第2章 矛盾した写真
翌日の午後二時。
雨は、まだ降り続いていた。
昨日よりも幾分弱まってはいたが、空を覆う雲に切れ目はなく、昼間だというのに事務所の中は薄暗かった。
私は窓際の椅子に腰を下ろし、昨夜のメモ帳を開いていた。
そこには、昨夜電話をかけてきた女性の名前と、いくつかの短い文章が並んでいる。
佐伯美紀。
二十年前に失踪した同級生、相沢透。
二枚の集合写真。
そして、顔の消失。
書き並べてみると、ずいぶん奇妙な相談だった。
ただし、奇妙であることと、不可解であることは同じではない。
写真というものは、見た目ほど確かな記録ではない。撮影した角度、光の加減、現像の状態。ほんのわずかな違いで、写っているものの印象は大きく変わる。
まして、二十年も前の写真だ。
私が昨夜聞いた話にも、何か単純な説明がつくのかもしれない。
だが、気になることが一つあった。
佐伯美紀は、なぜ今になって電話をかけてきたのだろう。
二十年前の失踪事件を調べてほしい、という依頼なら理解できる。
しかし彼女が最初に口にしたのは、失踪した同級生のことではなかった。
写真から、顔が消えている。
それが、彼女の第一声だった。
私はメモ帳を閉じた。
ちょうどそのとき、扉を三度叩く音がした。
「どうぞ」
扉がゆっくりと開いた。
入ってきたのは、紺色のコートを着た女性だった。
年齢は四十歳ほどだろうか。肩まで伸びた黒髪を後ろで束ね、化粧は控えめだった。落ち着いた服装をしていたが、その表情には、どこか疲れたようなものがあった。
彼女は茶色い封筒を胸元に抱えていた。
『昨日、お電話した者です』
「ええ。お待ちしていました」
女性は私の顔を見ると、一瞬だけ足を止めた。
初対面の人間は、時折こういう反応をする。
私の顔立ちは少々変わっているらしい。昔から何度か指摘されたことがあるが、自分では見慣れているので、どこがどう変わっているのか、よく分からない。
女性はすぐに視線を戻した。
「どうぞ、お掛けください」
『ありがとうございます』
彼女は向かいの椅子に腰を下ろした。
封筒は膝の上に置かれたままだった。
『改めまして、佐伯美紀と申します』
「佐伯さんですね。昨夜のお話は覚えています。さっそくですが、写真を見せていただけますか」
『……はい』
彼女は封筒の口を開いた。
取り出されたのは、透明な袋に収められた二枚の写真だった。
どちらも古い印画紙で、一枚は全体的に黄ばんでいた。もう一枚は比較的鮮明で、年月の経過を考えれば、ずいぶん保存状態がよい。
私は二枚を机の上に並べた。
そして、言葉を失った。
写真には、八人の高校生が写っていた。
男子四人、女子四人。
全員が制服姿で、校舎の前に並んでいる。
後ろには大きな窓があり、そのガラスには中庭の木々が映り込んでいた。
ありふれた記念写真だった。
卒業を間近に控えた高校生たちが、思い出として撮影した一枚。
そう説明されれば、誰も疑問には思わないだろう。
ただし、中央に立つ男子生徒を除けば、の話だ。
その男子生徒には、顔がなかった。
正確には、顔のあるべき場所が白く抜け落ちていた。
額から顎にかけて、肌の色も、目も、鼻も、口もない。
髪の毛は残っている。
首も、制服も、肩に触れている隣の生徒の手も、はっきりと写っていた。
しかし、顔だけがない。
まるで、その部分にだけ強い光が当たり、表情のすべてを焼き消してしまったかのようだった。
「……なるほど」
私は小さくつぶやいた。
昨夜、佐伯さんの説明を聞いたときには、古い写真の変色を想像していた。
だが、実物は想像と少し違っていた。
顔の輪郭に沿うように白い部分が広がっている。
少なくとも、普通の色あせには見えなかった。
「こちらが、相沢透さんですか」
『はい』
佐伯さんは、中央の男子生徒を見つめた。
『相沢君です』
その言い方には、奇妙な確信があった。
顔が写っていないにもかかわらず、彼女は迷わずその人物を相沢透だと断言した。
「どうして、相沢さんだと分かるんですか」
『え?』
「顔がありませんから。念のため、お聞きしたいんです」
佐伯さんは少し考えた。
『立っていた場所を覚えています。それに、背格好も、制服の着方も……相沢君です』
「なるほど」
私はそれ以上追及しなかった。
二十年前の記憶がどれほど正確なのか、今ここで判断することはできない。
だが、彼女がそう信じていることは確かだった。
私はもう一枚の写真に目を移した。
こちらも、中央に立つ男子生徒の顔が白く抜けている。
八人の配置も、背景も、ほとんど同じだった。
しかし、注意深く見比べているうちに、ある違和感を覚えた。
「佐伯さん」
『はい』
「この二枚は、同じ写真だとおっしゃいましたね」
『ええ。同じ日に撮った写真です』
「同じ日に、ということですね」
『……はい』
私は二枚の写真を少し離して置いた。
「では、少しだけ訂正させてください」
佐伯さんが首をかしげる。
「これは、同じ写真ではありません」
『どういうことですか?』
「こちらをご覧ください」
私は一枚目の左端を指さした。
そこには、眼鏡をかけた男子生徒が立っている。
「この方の右手を見てください」
『右手……?』
「ええ。指が三本、見えていますね」
佐伯さんは身を乗り出した。
『はい』
「では、こちらは?」
私は二枚目を示した。
彼女はしばらく目を凝らしていたが、やがて小さく声を上げた。
『あ……二本』
「そうです」
二枚目では、男子生徒の手の角度がほんのわずかに変わっていた。
私は続けた。
「それだけではありません。後ろの窓に映っている木の枝も、位置が少し違います」
『本当だ……』
「おそらく、ほとんど間を置かずに撮影された、別々の写真でしょう」
佐伯さんは、何度も二枚を見比べた。
『そんなこと、今まで気づきませんでした』
「気づかなくても不思議ではありません。人は写真を見るとき、まず人物の顔に目を向けます。指の本数や背景の枝まで確認する人は、あまりいませんから」
私は写真を窓際へ運んだ。
雲に覆われた空から差し込む弱い自然光に、印画紙の表面を傾ける。
そこで、もう一つの違いが見えてきた。
「……おかしいですね」
『何がですか?』
「顔の消え方です」
一枚目では、相沢透の顔はほぼ均一に白くなっていた。
しかし、二枚目は違う。
顔の右半分に、かすかな濃淡が残っている。
白い部分の輪郭も、完全には一致していなかった。
「同じように見えて、消え方が違います」
『それは……何か意味があるんでしょうか』
「まだ分かりません」
私は写真を机に戻した。
「ただ、二枚とも同じ原因で変化したと決めつけるのは早いでしょうね」
佐伯さんは何も言わなかった。
視線は、中央の白い顔に向けられたままだった。
私はメモ帳を開いた。
二枚の写真。
同じ八人。
わずかに異なる構図。
そして、異なる白い輪郭。
偶然なのか、意図的なものなのか。
現時点では、まだ判断できない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
昨夜の電話で聞いた話よりも、この写真はずっと多くの疑問を抱えている。
私は佐伯さんに向き直った。
「この写真は、どこで撮影されたんですか」
『高校の中庭です。卒業する少し前に、みんなで記念写真を撮ろうって話になって』
「撮影したのは?」
『写真部の子です。たしか……宮原君だったと思います』
宮原。
私はその名前を書き留めた。
「宮原さんも、この写真に写っていますか」
『はい。左端の眼鏡の男の子です』
私は写真を見た。
先ほど、右手の指の違いを指摘した男子生徒だった。
「現在、連絡は取れますか」
『分かりません。卒業してから、ほとんど連絡を取っていなくて』
「そうですか」
私はメモ帳に小さな印をつけた。
撮影者を特定できれば、写真について何か分かるかもしれない。
ただし、二十年前のことだ。本人が当時のことを覚えている保証はない。
「では、相沢さんが失踪したときのことを教えていただけますか」
佐伯さんの表情が変わった。
先ほどまで写真に向けられていた視線が、ゆっくりと膝の上に落ちる。
『……あの日のことですか』
「ええ。覚えている範囲で構いません」
彼女は両手を組んだ。
指先が、かすかに動いていた。
『卒業式の三日前でした。相沢君が、突然学校に来なくなったんです』
「前日までは、普段どおりだったんでしょうか」
『そうだったと思います。少なくとも、私は何も聞いていませんでした』
「何か変わった様子は?」
『特には……』
そこで彼女は言葉を止めた。
私は待った。
『……でも』
「何か思い出しましたか」
『前の日に、少しだけ変なことを言っていました』
「どんなことを?」
佐伯さんは写真を見つめた。
まるで、そこに写っている二十年前の光景を思い出そうとしているかのようだった。
『写真を、早く受け取りたいって』
私はペンを止めた。
「写真を?」
『はい。撮影したばかりなのに、何度も宮原君に聞いていたんです。もう現像できたかって』
「なぜ急いでいたんでしょう」
『分かりません。あのときは、ただ楽しみにしているだけだと思っていました』
佐伯さんは小さく息を吐いた。
『でも、今考えると……』
「何かを確かめたかった?」
彼女はゆっくりとうなずいた。
私は二枚の写真を見下ろした。
相沢透は、なぜそれほど写真を欲しがったのだろう。
卒業を控えた高校生が記念写真を楽しみにすること自体は、何もおかしくない。
しかし、その直後に失踪しているとなれば、話は違ってくる。
写真を早く受け取りたかったこと。
そして、その写真から彼の顔が消えていること。
二つの事実に関係があるのか。
今はまだ分からない。
「佐伯さん。この写真は誰が現像したんですか」
『宮原君です。写真部の暗室で』
「なるほど」
私はメモ帳に、もう一度その名前を書いた。
宮原。
この人物に会う必要がありそうだった。
私は写真を透明な袋に戻そうとした。
そのとき、昨夜の電話を思い出した。
「佐伯さん。もう一つ、お聞きしても?」
『はい』
「昨日の電話で、最後に何か言いかけましたね」
彼女の手が止まった。
「顔だけじゃなくて、と」
『あ……』
「その先に、何をおっしゃろうとしたんですか」
佐伯さんはしばらく黙っていた。
やがて、膝の上に置いていた鞄を開いた。
『実は……昨日の夜、友人からもう一枚、写真が送られてきたんです』
「もう一枚?」
『はい』
彼女はスマートフォンを取り出した。
何度か画面に触れた後、それを私の方へ差し出す。
『これなんです』
私は画面をのぞき込んだ。
そこには、見覚えのある校舎が写っていた。
大きな窓。
中庭の木々。
そして、制服姿の高校生たち。
先ほど見た二枚の集合写真と、ほとんど同じ構図だった。
しかし、何かがおかしい。
私は画面をもう一度見た。
そして、ようやく違和感の正体に気づいた。
中央に立っていたはずの男子生徒が、いない。
相沢透の姿が、消えていた。
顔だけではない。
制服も、手も、足も。
彼が立っていた場所には、何事もなかったかのように校舎の壁が写っている。
「……これは」
私は思わず身を乗り出した。
『やっぱり、変ですよね?』
佐伯さんの声が震えていた。
「ええ。少なくとも、先ほどの二枚とは状態が違います」
私は机に置かれた写真と、スマートフォンの画面を交互に見た。
二枚の印画紙には、八人が写っている。
中央の相沢透は顔を失っているが、体は残っていた。
ところが、画面の中には彼の姿そのものがない。
そこには、彼が最初から存在しなかったかのような風景が広がっていた。
佐伯さんが小さな声で尋ねた。
『先生……どう思いますか』
私はすぐには答えなかった。
写真の加工なら、説明はつく。
だが、そうだとすれば、誰が、何のために。
そして、なぜ二十年も経った今になって、佐伯美紀のもとに送られてきたのか。
私はスマートフォンの画面をもう一度確認した。
左端には、眼鏡をかけた男子生徒が立っていた。
宮原修一。
先ほど、佐伯さんが撮影者だと説明した人物だ。
私は、ある疑問に行き当たった。
「佐伯さん」
『はい』
「この写真を撮ったのは、誰なんでしょうね」
『……え?』
「宮原さんが撮影者なら、なぜ写真の中に宮原さん自身が写っているんでしょう」
佐伯さんは画面を見つめた。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
窓の外では、雨がまだ降り続いていた。
私はメモ帳に、新たな一文を書き加えた。
――撮影者は、誰か。
それは、二十年前の写真に残された、最初の矛盾だった。




