第3章 247
佐伯美紀が事務所を出たのは、午後四時を少し過ぎた頃だった。
雨は、いつの間にか上がっていた。
窓の外では、濡れた電線に一羽の雀が止まっている。灰色の雲の隙間から差し込んだ夕日が、向かいの建物の窓を鈍く照らしていた。
私は机の上に並べた二枚の写真を眺めていた。
佐伯さんには、調査のために写真を数日間預からせてほしいと頼んでいた。彼女は少し迷ったが、最後には了承してくれた。
もっとも、彼女が迷った理由は理解できる。
二十年前に失踪した同級生の写真。それも、顔だけが白く抜け落ちたものだ。
持ち主にとっては、単なる古い印画紙ではないのだろう。
私は引き出しから虫眼鏡を取り出した。
まず、一枚目。
八人の高校生が、校舎の前に並んでいる。
左端には眼鏡をかけた男子生徒。
中央には、顔のない相沢透。
そして、二枚目。
人物の配置はほとんど変わらない。ただし、左端の男子生徒の指の形と、背景に映り込んだ木の枝がわずかに異なっている。
二枚は同じ写真ではない。
その事実は、すでに確認していた。
私は虫眼鏡を近づけ、相沢の顔を調べた。
白く抜けた部分には、目も鼻も口もない。
印画紙の表面に目立った傷は見当たらなかった。
何かで削り取られたようには見えない。
もっとも、表面が無傷だからといって、加工されていないとは限らない。
写真の状態を詳しく調べるには、専門家の意見が必要だろう。
私は虫眼鏡を少し動かした。
そのときだった。
「……妙ですね」
気になったのは、相沢の顔ではなかった。
その背後に写っている校舎の窓だった。
窓ガラスには、中庭の景色がぼんやりと反射している。
一枚目には、木々の影に混じって、細長い暗い部分が見えた。
ところが、二枚目にはそれがない。
私は写真を並べ直した。
撮影時刻が少しでも違えば、反射するものも変わる。通りかかった人間かもしれないし、風に揺れた枝かもしれない。
しかし、細長い影の輪郭は、周囲の枝とは少し異なっていた。
私はメモ帳を開いた。
――一枚目の窓に、細長い影。
それだけを書き留める。
影の正体を想像するのは簡単だ。
だが、想像は証拠にはならない。
私は虫眼鏡を置いた。
次に確認すべきことは決まっている。
撮影者だ。
佐伯さんによれば、写真を撮ったのは宮原という男子生徒だった。
写真部に所属し、現像も担当していたという。
しかし、彼自身も集合写真に写っている。
もちろん、それだけで矛盾が成立するわけではない。
セルフタイマーを使った可能性もある。別の人物にシャッターを押してもらった可能性もある。
あるいは、佐伯さんの記憶が間違っているのかもしれない。
二十年前の出来事を、正確に覚えている人間ばかりではない。
私は写真を透明な袋に戻した。
いずれにしても、宮原本人に聞くのが一番早い。
問題は、その宮原が今どこにいるかだった。
私は佐伯さんに連絡を入れ、宮原の現在の住所か連絡先を調べてもらえないかと頼んだ。
彼女は、昔の同級生に聞いてみると答えた。
電話を切ったあと、私は窓の外を見た。
雨上がりの道路を、一台の車がゆっくりと通り過ぎていく。
濡れたアスファルトに、赤い尾灯が長く伸びた。
その光を眺めながら、私はふと考えた。
相沢透は、失踪する前日、何度も写真の現像が終わったかを尋ねていたという。
彼は、何をそんなに急いでいたのだろう。
単に記念写真が欲しかっただけなのか。
それとも、写真に何かが写っていると知っていたのか。
机の上には、二枚の写真が残されていた。
八人の高校生たちは、二十年前の笑顔のまま、こちらを見つめている。
ただ一人を除いて。
*
翌日の午前十時。
事務所の電話が鳴った。
受話器を取ると、佐伯さんの声が聞こえた。
『宮原君の連絡先、分かりました』
「それは助かります」
『でも……少し気になることがあって』
「何でしょう」
電話の向こうで、短い沈黙があった。
『同級生に何人か聞いてみたんです。でも、宮原君のことを覚えている人が、ほとんどいなくて』
「二十年も経っていますからね」
『そうなんですけど……写真部だったことすら、覚えていない人がいたんです』
私は机の上にある集合写真へ目を向けた。
左端の男子生徒は、銀縁の眼鏡をかけ、少し控えめな笑みを浮かべていた。
「宮原さんは、あまり目立たない方だったんですか」
『ええ。静かな子でした。休み時間も一人でいることが多かったと思います』
「それなら、記憶が曖昧な方がいても不思議ではありませんね」
『でも、写真はよく撮っていたんです。学校行事でも、いつもカメラを持っていました』
私はペンを取った。
「宮原さんが写真を撮っていたことは、佐伯さんご自身も覚えているんですね」
『はい。それは間違いありません』
「分かりました。それで、今はどちらに?」
『隣町で、小さな写真店をやっているそうです』
「写真店?」
『はい。店の名前も聞けました』
私は住所と店名を書き留めた。
宮原修一。
二十年前は写真部員。
現在は写真店の経営者。
偶然なのかもしれないが、調査を進めるうえでは好都合だった。
「ありがとうございます。今日、訪ねてみます」
『私も一緒に行った方がいいでしょうか』
「いえ。まずは私一人で話を聞いてみます」
『……分かりました』
彼女の声には、わずかな不安が混じっていた。
『あの、先生』
「はい」
『宮原君に会えば、何か分かるでしょうか』
私はすぐには答えなかった。
「少なくとも、写真がどのように撮影され、現像されたのかは確認できると思います」
『そうですか……』
「分かったことがあれば、またご連絡します」
『お願いします』
通話が終わった。
私は受話器を置き、写真を鞄に収めようとした。
そのとき、指先に触れた印画紙が、ふと裏返った。
何気なく目を落とす。
裏面の隅に、何かが書かれていた。
「……ん?」
私は写真を持ち上げた。
薄い鉛筆の跡だった。
年月が経っているためか、文字はかなりかすれている。
窓際へ運び、光の角度を変えてみた。
三つの数字が浮かび上がった。
247
「二、四、七……」
私は声に出して読んだ。
何かの番号だろうか。
写真の管理番号。
現像の順番。
あるいは、撮影した日付の略記。
しかし、どれも推測の域を出ない。
私はもう一枚の写真も裏返した。
こちらには、何も書かれていなかった。
同じ日に撮影された二枚の写真。
そのうち一枚だけに、数字が残されている。
私はメモ帳に「247」と書き写した。
その下に、小さく疑問符をつける。
この数字が事件と関係しているとは限らない。
だが、意味が分からないからといって、無視する理由にもならなかった。
私は二枚の写真を慎重に袋へ戻した。
時計は午前十時半を指していた。
宮原写真店へ向かうには、ちょうどよい時間だった。
*
宮原写真店は、駅から徒歩十五分ほどの住宅街にあった。
古い商店が並ぶ通りの、一番奥。
周囲にはシャッターを下ろした店がいくつかあり、昼前だというのに人通りは少なかった。
店の前には、小さな青い看板が掲げられていた。
白い文字で、宮原写真店、と書かれている。
窓には家族写真が何枚も飾られていた。
七五三の子ども。
卒業証書を持った学生。
晴れ着姿の女性。
どれも、少し色あせている。
私はその中の一枚に目を止めた。
高校生らしい男女が、肩を並べて写っていた。
全員が笑っている。
何の変哲もない写真だ。
しかし、私はしばらくそれを眺めていた。
昨日から、写真というものを素直に見られなくなっている。
写っているものが、そこに存在した証拠になるとは限らない。
逆に、写っていないからといって、存在しなかった証拠にもならない。
私は扉に手をかけた。
小さなベルが鳴った。
店内には、古い紙と薬品の匂いが漂っていた。
壁には大小さまざまな額縁が並び、奥には暗室へ続くと思われる扉があった。
カウンターの向こうで、一人の男性が新聞を読んでいた。
白髪の混じった短い髪。
細い銀縁の眼鏡。
年齢は四十歳ほどだろう。
男性は新聞から顔を上げた。
【いらっしゃいませ】
私は軽く会釈した。
「こんにちは。宮原さんでいらっしゃいますか」
【ええ、そうですが】
「少し、お話を伺いたいことがありまして」
男性は私の顔を見た。
ほんの一瞬、眉が動いたように見えた。
【……写真のご相談ですか】
「ええ。二十年前の写真についてです」
その言葉を聞いた瞬間だった。
男性の表情が変わった。
驚いたというより、何かを警戒したような変化だった。
だが、それも一瞬のことだった。
【二十年前……ですか】
「はい」
私は鞄を開いた。
透明な袋に入れた二枚の写真を取り出し、カウンターの上に並べる。
男性は、それを見た。
そして、動きを止めた。
新聞を持っていた右手が、ゆっくりと下がる。
私は何も言わず、反応を待った。
やがて、男性は小さく息を吐いた。
【……懐かしいですね】
「覚えていらっしゃいますか」
【ええ。高校の卒業前に撮った写真です】
「こちらを現像したのは、宮原さんだと伺いました」
【そうです。学校の暗室で】
私はうなずいた。
「では、中央に写っている方もご存じですね」
男性の視線が、写真の中央へ移った。
白く抜け落ちた顔。
その周囲に残された髪と制服。
彼はしばらく、その部分を見つめていた。
【相沢……透】
「はい。二十年前に失踪されたそうですね」
【……ええ】
その返事には、驚きがなかった。
失踪した同級生の名前を聞いたのだから、驚かないこと自体は不自然ではない。
しかし、目の前にある写真は普通ではなかった。
顔だけが白く消えている。
その異常について、彼はまだ一度も尋ねてこない。
私は男性の顔を観察した。
彼は写真から目を離さず、何かを考えているようだった。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
【何でしょう】
「この写真、なぜ相沢さんの顔だけが白くなっているのでしょう」
宮原は眼鏡を外した。
カウンターの下から小さな布を取り出し、ゆっくりとレンズを拭く。
【古い写真ですからね。色が抜けたんでしょう】
「二枚とも、同じ人物の顔だけが?」
【偶然ということもあります】
「なるほど」
私は写真を見下ろした。
偶然。
確かに、可能性を完全に否定することはできない。
だが、現像の経験がある人間なら、もう少し具体的な説明をしてもよさそうなものだった。
私は一枚目を指さした。
「では、こちらをご覧ください」
宮原は眼鏡をかけ直した。
「この写真と、こちらの写真。少し構図が違いますね」
【……そうですね】
「何枚か続けて撮影されたんでしょうか」
宮原は答えなかった。
私は言葉を続けた。
「左端の人物の手の形が違います。それに、後ろの窓に映った木の枝も」
【よく見ていますね】
「仕事柄、細かいところが気になるもので」
私は左端の男子生徒を指さした。
「これは宮原さんですよね」
【ええ。若い頃の私です】
「すると、この写真は誰が撮影したんですか」
宮原は、初めて私の顔を正面から見た。
その視線には、先ほどまでとは違う鋭さがあった。
【……なぜ、そんなことを?】
「佐伯さんから、宮原さんが撮影したと伺ったので」
【佐伯……美紀さんですか】
「ええ」
宮原は視線を落とした。
しばらくの間、店内には何の音もしなかった。
外を通る車の音が、遠くから聞こえてくる。
私は彼の返事を待った。
セルフタイマーを使った。
通りかかった教師に撮ってもらった。
誰か別の同級生が撮影した。
どれでも構わなかった。
事実を確認できれば、それでよかった。
しかし、宮原は答えなかった。
代わりに、カウンターの上に置かれた写真を一枚、そっと持ち上げた。
そして、その裏面を見た。
私は彼の指先に目を向けた。
そこには、あの数字がある。
247。
宮原の動きが止まった。
ほんのわずかな間だった。
しかし、彼は確かにその数字を見ていた。
「宮原さん」
【……はい】
「その数字に、何か心当たりがありますか」
宮原は写真を裏返し、カウンターに戻した。
【いいえ】
「そうですか」
【古い写真ですから。誰かが書いたんでしょう】
私は彼を見つめた。
「まだ、どんな数字かお伝えしていませんでしたね」
宮原は黙った。
私は写真を指さした。
「『247』です。何の番号でしょう」
【……分かりません】
そう答えた彼の声は、最初に店へ入ったときよりも、わずかに低くなっていた。
私はメモ帳を開いた。
撮影者については、まだ答えを得られていない。
顔が白くなった理由についても同じだ。
だが、宮原が写真の裏側に書かれた数字を見た瞬間、明らかに反応したことだけは覚えておこうと思った。
私は「247」の横に、新たな一文を書き加えた。
――宮原、数字を見て沈黙。
それが何を意味するのかは、まだ分からない。
ただ、私は一つだけ確信し始めていた。
二十年前のあの写真について、宮原修一は、佐伯美紀よりも多くのことを知っている。
そして今のところ、それを話すつもりはないらしい。
私はメモ帳を閉じた。
調査は、ようやく始まったばかりだった。




