第4話 幸運で不幸なハンターのその後
薄紫色の霧が、森の中を漂っていた。
頭上を覆う木々はどれも異様なほど背が高く、太い幹から伸びた枝が複雑に絡み合い、ただでさえ薄暗い空から差し込む光を遮っている。地面には湿った落ち葉が幾重にも積もり、ところどころに生えた青白い苔が発光し、腐りかけた倒木の表面をぼんやりと照らしていた。
風が吹くたびに木々の枝が軋み、どこからともなく聞こえてくる獣とも虫ともつかない鳴き声が、森の奥へと吸い込まれていく。
そんな不気味な森の一角で、四人のハンターが一体の魔物と戦っていた。
相手は、フォレストマンティス。
全身を硬い紫色の外殻に覆われた、巨大なカマキリに似た魔物だった。人間の背丈を優に超える胴体からは四本の鎌状の腕が伸びており、その鋭い刃は、触れただけでも人間の肉を容易く切り裂くだろう。
もっとも、今ではそのうちの二本が失われ、切断面から濁った体液が滴り落ちていた。
戦闘が始まって、すでに三十分近くが経過している。
「くそっ、まだ動くのかよ!」
二十代半ばほどの若い男が、荒い息を吐きながら剣を構え直した。
額から流れ落ちる汗が頬を伝い、顎の先から地面へ落ちていく。剣を握る手にも疲労が見え始めており、先ほどから何度も握り直している。
少し離れた場所では、もう一人の若い男が魔道銃を構えていた。
こちらも肩で息をしており、照準を合わせる腕には小さな震えが生じている。
「おい、無理して前に出るな! あと二本だ、慎重にいくぞ!」
三十代前半の男が声を張り上げると、剣を構えた若者は悔しそうに唇を噛み、後ろへ下がった。
そんな仲間たちとは対照的に、一人の男だけが落ち着いた呼吸を保っていた。
ボルクだった。
二年前と比べて顔つきは精悍になり、身につけている革の防具にも、何度も手入れを重ねてきた跡が見える。額には汗が浮かんでいるものの、足取りに乱れはなく、魔物の動きを追う視線にも余裕があった。
『持続』。
それがボルクの生まれ持った固有スキルだった。
体力の消耗を抑え、長時間にわたって安定した動きを維持できる能力で、マイナーとして働いていた頃から随分と世話になってきた。
派手さはないが、こうした長期戦では何より頼りになる。
「俺が前に出る。合わせてくれ!」
ボルクの声に、魔道銃を構えた若者が頷いた。
フォレストマンティスは残った二本の鎌を持ち上げ、甲高い鳴き声を上げた。外殻の隙間から漏れる体液が地面へ落ちるたび、湿った落ち葉が黒く変色していく。
ボルクは足元の木の根を飛び越え、一気に間合いを詰めた。
魔物の複眼がぎらりと光り、右側の鎌が頭上から振り下ろされる。
しかし、その刃がボルクへ届く寸前、乾いた発射音が森に響いた。
魔道銃から放たれた魔弾が、鎌の付け根を正確に捉えたのだ。
硬い外殻に弾かれた魔弾が紫色の火花を散らし、その衝撃で鎌の軌道がわずかに逸れる。
「ナイス!」
ボルクはニヤリと笑った。
その一瞬の隙を逃さず、踏み込んだ足に力を込める。
握り締めた剣へ魔力を流し込むと、刀身に刻まれた紋様が淡く輝き、手のひらに馴染んだ微かな振動が伝わってきた。
そして、腰をひねる勢いに乗せて剣を振り抜く。
硬いものを断ち切る感触が、一瞬だけ腕へ伝わった。
次の瞬間、フォレストマンティスの細長い首が胴体から離れ、宙を舞った。
巨大な胴体は数歩よろめいた後、周囲の低木を押し潰しながら地面へ倒れ込んだ。
森に重たい音が響き、積もっていた落ち葉と青白い胞子が舞い上がる。
ボルクはしばらく剣を構えたまま様子を見ていたが、魔物が完全に動かなくなったことを確認すると、ゆっくりと息を吐いた。
──相変わらず、凄い切れ味だな。
転がっていく魔物の首を見つめながら、ボルクは呆れるように思った。
二年前、あの不思議な魔道具職人に修理してもらって以来、剣の性能は目に見えて向上していた。
見た目こそ以前と何も変わらないが、魔力の通りは格段に良くなり、以前なら刃を弾かれていたような硬い外殻さえ、今では容易に切り裂くことができる。
俺の気持ちに応えるように、そしてこれこそが本来の性能なのだと言わんばかりに剣からは依然として魔力を通した時特有の振動が伝わってきていた。
「ボルクさん!」
仲間たちが駆け寄ってきた。
「いやあ、最後の一撃は見事でしたね! あの首を一発で落とすなんて!」
魔道銃を持った若者が興奮した様子で声を上げると、もう一人の若者も大きく頷いた。
「やっぱりボルクさんの剣はすげぇや!」
「まあな」
ボルクは少し得意げに笑い、剣についた体液を拭い取った。
「それが百万ルピーだったんだろ? ほんと、運がいいよなぁ」
その言葉を聞いたボルクは、ふと手元の剣へ視線を落とした。
百万ルピー。
あの頃は、それだけの大金を払えば、きっと自分の人生が変わると信じていた。
しかし、今こうして仲間たちと肩を並べて戦えているのは、決してただ性能の高い武器を買えたからという理由ではない。
「──確かに、運が良かったのかもしれねぇな」
ボルクは穏やかな笑みを浮かべ、剣を鞘へ戻した。
* * *
都市へ戻った四人が魔石の買い取り所を出た頃には、すでに夕方になっていた。
「おいおい、マジかよ! こんなに高く売れるとは思わなかったぜ!」
三十代の男が、手にした買い取り明細を何度も見返している。
フォレストマンティスから得られた魔石は予想以上に質が良く、ほかの魔物から回収した分も合わせると、今日の収入は普段を大きく上回っていた。
「今日は祝いだ!」
「いいな! パーッと行こうぜ!」
若い二人が顔を見合わせて笑うと、三十代の男も嬉しそうに頷いた。
「その前に、風呂に入りに一旦帰ろうぜ」
「確かに。さすがに汗だくだしな」
四人の防具には泥や魔物の体液がこびりつき、長時間の戦闘で汗を吸った衣服からは、独特の臭いが漂っていた。
「じゃあ、着替えて再集合ってことで!」
「店はどうする?」
「いつものところでいいんじゃないか? 物足りなけりゃ二軒目に行けばいい」
「そうするか。ボルクさんもそれでいいですか?」
「もちろん。ただ、二軒目は俺が決めてもいいか?」
ボルクがそう言うと、若い二人が意外そうに顔を見合わせた。
「どこかおすすめがあるんですか?」
「まあ、おすすめっていうか、たまに行ってるバーがあってな。あんまり騒ぐような雰囲気でもないが、しっぽり飲むのも悪くないぞ」
「うわ、いいっすね! なんか大人な感じがします!」
「お前、もういい大人だろ」
三十代の男が呆れたように笑うと、若者たちもつられて笑い出した。
ボルクもその輪に加わりながら、ふと二年前のことを思い出していた。
あのバーに初めて足を踏み入れたとき、自分は何もかも失ったような気持ちでいた。
それが今では、こうして仲間たちと酒を飲む店の相談をしている。
人生というものは、つくづく分からない。
もしかしたら、今日はあの男もカウンターの奥で酒を飲んでいるかもしれない。
ボルクはそんなことを考えながら、腰に下げた剣の柄へそっと手を添えた。
* * *
時は再び二年前へと遡る。
男がボルクの剣を修理した翌日の夕方。
自らをXと名乗った男――レオンは、薄暗い自室の寝台で目を覚ました。
窓の外から聞こえてくる人々の声に顔をしかめ、枕元に置いてあった時計へ手を伸ばす。
「……もうこんな時間かよ」
昨日は、一週間ぶりに依頼をこなした。
その依頼料の十万ルピーを握り締めて意気揚々とカジノへ向かったものの、結果は散々なものだった。
ルーレットの玉が自らのベットした数字に落ちることは一回もなく、気づけば修理代として受け取った金は、すっかり消えてなくなっていた。
腹を立てて帰宅したレオンは、そのまま寝台へ倒れ込み、ふて寝を決め込んだのだった。
寝癖のついた髪を適当にかき上げ、レオンは大きな欠伸をしながら起き上がった。
窓の外では、紫色の空が次第に暗さを増している。
そろそろ、幼馴染のエドワードのバーが開く時間だった。
* * *
バーの扉を開けると、店内にはまだ客の姿は見えない。
開店まであと少しという時間なのでそれも当然だった。カウンターの向こうではこのバーのマスターのエドワードがグラスを並べながら準備を進めていた。
「よう、エド」
レオンが片手を上げると、エドワードは顔を上げ、呆れたように眉を寄せた。
「お前、またこんな時間まで寝てたのか?」
「昨日は散々だったんだよ」
「……またカジノか?」
「聞いてくれよ。あと一つ隣に入ってりゃ大勝ちだったんだぜ?」
「一つ隣でも反対側でも、負けは負けだ」
エドワードはため息をつきながら、磨き終えたグラスを棚へ戻した。
レオンはいつもの席へ腰を下ろすと、カウンターに肘をつき、酒瓶の並ぶ棚を眺めた。
「で、昨日の依頼人はどうだった?」
エドワードが尋ねると、レオンは少しだけ考えるように視線を上げた。
「別に。その辺にいくらでもいる、少し不幸なやつだったよ」
「……そうか」
エドワードは小さく頷き、レオンの前にグラスを置いた。
「まあ、あの様子なら、剣が直ればまた頑張れるだろうな」
「だといいけどな」
「それで、修理代はいくらもらったんだ?」
「十万」
「相変わらずだな。で? そろそろツケを払う気になったか?」
レオンは差し出されたグラスを手に取り、口元へ運んだ。
「言ったろ。昨日は散々だったって」
「……また依頼料全部持って行ったのかよ」
エドワードは呆れたように首を振り、カウンターの下から帳簿を取り出した。
「ったく、いつになったら払ってくれるのやら」
「出世払いで頼むわ」
レオンは悪びれもせずに笑い、グラスに残った酒を飲み干した。
エドワードはそんな幼馴染の顔をしばらく見つめると、深いため息をついた。
「せめて、出世する気のあるやつに言われてぇよ」
二人の笑い声が、開店前の静かな店内に響いた。
やがて、入口の扉が開く音がした。
「いらっしゃいませ」
エドワードはいつもの営業用の笑顔に戻り、新しく入ってきた客へ声をかけた。
レオンはそんな友人を横目に、空になったグラスをカウンターへ置く。
いつもと変わらない、ありふれた夕方だった。
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幸運で不幸なハンター 完




