第5章 八人目の証言
事務所に戻ったのは、午後三時を少し過ぎた頃だった。
雨は上がっていたが、空には厚い雲が残っていた。
私は濡れたコートを脱ぎ、机の上に二枚の写真を並べた。
八人。
一枚目にも、二枚目にも、八人の高校生が写っている。
中央に立つ相沢透の顔は白く抜け落ちているが、制服も、手も、足も残っていた。
一方、スマートフォンに送られてきた画像には、六人しかいない。
相沢透。
そして、宮原修一の隣に立っていた女子生徒。
二人が消えている。
私はパソコンを起動し、佐伯さんから届いた画像を転送した。
画面いっぱいに写真を表示する。
校舎の壁。
大きな窓。
八人が並んでいたはずの場所。
縮小された画像では、特に不自然なところは見当たらない。
しかし、拡大してみると、印象が変わった。
「……なるほど」
私は画面に顔を近づけた。
相沢透が立っていた場所。
その背後にある壁の模様が、周囲とわずかに違っている。
レンガの継ぎ目が、一部分だけずれていた。
窓枠の線も、途中でわずかに途切れている。
さらに、消えた女子生徒の足元には、同じ形の汚れが二つ並んでいた。
私は別の場所を拡大した。
そこにも、よく似た模様がある。
偶然かもしれない。
画像の圧縮によって生じた乱れという可能性もある。
だが、一つの説明が頭に浮かんだ。
写真から人が消えたのではない。
人が写っていない部分の画像を使い、その上から覆い隠したのではないか。
画像編集であれば、十分に可能なことだった。
私は画面を元の大きさに戻した。
六人の高校生が並んでいる。
不自然な部分は、ほとんど分からなくなった。
もし、誰かが意図的に加工したのなら、かなり丁寧な作業だ。
少なくとも、ただ人物を切り抜いただけではない。
私はメモ帳を開いた。
――三枚目。画像加工の可能性。
その下に、もう一行書き加えた。
――送信者の目的は不明。
画像が加工されていることと、誰が加工したかということは別の問題だ。
さらに、加工された理由も分からない。
佐伯さんを怖がらせるためなのか。
二十年前の事件を思い出させるためなのか。
あるいは、何かを伝えようとしているのか。
私は椅子の背もたれに体を預けた。
写真には、写っているものと、写っていないものがある。
だが、本当に重要なのは、そのどちらでもないのかもしれない。
なぜ、その写真が存在するのか。
その理由を知らなければ、いくら画像を調べても答えにはたどり着けない。
*
私は改めて、預かっていた二枚の印画紙を取り出した。
今度は、表面ではなく裏側を調べる。
一枚目には、薄い鉛筆書きの数字があった。
247。
宮原は、写真を整理するための番号だと言っていた。
私は拡大鏡を使い、数字の周辺を観察した。
鉛筆の線は細く、筆圧も弱い。
何度もなぞった形跡はなかった。
数字の下には、印画紙の製造元を示す印字がかすかに残っていた。
私は二枚目を裏返した。
こちらには、数字がない。
それだけではなかった。
紙の裏面に、同じ印字が見当たらない。
指先で端を触れると、厚さもわずかに違うように感じられた。
私は二枚を重ねた。
大きさはほとんど同じだ。
しかし、紙質が異なっている可能性がある。
「……別の時期に焼かれた写真、ということも考えられますね」
私は小さくつぶやいた。
写真が撮影された日。
フィルムが現像された日。
印画紙に焼き付けられた日。
それらが、必ずしも同じとは限らない。
ネガが残っていれば、数年後でも焼き増しはできる。
つまり、二枚の写真が同じ日に撮影されたからといって、同じ日に印刷されたとは限らないのだ。
私は一枚目を持ち上げた。
黄ばんだ印画紙。
白く消えた顔。
裏側の247。
そして、二枚目。
比較的鮮明な印画紙。
同じ人物の、わずかに異なる白い輪郭。
もし、この二枚が異なる時期に作られたものだとしたら。
相沢の顔は、いつ消えたのだろう。
撮影された瞬間か。
最初の現像時か。
それとも、後から焼き増しされたときか。
私はメモ帳に、三つの疑問を書き並べた。
そのとき、事務所の扉を叩く音がした。
「どうぞ」
扉が開いた。
入ってきたのは、佐伯美紀だった。
昨日よりも顔色が悪かった。
彼女は大きな鞄を抱え、どこか申し訳なさそうに頭を下げた。
『すみません。何度も』
「いえ。ちょうど確認したいことがありました。どうぞ、お掛けください」
佐伯さんは椅子に腰を下ろした。
そして、鞄から一冊の厚い本を取り出した。
卒業アルバムだった。
『実家に置いてあったんです』
「これは助かります」
『昨日、写真に写っている人の名前を調べてほしいっておっしゃいましたよね』
「ええ」
『それで、探してみたんです』
彼女はアルバムを机の上に置いた。
厚い表紙には、学校名と卒業年度が金色の文字で刻まれていた。
表面には細かな傷があり、角は少し擦り切れている。
私は慎重にページを開いた。
体育祭。
文化祭。
修学旅行。
何の変哲もない高校生活の記録が、次々と現れた。
写真の中の生徒たちは、誰もが若かった。
笑っている者。
ふざけている者。
カメラを意識して、ぎこちなく立っている者。
二十年という時間が、そこだけ止まっているようだった。
『先生、こちらです』
佐伯さんが、あるページを指さした。
そこには、短い髪の女子生徒が写っていた。
私は机の上にある集合写真と見比べた。
宮原修一の隣に立っていた女子生徒。
間違いないように見えた。
名前の欄には、こう書かれていた。
藤野理恵。
「藤野理恵さん」
『はい。ようやく思い出しました』
佐伯さんは、ほっとしたように息を吐いた。
『昨日は、どうしても名前が出てこなかったんです。でも、アルバムを見たら思い出せました』
「現在の連絡先は分かりますか」
『それは、まだ……。でも、同窓会の名簿なら、どこかにあるかもしれません』
「それで十分です」
私は名前を書き留めた。
藤野理恵。
写真から二番目に消えた人物。
少なくとも、二十年前に同じ学校に通っていたことは、卒業アルバムから確認できた。
私は佐伯さんに尋ねた。
「ところで、昨日のお電話では、アルバムにその方が見当たらないとおっしゃっていましたね」
『……はい』
「今は見つかったんですね」
『ええ。昨日は慌てていたので、見落としていたんだと思います』
「そうですか」
私はうなずいた。
それ自体は、十分あり得る話だった。
ただ、佐伯さんの不安が完全に消えたわけではないようだった。
彼女はアルバムを見つめたまま、口を閉じている。
「何か、ほかにも気になることが?」
『……いいえ。ただ、昨日は本当に、何も思い出せなかったんです』
私は返事を急がなかった。
人間の記憶は、手がかり一つで突然よみがえることがある。
顔を見れば名前が分かる。
場所を訪れれば、忘れていた会話を思い出す。
その程度のことなら、珍しくない。
しかし、佐伯さんは自分の記憶に強い不信感を抱き始めているようだった。
私は話題を変えた。
「相沢透さんの写真も、このアルバムにありますか」
『はい。たしか、この辺りに……』
佐伯さんは数ページめくった。
そして、ある男子生徒を指さした。
『この人です』
私は写真を見た。
制服姿の男子生徒。
整えられた髪。
細い目。
わずかに笑った口元。
ごく普通の高校生だった。
その下には、確かに名前が印刷されていた。
相沢透。
私はしばらく、その顔を眺めた。
「……佐伯さん」
『はい』
「相沢さんは、こういうお顔だったんですね」
『ええ』
「失踪した後も、写真は残っていたんですね」
『もちろんです。卒業アルバムですから』
私はうなずいた。
そして、ページを閉じかけた。
そのとき、一つの疑問が浮かんだ。
「佐伯さん。相沢さんが失踪したのは、卒業式の三日前でしたね」
『はい』
「卒業アルバムは、いつ配られたんですか」
『卒業式の日です』
私は再びページを開いた。
失踪した生徒の写真が、卒業アルバムに載っている。
それ自体は、何もおかしくない。
卒業アルバムは、通常、卒業式より前から制作が進められている。
相沢が失踪した時点で、すでに印刷が終わっていた可能性も高い。
しかし、私が気になったのは別のことだった。
「この集合写真は、卒業式の何日前に撮影されたんですか」
『ええと……一週間くらい前だったと思います』
「一週間前」
私はメモ帳を開いた。
卒業式の約一週間前に撮影。
卒業式の三日前に失踪。
つまり、撮影から失踪まで、およそ四日。
私はその数字を丸で囲んだ。
「相沢さんが、写真の現像を何度も気にしていたのは、失踪する前日でしたね」
『そうです』
「では、相沢さんは失踪する前に、完成した写真を見たのでしょうか」
佐伯さんは首をかしげた。
『……どうでしょう。そこまでは覚えていません』
「そうですか」
私はアルバムを閉じた。
そのときだった。
『あっ』
佐伯さんが、小さく声を上げた。
「どうされました?」
『思い出したんです』
「何を?」
彼女は私を見た。
『相沢君が、写真を気にしていた理由です』
私はペンを置いた。
「詳しく聞かせてください」
佐伯さんは、しばらく目を閉じていた。
二十年前の記憶を、慎重にたどっているようだった。
『あの日、相沢君が宮原君に聞いていたんです』
「何と?」
『ちゃんと、全員写ってるよな、って』
私は黙っていた。
『宮原君は、もちろんだよって答えていました』
「……なるほど」
『でも、その後、相沢君がもう一度聞いたんです』
「何と?」
佐伯さんは私の目を見た。
『本当に、八人だよな、って』
私は机の上の写真へ視線を落とした。
八人の高校生。
男子四人。
女子四人。
確かに、八人いる。
私はメモ帳に、佐伯さんの言葉をそのまま書き留めた。
――本当に、八人だよな。
妙な確認だった。
写真を撮った本人が、写っている人数を確かめる。
それだけなら、何もおかしくない。
しかし、相沢はなぜ、人数を具体的に指定したのだろう。
ちゃんと全員写っているか。
そう尋ねるだけでも十分なはずだ。
それなのに、彼は八人という数字を念押しした。
「佐伯さん。そのとき、相沢さんは何かを怖がっているようでしたか」
彼女は少し考えた。
『いいえ。むしろ……』
「むしろ?」
『怒っているように見えました』
「怒っていた?」
『はい。宮原君の返事に、納得していないような感じでした』
私はメモ帳に、その言葉を書き加えた。
怒っていた。
写真を早く見たがっていた。
そして、人数を何度も確認していた。
私は写真を見つめた。
中央の相沢透。
顔がないため、その表情を確かめることはできない。
だが、彼は撮影された写真に、何か特別な意味を見いだしていたのかもしれない。
「佐伯さん。もう一つ、お聞きします」
『はい』
「この集合写真を撮ろうと言い出したのは、誰だったんですか」
彼女はすぐには答えなかった。
しばらく考えた後、ゆっくりと口を開いた。
『……相沢君です』
私は顔を上げた。
「相沢さんが?」
『はい。どうしても撮りたいって言い出したんです』
「何か理由は聞きましたか」
『いいえ。でも……』
「でも?」
『最初は、みんな嫌がっていました』
私はペンを止めた。
「嫌がっていた?」
『卒業前で忙しかったですし、わざわざ集まる必要もないって』
「それでも、撮影したんですね」
『ええ。相沢君が、どうしてもって』
私は写真を手に取った。
八人の高校生。
彼らは、卒業の記念として集まったのではなかった。
少なくとも、全員が望んで撮影したわけではないらしい。
相沢透が、強く希望した。
その理由は不明。
そして撮影後、相沢は写真に八人写っているかを何度も確認した。
私は一枚目の写真を見つめた。
宮原修一。
藤野理恵。
佐伯美紀。
そして、相沢透。
残りの四人については、まだ詳しく聞いていない。
全員がカメラの方を向いていた。
笑っている者もいれば、表情の硬い者もいる。
しかし、よく見ると、中央の相沢だけは少し姿勢が違っていた。
肩が、わずかに右を向いている。
体の向きからすると、真正面のカメラではなく、隣の誰かを意識していたようにも見える。
私は写真を机に戻した。
「……なるほど」
佐伯さんが不安そうに尋ねた。
『何か、分かったんですか?』
「いえ。まだ何も」
私は答えた。
「ただ、少し考え方を変える必要がありそうです」
『考え方?』
「これまで私は、写真から人が消えた理由を調べていました」
『はい』
「ですが、相沢さんが気にしていたのは、消えた人ではなかったのかもしれません」
佐伯さんは首をかしげた。
『どういうことですか?』
私は写真の中央を指さした。
「相沢さんは、なぜ八人という人数にこだわったんでしょう」
『それは……』
「八人写っているかどうかを確認するということは、八人である必要があったとも考えられます」
私はメモ帳を開いた。
そこに書かれた数字を見つめる。
247。
そして、八。
二つの数字に関係があるかどうかは分からない。
ただ、相沢が写真の人数にこだわっていたことは、重要な手がかりになりそうだった。
私は佐伯さんに尋ねた。
「撮影したとき、八人以外にその場にいた人はいませんでしたか」
『え?』
「先生でも、ほかの生徒でも構いません。撮影の様子を見ていた人はいませんでしたか」
佐伯さんは、ゆっくりと目を伏せた。
長い沈黙があった。
やがて、彼女は小さく首を振った。
『……覚えていません』
「そうですか」
『でも、先生』
「はい」
『一つだけ、変なことを思い出しました』
私はペンを構えた。
『写真を撮り終わったあと、相沢君が宮原君に言ったんです』
「何と?」
佐伯さんは、少しためらった。
それから、二十年前の言葉を思い出すように、ゆっくりと口を開いた。
『これで、誰がいたか分かるな、って』
私は何も言わなかった。
彼女も、それ以上は続けなかった。
窓の外では、夕暮れの空が少しずつ暗くなっていた。
私は机の上に置かれた写真を見つめた。
八人の高校生。
相沢透は、思い出を残すために写真を撮ったのではなかったのかもしれない。
彼が残そうとしたのは、もっと別のものだった。
私はメモ帳に、一文を書いた。
――相沢は、何を証明しようとしていたのか。
そして、その下にもう一つ。
――八人であることに、どんな意味があるのか。
私はペンを置いた。
写真の中では、八人の高校生が変わらず並んでいた。
だが、私にはもう、その光景が単なる卒業記念写真には見えなくなっていた。




