してしまえば、あとは早かった。

私は聖印帳を懐深く隠し、服の汚れを軽く払うと、まるで魔王の城へ乗り込む勇者のような悲壮な決意を込めて、その扉を押し開けた。

「……これも、天から与えられた試練なのだ」

そう呟く私の頬は、期待と酒精の予感で、すでに火照り始めていた。


私は、街の喧騒から一歩踏み込み、妖しく瞬く漆黒の扉を押し開けた。

そこは、磨き抜かれた美貌を持つ乙女たちが、言葉巧みに巡礼者の魂を掠めていくという「魔性の園」

(……見せてやる。幾多の霊山を越え、煩悩を振り落としてきた我が修行の成果を)

神聖なる聖印帳を懐に、私は不遜な笑みすら浮かべて席に着いた。

目の前に現れたのは、香油を纏い、夜の月よりも甘く囁く美しき案内人。

彼女が傾ける金色の酒杯が、魔導ランプの光を反射してキラリと跳ねた。

「――ようこそ、疲れ果てた旅人様」

その一声を合図に、私の意識は急速に遠のいていく。

……。

…………。

次に私の意識が浮上したのは、白々と明け始めたファウケス・マリス路上だった。

そこからの約五時間、私の記憶には一切の断片すら残っていない。

ただ、一つだけ確かな事実があった。

昨日まであれほどずっしりと重かった私の財布が、今は風に舞う木の葉よりも軽くなっていたこと。

そして、記憶を失ったはずの私の指先からは、なぜか高級な香油と、甘い酒精の残り香が漂っていたことだ。

「……これも、また……試練、なのだ……」

震える声でそう呟く私を、早起きのカラスが冷笑するように見下ろしていた。

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