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欠落の肖像  作者: 諸藤 海都


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第1章 一本の電話

午後十一時四十二分。


 事務所の電話が鳴った。


 その夜は、朝から降り続いていた雨が、いっそう細かくなっていた。窓ガラスを伝う水滴が街灯の光を細長く引き延ばし、向かいのビルの輪郭を曖昧にしている。


 私は読みかけの本に栞を挟んだ。


 古い推理小説だった。犯人が明らかになるまで、あと二十ページほど残っている。今夜のうちに読み終えるつもりだったが、どうやら予定を変更する必要がありそうだった。


 電話は三度目の呼び出し音を鳴らした。


 この時間に事務所へ電話をかけてくる人間は、そう多くない。


 間違い電話か、よほど切羽詰まった相談か。


 もっとも、その二つは必ずしも区別できるものではない。以前、深夜にかかってきた間違い電話が、結局は依頼に変わったこともあった。


 私は受話器を取った。


「はい。どちら様でしょう」


 返事はすぐにはなかった。


 受話器の向こうから、かすかな雑音が聞こえてくる。雨の音だろうか。それとも、電話をかけてきた人物の呼吸だろうか。


『……夜分遅くに、申し訳ありません』


 女性の声だった。


 年齢までは分からない。落ち着いた口調ではあったが、言葉の端にわずかなためらいがあった。


「構いません。何かお困りですか」


『……写真のことで、ご相談したいんです』


「写真、ですか」


『はい。昔の集合写真なんですけど……』


 そこで女性は言葉を止めた。


 私は急かさず、次の言葉を待った。


 電話口で沈黙が生まれると、多くの人間はそれを埋めようとする。質問を重ねたり、相槌を打ったり、時には相手の言葉を勝手に補ってしまう。


 しかし、相談事において沈黙は必ずしも悪いものではない。


 人は、話すべきことを整理しているときにも黙る。


 まして、話したくないことを話そうとしているなら、なおさらだ。


『……一人だけ、顔が消えているんです』


 私は机の上の時計を見た。


 午後十一時四十三分。


「顔が消えている、というのは?」


『白くなっているんです。その人の顔だけ』


「写真が傷んでいる可能性はありませんか」


『私も、最初はそう思いました』


 もっとも自然な説明だった。


 古い写真には、さまざまな変化が生じる。色あせ、変色、湿気による損傷。保管状態によっては、画像の一部だけが著しく傷むこともある。


 二十年前の写真なら、なおさら不思議ではない。


 私は机の端に置いてあったメモ帳を引き寄せた。


『でも、もう一枚も同じなんです』


「もう一枚?」


『はい。同じ日に撮った、別の写真です』


 私はペンを取った。


「なるほど。二枚とも、同じ人物の顔が消えているんですね」


『……はい』


 私はメモ帳に二つの四角形を描いた。


 それぞれの中央に小さな丸を描き、斜線を引く。


 二枚の集合写真。


 同じ人物。


 顔の部分だけが白い。


 写真の状態を実際に見ていない以上、偶然と断定することも、人為的な加工と決めつけることもできなかった。


 ただ、一つだけ気になる点があった。


「その人物は、お知り合いですか」


『高校時代の同級生です』


「お名前は?」


 女性は答えなかった。


 電話の向こうで、何かが小さく触れ合う音がした。受話器を持ち直したのかもしれない。


 やがて、女性はゆっくりと名前を口にした。


『……相沢透』


 私はその名前を書き留めた。


  相沢透


 ありふれているとまでは言わないが、名前そのものに特別な印象はなかった。


 しかし、続く言葉は違った。


『卒業式の三日前に、突然いなくなった人です』


 ペン先が止まった。


「行方不明になった、ということですか」


『……そうです』


「それは、いつのことでしょう」


『二十年前です』


 二十年。


 私はその数字を、相沢透の名前の横に書き加えた。


 人が一人いなくなってから、二十年。


 それだけの時間があれば、街の風景も、人間関係も、当時の常識さえ変わってしまう。


 だが、二十年という歳月が経ったからといって、すべての疑問が自然に消えるわけではない。


 むしろ、答えの出なかった疑問ほど、長い時間をかけて人の中に残り続けることがある。


「その写真は、最近見つかったものですか」


『いいえ。ずっと持っていました』


「以前から、顔は消えていたのでしょうか」


『……分からないんです』


 女性の声が小さくなった。


『昔は、ちゃんと写っていた気がするんです。でも、はっきり覚えていなくて』


「なるほど」


 私はメモ帳に、もう一つ書き加えた。


 ――以前は顔が写っていた可能性。


 記憶というものは、厄介だ。


 人間は過去の出来事を、頭の中に写真のように保存しているわけではない。思い出すたびに、断片を組み合わせ、一つの出来事として再構成している。


 だから、本人がどれほど確信していても、その記憶が正確だとは限らない。


 しかし同時に、曖昧な記憶の中にこそ、見過ごされてきた事実が残っている場合もある。


 私はペンを置いた。


「一度、その写真を見せていただけますか」


『……はい。お願いします』


「明日の午後でしたら、時間を取れます」


『ありがとうございます』


 女性の声に、わずかだが安堵の色が混じった。


 私は事務所の場所を伝え、翌日会う約束をした。


 そこで、ようやく一つ確認していないことに気づいた。


「失礼ですが、お名前を伺っても?」


『佐伯です。佐伯美紀と申します』


「佐伯さんですね。では、明日お待ちしています」


『はい。よろしくお願いします』


 私は受話器を置こうとした。


 そのときだった。


『……あの』


 女性が呼び止めた。


「はい」


 少しの沈黙。


 そして、彼女は言った。


『もし、写真から顔だけじゃなくて……』


 私は受話器を耳に押し当てた。


「顔だけじゃなくて?」


 返事はなかった。


 それまで聞こえていた小さな雑音さえ、急に遠くなったように感じられた。


「どうされました?」


『……いえ。何でもありません』


 女性は、それ以上何も言わなかった。


 短い挨拶の後、電話は切れた。


 私はしばらく、受話器を手にしたまま座っていた。


 顔だけじゃなくて。


 その先に続くはずだった言葉は何だろう。


 体も消える。


 人そのものが消える。


 あるいは、まったく別の何か。


 想像することは簡単だった。しかし、想像と推理は違う。


 推理には、少なくとも根拠が必要だ。


 私は受話器を戻し、メモ帳を開いた。


 相沢透


 二十年前に失踪。


 二枚の集合写真。


 同じ人物の顔が白くなっている。


 依頼人、佐伯美紀。


 そして最後に、彼女が言いかけた言葉。


 私はその一つひとつを読み返した。


 写真の劣化だと考えれば、話は単純だった。


 しかし、佐伯美紀が二十年もの間持ち続けていた写真について、なぜ今になって相談しようと思ったのか。


 そこが分からない。


 顔が消えていることに最近気づいたのか。


 それとも、以前から気づいていながら、何かをきっかけに相談する気になったのか。


 どちらにしても、その「きっかけ」を聞く必要がある。


 私は時計を見た。


 午後十一時五十七分。


 机の上には、読みかけの推理小説が伏せられたままになっていた。


 あと二十ページ。


 今から読めば、日付が変わる前に犯人を知ることはできないだろう。


 私は本を閉じ、書棚に戻した。


 窓の外では、雨が降り続いている。


 街灯に照らされた雨粒は、落ちるたびに光を受け、すぐに闇の中へ消えていった。


 ふと、電話の向こうで聞いた声を思い出した。


 佐伯美紀は、写真に写った人物の顔が消えていることを恐れていた。


 だが、本当にそれだけだろうか。


 彼女が最後に言いかけた言葉には、単なる写真の異常を説明するだけでは済まない、別の意味が含まれているように思えた。


 私はもう一度メモ帳を開いた。


 そして、ページの一番下に一行だけ書き加えた。


 ――二枚の写真は、本当に同じものなのか。


 写真を見れば分かることだ。


 明日になれば、少なくともいくつかの疑問には答えが出るだろう。


 そう考えて、卓上灯を消した。


 部屋の明かりが消えると、窓に映っていた自分の顔も見えなくなった。


 私は暗くなったガラスをしばらく眺めた。


 その夜の私は、まだ知らなかった。


 二十年前に姿を消した一人の高校生と、顔の消えた二枚の写真。


 その二つを結びつけるものが、単なる偶然ではないことを。


 そして、この一本の電話が、二十年前に終わったはずの出来事を、もう一度動かすことになるとは。

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