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欠落の肖像  作者: 諸藤 海都


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第4章 消えた七人目

宮原修一は、しばらくカウンターの上の写真を見つめていた。


 店の奥から、古い時計の秒針が進む音が聞こえる。


 私は返事を急がせなかった。


 沈黙には二種類ある。


 答えを探している沈黙と、答えを選んでいる沈黙だ。


 宮原のそれがどちらなのか、今はまだ判断できなかった。


【……何枚も撮りましたよ】


 やがて、彼はそう言った。


「何枚も?」


【ええ。卒業前の記念写真ですからね。みんなで何枚か撮ったんです】


「では、撮影したのは宮原さんご自身で間違いありませんか」


【そうです】


 私は一枚目の写真を指さした。


「こちらに写っているのも、宮原さんですよね」


【ええ。若い頃の私です】


「セルフタイマーを使われたんですか」


【そうです】


「なるほど」


 私はうなずいた。


 二十年前であっても、セルフタイマー付きのカメラは珍しくなかった。


 写真部に所属していた人間なら、なおさら使い慣れていただろう。


 宮原の説明に、不自然なところはない。


 ただ、一つ気になることがあった。


「撮影に使ったカメラは、まだお持ちですか」


【……さあ。昔のことですから】


「機種は覚えていらっしゃいますか」


【そこまでは】


 宮原は短く答えた。


 私はそれ以上追及せず、鞄からスマートフォンを取り出した。


「では、もう一枚、見ていただきたい写真があります」


【写真?】


「ええ」


 画面には、佐伯さんから送ってもらった三枚目の集合写真が表示されていた。


 最初の二枚とは違い、相沢透の姿そのものが消えている写真だ。


 私は画面を宮原に向けた。


「こちらも、宮原さんが撮影されたものですか」


 宮原は画面を見た。


 そして、動きを止めた。


 先ほどまで眼鏡の位置を直していた右手が、宙で止まる。


【……これは】


「相沢さんが写っていない写真です」


 宮原は答えなかった。


 私は画面を少し近づけた。


「同じ場所で撮影されています。人物の配置も、ほとんど変わりません。ただ、中央にいたはずの相沢さんがいない」


【どこで、これを?】


「依頼主からです」


【……佐伯さんが?】


「ええ。正確には、彼女の知人から送られてきたものだそうです」


 宮原はスマートフォンから目を離さなかった。


 画面の中では、七人の高校生が校舎の前に並んでいる。


 相沢透が立っていたはずの場所には、背景の壁が写っていた。


「何か、ご存じですか」


 宮原は、ゆっくりと首を横に振った。


【いいえ。初めて見ました】


「そうですか」


 私はスマートフォンを引いた。


 その瞬間、宮原の視線が画面を追った。


 ほんのわずかな動きだった。


 だが、私は見逃さなかった。


 彼は、この写真をもう少し見ていたかったのではないか。


 そう思った。


 もちろん、これも推測にすぎない。


「宮原さん。写真を現像したとき、相沢さんの顔は普通に写っていましたか」


【……ええ】


「間違いありませんか」


【普通の写真でしたよ】


「その後、何か変わったことは?」


【覚えていません】


 私は一度、口を閉じた。


 宮原は写真を現像したという。


 そして、相沢の顔は正常に写っていたという。


 ならば、現在の二枚に見られる白い部分は、現像後に生じたことになる。


 ただし、宮原の証言が正しければ、の話だ。


 私はメモ帳を開いた。


「もう一つ、お聞きします」


【何でしょう】


「写真の裏側に書かれていた数字です」


 私は「247」と書いたページを見せた。


「この数字に、見覚えはありますか」


 宮原は一瞬、目を細めた。


【……写真の番号でしょう】


「番号?」


【当時はフィルムで撮影していましたからね。現像した写真を整理するために、番号を書くことがあったんです】


「なるほど。では、247というのは?」


【さあ……そこまでは覚えていません】


 私はメモ帳を閉じた。


 写真の整理番号。


 あり得る説明だった。


 しかし、同じ日に撮影されたもう一枚には、番号がない。


 なぜ一枚だけに書かれているのか。


 その疑問は残ったままだった。


「分かりました。今日はありがとうございました」


【いえ】


 私は写真を鞄に戻し、出口へ向かった。


 扉の取っ手に手をかけたとき、背後から声がした。


【あの】


 私は振り返った。


「何でしょう」


【佐伯さんは……お元気ですか】


「ええ。お元気そうでしたよ」


【そうですか】


 宮原は小さくうなずいた。


 その表情には、わずかな安堵が浮かんだように見えた。


 私は会釈し、扉を開けようとした。


 しかし、再び呼び止められた。


【……あの写真】


「はい?」


【あまり、光に当てない方がいいですよ】


 私は手を止めた。


「なぜです?」


【古い写真は、傷みやすいですから】


「なるほど。お気遣い、ありがとうございます」


 今度こそ店を出た。


 背後で、小さなベルが鳴った。


     *


 外は曇っていた。


 古い商店街には人影が少なく、遠くから踏切の警報音だけが聞こえていた。


 私は駅へ向かって歩きながら、宮原の言葉を思い返していた。


 古い写真は、光に当てない方がいい。


 その忠告自体は正しい。


 印画紙は保存状態によって劣化する。強い光を長期間浴びれば、退色が進むこともある。


 しかし、なぜ宮原は、あの場面でわざわざ忠告したのだろう。


 彼は最初、相沢の顔が白くなった理由を、単なる色あせだと説明していた。


 その後、三枚目の写真を見せると、明らかに反応を変えた。


 そして最後に、光に当てるなと言った。


 それぞれを別々に考えれば、何もおかしくない。


 だが、続けて聞くと、どこか引っかかる。


 私は歩みを止めた。


 写真に関する専門知識を持つ宮原が、単なる退色だと考えているのなら、なぜ三枚目を見てあれほど驚いたのか。


 いや。


 驚いたと決めつけるのは早い。


 彼は、相沢のいない写真を初めて見たと言っていた。


 その言葉が本当なら、反応は自然だ。


 問題は、彼が本当のことを話しているかどうかだった。


 私は鞄の口を閉じた。


 そのとき、スマートフォンが震えた。


 佐伯さんからのメッセージだった。


『先生、すみません。昨日お見せした三枚目の写真なんですが、送ってくれた友人と連絡が取れなくなりました』


 私は画面を見つめた。


 続けて、もう一通届いた。


『それと、変なことを言うようですが……』


 少し間が空いた。


『あの写真を送ってきたのが誰だったのか、確認できなくなっているんです』


 私は眉をひそめた。


 確認できなくなっている。


 それは、どういう意味だろう。


 連絡先が消えたのか。


 送信履歴がなくなったのか。


 それとも、佐伯さん自身が送信者を思い出せなくなっているのか。


 私は返信を打とうとした。


 その瞬間、新しい画像が一枚届いた。


 私は指を止めた。


 画面に表示されたのは、見覚えのある校舎だった。


 大きな窓。


 中庭の木々。


 制服姿の高校生たち。


 三枚目の集合写真だった。


 相沢透が写っていない、あの写真。


 しかし、私はすぐに違和感を覚えた。


 何かが違う。


 昨日、佐伯さんのスマートフォンで見たときとは、明らかに印象が異なっていた。


 私は画面を拡大した。


 そして、気づいた。


「……一人、足りない」


 写真の左端。


 眼鏡をかけた宮原修一が立っている。


 その隣に、昨日までは女子生徒がいたはずだった。


 だが、今は誰もいない。


 私は指先で画像を拡大し、さらに確認した。


 女子生徒が立っていた場所には、校舎の壁が写っている。


 足元の地面も、後ろの窓も、自然につながっていた。


 誰かが切り抜かれたような不自然な境界は見当たらない。


 まるで、最初からそこに誰も立っていなかったかのようだった。


 私は鞄から二枚の写真を取り出した。


 近くの建物の軒下で、印画紙とスマートフォンを見比べる。


 最初の写真には、八人。


 二枚目にも、八人。


 昨日の三枚目には、七人。


 そして、今届いた画像には――


 六人しかいなかった。


「……これは」


 私は小さくつぶやいた。


 最初に消えたのは、相沢透だった。


 そして今度は、宮原の隣に立っていた女子生徒。


 私は写真をもう一度見た。


 もし、誰かが意図的に加工しているのなら、何のために人数を減らしているのだろう。


 そして、なぜわざわざ佐伯美紀に送りつけるのか。


 私は画面を閉じた。


 遠くで踏切の警報音が鳴り続けていた。


 その規則的な音が、妙に耳に残った。


     *


 写真店からの帰り道、私は駅前の喫茶店に入った。


 窓際の席に座り、コーヒーを注文する。


 店内には静かな音楽が流れていた。


 私はスマートフォンを取り出し、佐伯さんから届いた画像を開いた。


 六人の高校生。


 中央には、相沢透が立っていたはずの空間。


 左端には、宮原の隣にいた女子生徒が消えた空間。


 奇妙なのは、二人がいなくなったことで、残された生徒たちの立ち位置が不自然に見えることだった。


 集合写真なら、普通は互いの間隔をある程度詰める。


 しかし、この写真では、何もない場所を挟んで生徒たちが並んでいた。


 その空間は、誰かがそこに立つことを前提としているようにも見えた。


 私は佐伯さんに電話をかけた。


 三回目の呼び出し音で、電話がつながった。


『もしもし、先生』


「佐伯さん。写真を確認しました」


『……どう思われますか』


「まず、いくつか確認させてください」


『はい』


「昨日の画像と、今日の画像は、同じ方から送られてきたものですか」


『そのはずなんです。でも……』


「でも?」


『昨日のメッセージが、見当たらないんです』


「削除されたということですか」


『分かりません。昨日、確かに画像を受け取ったんです。先生にも見せましたよね』


「ええ。拝見しました」


『でも、今朝確認したら、そのやり取り自体がなくなっていて』


 私は窓の外を見た。


 向かいの建物の屋根から、雨水がぽたぽたと落ちている。


「送信者のお名前は?」


『……それが、思い出せないんです』


「思い出せない?」


『顔も、名前も、はっきりしなくて。昔の同級生だったことは覚えているんですけど』


 私は少し考えた。


 記憶というものは、本人が思うほど確かなものではない。


 二十年前の同級生の名前を忘れていても、何ら不思議ではない。


 しかし、昨日連絡を取った相手の名前まで思い出せないというのは、少々気になる。


「佐伯さん。写真に写っている女子生徒の名前は、分かりますか」


『ええ。たしか……』


 電話の向こうで、紙をめくる音がした。


『……あれ?』


「どうされました?」


『名前が、出てこないんです』


「二十年前のことですからね」


『でも、昨日までは覚えていたんです』


 私は返事をしなかった。


『先生、変なことを言ってもいいですか』


「もちろんです」


 佐伯さんは、少し声を落とした。


『写真から人が消えるたびに、その人のことを思い出せなくなっている気がするんです』


 私はテーブルの上のコーヒーに目を落とした。


 湯気は、もうほとんど立っていなかった。


「佐伯さん。写真は記憶を保存する道具ですが、記憶そのものではありません」


『……はい』


「今起きていることを、すべて一つの原因で説明しようとしない方がいいでしょう」


『でも、偶然にしては……』


「ええ。偶然にしては、出来すぎています」


 私はそこで言葉を切った。


「ですから、順番に確認しましょう。まず、昨日の画像が本当に消えたのか。それから、送信者とのやり取りがどこに残っているのか」


『分かりました』


「それと、お願いがあります」


『何でしょう』


「二十年前の卒業アルバムは、まだお持ちですか」


『……あります』


「では、写真に写っている八人の名前を調べていただけますか」


『八人全員ですか?』


「ええ。分かる範囲で構いません」


 佐伯さんは、少し黙った。


『……先生』


「はい」


『もし、アルバムにも名前がなかったら、どうすればいいんでしょう』


 私は窓の外へ目を向けた。


 曇ったガラスの向こうで、通行人が傘を閉じていた。


「その場合は、名前がないという事実を確認しましょう」


『……分かりました』


 電話を切った。


 私はコーヒーを一口飲み、メモ帳を開いた。


 そこには、これまでに確認した事実が並んでいた。


 二十年前の失踪。


 二枚の写真。


 顔の消失。


 撮影者、宮原修一。


 裏面の数字、247。


 そして、三枚目の写真。


 私は最後に、新しい一文を書き加えた。


 ――写真から、二人目が消えた。


 ペン先を止める。


 そのとき、ある疑問が浮かんだ。


 佐伯さんは、写真から消えた女子生徒の名前を思い出せないと言った。


 だが、私はどうだろう。


 私はその女子生徒の名前を、まだ一度も聞いていない。


 昨日の写真には確かに写っていた。


 それは覚えている。


 しかし、どんな顔をしていたかと問われれば、答える自信はなかった。


 私は鞄から一枚目の写真を取り出した。


 八人の高校生が、校舎の前に並んでいる。


 左端には宮原修一。


 その隣には、一人の女子生徒。


 彼女は、はっきりと写っていた。


 短い髪。


 少し傾けた顔。


 胸元に添えられた右手。


 私は、その姿をじっと見つめた。


 そして、写真の裏側にある数字を思い出した。


 247。


 宮原は、写真を整理するための番号だと言った。


 もし、それが本当なら。


 同じ番号の付いた別の写真が、どこかに残されている可能性がある。


 私はメモ帳の「247」に丸をつけた。


 その下に、もう一つ書き加える。


 ――元のネガを探す。


 写真が何度加工されようとも、撮影当時のネガが残っていれば、少なくとも最初に何が写っていたのかは確認できる。


 問題は、そのネガがどこにあるかだった。


 私はスマートフォンを取り出した。


 宮原写真店の連絡先を表示する。


 電話をかけようとして、指を止めた。


 宮原は、写真について何かを隠しているかもしれない。


 だとすれば、こちらの目的を先に知らせる必要はない。


 私はスマートフォンを伏せた。


 窓の外では、再び細かな雨が降り始めていた。


 二十年前の写真から、一人、また一人と姿が消えていく。


 だが、少なくとも今、私の手元には八人が写った写真がある。


 私はそれを透明な袋に戻し、鞄の奥へしまった。


 次に調べるべきものは、決まった。


 二十年前のネガフィルム。


 そこに何が写っているのか。


 それを確かめるまでは、誰かが消えたなどと結論づけるつもりはなかった。


 私は席を立った。


 店を出る直前、スマートフォンが一度だけ震えた。


 佐伯さんからだった。


『先生、卒業アルバムを見つけました』


 続けて、もう一通。


『でも、おかしいんです』


 私は足を止めた。


 画面に、新しい文章が表示された。


『写真に写っているはずの子が、アルバムのどこにも見当たらないんです』


 私は、しばらくその文字を見つめていた。


 雨の音だけが、静かに続いていた。

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