第5話 レオンの朝
窓の外から聞こえてくる甲高い声に、レオンはゆっくりと目を開けた。
どうやら、建物の下で子供たちが遊んでいるらしい。何かを取り合っているのか、楽しげな笑い声に混じって、時折喧嘩腰の怒鳴り声まで聞こえてくる。
薄い壁の向こうからは隣人の咳払いが聞こえ、廊下を誰かが歩くたび、古びた床板が軋んだ。
「……うるせぇな」
レオンは枕に顔を押しつけたが、すっかり目が覚めてしまったらしく、しばらくして諦めたように上半身を起こした。
寝台の脇に置かれた小さな時計へ目を向けると、針は午後十二時を少し回ったところを指している。
「……今日は早起きだな」
そう呟いて大きく欠伸をすると、寝癖のついた髪をかき上げながら寝台から足を下ろした。
レオンが暮らす部屋は、お世辞にも広いとは言えなかった。
古びた寝台と小さな机、衣服を押し込んだ棚が一つ。それだけで床の大半が埋まり、部屋の隅には脱ぎ捨てた服や空になった酒瓶が転がっている。
壁には何本もの亀裂が走り、以前の住人が塞いだというクローゼットに空いた穴には、色の違う板が無造作に打ちつけられていた。天井の隅には黒ずんだ染みが広がり、雨の強い日には、外壁から漏れた水が垂れてくることもある。
この都市の貧民街では、珍しくもない住居だった。
いや、同じ建物に住む者たちと比べても、レオンの部屋は随分とひどい方かもしれない。
もっとも、本人はそれほど気にしていなかった。
雨風を凌げて、眠る場所さえあればそれで十分だった。
レオンは床に転がっていた上着を拾い上げると、ポケットを探り、細長い魔道煙草を一本取り出した。
指先で先端に触れて魔力を流すと、小さな赤い光が灯る。
そのまま煙草を咥え、軋む窓を押し開けた。
途端に、生暖かく湿った空気が室内へ流れ込んでくる。
窓の向こうには、隙間なく立ち並ぶ建物の壁が広がっていた。
どれも長い年月を経て傷み、外壁には錆びた配管や継ぎ足された足場が複雑に絡みついている。建物と建物の間には、洗濯物を干すための紐が何本も渡され、色褪せた衣服が弱い風に揺れていた。
下を覗けば、狭い路地を人々が行き交っている。
買い物袋を抱えた女が子供の手を引き、荷車を押す老人が通行人に道を譲るよう怒鳴っている。そのすぐ脇では、数人の子供たちが拾い集めた廃材を積み上げ、何やら夢中になって遊んでいた。
誰もが限られた場所に押し込められ、そのわずかな空間を奪い合うように暮らしている。
レオンは煙草を深く吸い込み、ゆっくりと白い煙を吐き出した。
煙は窓の外へ流れ出ると、湿った空気の中で形を崩し、やがて見えなくなった。
ふと視線を上げると、建物の隙間から、少し離れた場所にある高層建築の上部が覗いていた。
こちらの古びた建物とは違い、この都市では逆に不自然なほど白い外壁とその壁につけられた大きな窓には淡い光が反射している。上層階には装飾の施された広いバルコニーが並び、その一角では、庭園らしき緑まで見えていた。
都市の中心部に近い、裕福な人間たちの住まいだ。
同じ壁に囲まれた都市の中でも、あちらとこちらでは暮らしぶりがまるで違う。
都市の中心、そして上へ行けば行くほど日当たりも風通しも良くなり、広い部屋と清潔な水、質の良い食事が手に入る。
反対に、下へ行くほど建物は古く、道は狭くなり、わずかな光さえ頭上の建物に遮られてしまう。
もっとも、どれほど高い場所に住んでいようと、空の色まで変わるわけではない。
高層建築のさらに向こうには、いつもの紫がかった灰色の空が広がっていた。
「……上の連中は、今日もいい空気を吸ってんだろうな」
レオンは小さく鼻を鳴らすと、再び煙草を口へ運んだ。
別に、あそこで暮らす人間が羨ましくないわけではない。
広い部屋も、柔らかな寝台も、好きなだけ飲める高い酒も、手に入るならそれに越したことはないだろう。
ただ、そのために毎日せっせと働くくらいなら、今の暮らしの方が性に合っている。
そう考えながら最後の煙を吐き出したレオンは、すい終わった魔道煙草をポケットにしまうと、窓を閉めた。
それから適当に顔を洗い、皺のついたシャツに袖を通すと、寝台の上に放ってあったコートを羽織る。
特に急ぎの仕事はない。
とりあえず工房にでも行って、暇つぶしに壊れた魔道具でも直してみよう。
そんなことを考えながら、レオンは部屋を後にした。
* * *
建物の共用階段は狭く、すれ違うには互いに体を横へ向けなければならなかった。
壁には何度も塗り直された跡があり、足元の段差もところどころ欠けている。階下からは煮込み料理の匂いが漂い、どこかの部屋では、昼間から夫婦喧嘩でもしているのか、男女の言い争う声が響いていた。
レオンはそんな騒ぎを気にすることもなく階段を下り、入口近くの共用スペースへ足を踏み入れた。
そこで、ふと足を止める。
壁に取りつけられた古い掲示板の端に、小さな紙切れが貼られていた。
『X 15』
たったそれだけの文字が、乱雑な筆跡で書かれている。
「……依頼か」
レオンは紙切れを眺めながら、軽く顎を撫でた。
エドワードからは何の連絡も来ていない。
となれば、自分のことを知っている情報屋を通じた依頼だろう。
『X』は自分を指し、『15』は午後三時を意味している。
場所はいつものバーだ。
レオンは紙切れを剥がすと、くしゃりと丸めてポケットへ押し込み、そのまま出口へ向かった。
ちょうどそのとき、買い物帰りらしい女が建物へ入ってきた。
片手には食料の入った袋を提げ、もう片方の手には幼い子供の手を握っている。
女はレオンの姿を認めると、わずかに眉をひそめた。
寝癖の残った髪に、皺だらけのシャツ。昼を過ぎたというのに、これから仕事へ向かうようには到底見えない男。
女の視線には、隠しきれない軽蔑が滲んでいた。
レオンの仕事が休みの可能性もあるが、この女とこうしてすれ違うのは初めてではなかった。
働きもせずに昼から遊んでいる男、そう思われていても不思議ではなかった。
レオンが通り過ぎようとすると、女は子供を自分の側へ引き寄せ、狭い廊下の端へ身を寄せた。
「……どうも」
レオンは気のない挨拶を残し、女の横を通り抜けた。
背後から聞こえてきた小さなため息にも、振り返ることはなかった。
* * *
建物の外へ出たレオンは、再びポケットから魔道煙草を取り出した。
先端に魔力を流し、白い煙を吐き出しながら、昼下がりの通りを歩き始める。
この時間帯の貧民街には、男の姿が少なかった。
道を行き交うのは買い物帰りの女や老人、仕事を手伝う子供たちが中心で、働き盛りの男たちはほとんど見当たらない。
この都市に暮らす男の約半数は、ハンターとして都市の外へ出ているか、マイナーとして鉱山の奥深くに潜っている。
魔物を狩って魔石を持ち帰るハンターと、巨大鉱山から鉱物を掘り出すマイナー。
どちらも危険な仕事だったが、都市の暮らしを支えるには欠かせない存在だった。
もちろん、それ以外の仕事に就いている者も大勢いる。
だが、少なくともまともな職を持っている男なら、こんな昼間から煙草を咥えてふらふらと歩いていることはないだろう。
レオンは自分の格好を見下ろすと、思わず小さく笑った。
「……そりゃ、あんな顔もされるわな」
もっとも、今さら生活態度を改めるつもりはなかった。
通りの角を曲がったところで、レオンはふと足を止めた。
いつもの工房へ向かう路地は、この先を右へ進んだ場所にある。
だが、ポケットから時計を取り出して時刻を確かめると、すでに午後一時を回っていた。
依頼人が来るのは三時。
今から工房へ行ったところで、大した作業をする時間もない。
「……面倒くせぇな」
レオンはしばらく考えるように煙草を咥えていたが、やがて踵を返し、工房とは反対の方向へ歩き始めた。
どうせなら、最初からバーで時間を潰せばいい、とレオンは考えた。
* * *
エドワードのバーに到着した頃も、店の扉にはまだ営業中の札は掛かっていなかった。
開店はいつも午後七時少し前。
営業時間外に客が来るはずもなく、マスターのエドワードもいない店内は静まり返っている。
レオンは慣れた手つきでコートのポケットから鍵束を取り出すと、その中の一本を選び、扉の鍵穴へ差し込んだ。
小さな金属音とともに鍵が回り、扉が開く。
薄暗い店内には、昨夜の営業を終えた後の静けさが残っていた。
カウンターの上は綺麗に拭き上げられ、棚には洗い終わったグラスが整然と並んでいる。木製の床からは、長年染みついた酒の匂いがかすかに漂っていた。
レオンは入口の扉を閉めると、当然のようにカウンターの内側へ回り込んだ。
棚からグラスを一つ取り出し、氷を入れる。
続いて、並んだ酒瓶の中から一本を選ぶと、琥珀色の液体をグラスへ注いだ。
氷に酒が触れる澄んだ音が、静かな店内に響く。
満足げに口元を緩めたレオンは、グラスを持っていつもの席へ移動した。
そして、椅子へ深く腰掛けると、待ちきれないとばかりに酒を一口飲んだ。
氷で冷えた液体が喉を通り抜け、腹の奥へ落ちていく。
冷たさを感じたのもつかの間、高いアルコール度数のおかげか喉と胃が熱を帯び始めた。
「……っかー。今日も酒がうめぇな」
思わず漏れた声が、誰もいない店内に響いた。
レオンはグラスを傾けながら、満足そうに息を吐いた。
依頼人が来るまで、あと一時間半ほど。
あまり飲みすぎて酒を減らすとと、またエドワードに小言を言われるだろう。
それに、依頼人を前にして酔っ払っていては、さすがに格好がつかない。
レオンにもそれくらいの気遣いは出来た。
グラスの中でゆっくりと溶けていく氷を眺めながら、もう一口だけレオンは酒を口に流しいれた。
「‥‥さすがにツマミはねぇか」
誰にも聞こえない独り言が、静かなバーの店内に少しだけ反響した。




