第2話 幸運で不幸なハンターと怪しい男
翌日。
ボルクはまだ日の高いうちから昨夜訪れたバーの前に立っていた。
正直なところ、昨日はどうやって自宅まで帰ったのか、ほとんど覚えていない。酒を飲みすぎたせいで、今朝はひどい頭痛に悩まされ、目を覚ましてからもしばらく寝台の上で動けなかったほどだ。
それでも、あの男が最後に口にした言葉だけは、不思議なほど鮮明に覚えていた。
『一人だけ、その剣を直せそうな人に心当たりがあるんですが……』
目を覚ました直後は、酔っ払った自分が見た都合のいい夢なのではないかと疑った。
むしろ、剣が壊れたこと自体が夢であってほしかったが、寝台の脇に立てかけてあった剣は、いくら魔力を流しても以前のような反応を見せてはくれなかった。
結局、ボルクは藁にもすがる思いで家を出た。
昨日の記憶を頼りに何度か道を間違えながらも、貧民街を進み、そして何とか辿り着いたのだ。
「……ここ、だよな」
古びた看板を見上げ、もう一度記憶を確かめる。
昨夜は酔っていたこともあって店の外観などろくに覚えていなかったが、扉の横に取り付けられた小さな魔道灯には見覚えがあった。
ボルクは一度大きく息を吐くと、ゆっくりと扉を押し開けた。
店内は静まり返っていた。
営業時間外なのだろう。昨日訪れたときに灯っていた照明は消されており、代わりに壁の高い位置に設けられた幾つかの小窓から、薄紫色を帯びた昼の光が差し込んでいる。
その光は、夜には気づかなかった木目の傷や、長年使い込まれた椅子の擦れ具合まで照らしていたが、店内の奥まった場所には薄暗い影が残っていた。
カウンターの向こうに、昨日のマスターの姿はない。
その代わり、一番奥の席で、一人の男がグラスを傾けていた。
無造作に伸びた髪に、少しくたびれたシャツ。その上から羽織ったコートも決して上等なものには見えず、昼間から酒を飲んでいる姿と相まって、どこぞの浮浪者のような見た目だ。まともな仕事をしている人間には到底思えなかった。
年齢は自分よりも少し下くらいか、とボルクは当たりを付けた。
男は扉の開く音に顔を向けたものの、特に驚いた様子もなく、手にしていたグラスを口元へ運んだ。
「あ、あの……」
ボルクが恐る恐る声をかけると、男はグラスをカウンターに置いた。
「昨日、エドに剣の話をした客か?」
「え? あ、ああ。そうだけど……」
「なら、こっち来いよ」
男は隣の椅子を顎で示した。
エドという名前に心当たりは無かったが、きっとこのバーのマスターのことだろう。ボルクは少し迷った末にカウンターへ近づくも、男の隣に座る気にはなれず、一つ席を空けて腰を下ろした。
「あんたが……剣を直せるっていう職人なのか?」
「まあ、そんなところだ」
男は気のない返事をすると、残っていた酒を飲み干した。
「俺のことは、まあ、Xとでも呼んでくれ」
「エックス……?」
「そう。で、あんたは?」
「ボルクだ。ハンターをやってる」
「ふうん」
それだけ言うと、男は空になったグラスをカウンターの内側へ置き、椅子から立ち上がった。
ボルクは思わず、その後ろ姿を目で追った。
昨日のマスターは確かに、この男なら剣を直せるかもしれないと言っていた。しかし、目の前にいる男からは、腕の立つ魔道具職人らしい雰囲気など少しも感じられない。
それどころか、酒場で昼間から飲んだくれている、この貧民街ならどこにでもいそうな男だった。
「あの……」
「工房に行くぞ」
「え?」
男はカウンターの端に置いてあったコートを着直し、何事もなかったように出口へ向かって歩き始めた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 剣の確認はいいのか?」
ボルクは慌てて立ち上がった。
普通、修理を引き受けるなら、まず壊れたものの状態を確かめるのではないだろうか。少なくとも、昨日まで訪ね歩いた修理屋では、どの店でも最初に剣を見せるよう言われた。
しかし、男は足を止めることなく答えた。
「あいつからの紹介は断らねぇことにしてるんだ」
「いや、そういうことじゃなくて……」
ボルクの言葉は、扉の開く音に遮られた。
男は振り返りもせずに店を出ていってしまい、ボルクはしばらく呆然とその背中を見つめていた。
本当に大丈夫なのだろうか。
不安は募るばかりだったが、ほかに頼れる相手がいないことも事実だった。
ボルクは故障したままの剣を抱え直すと、慌てて男の後を追った。
* * *
昼間の通りは、昨日と変わらず多くの人々で賑わっていた。
荷物を積んだ小型の運搬車が人混みの間をゆっくりと進み、露店の店主たちが威勢のいい声で客を呼び込んでいる。
その中を、Xと名乗った男は慣れた足取りで歩いていった。
一方のボルクは、前を行く男の背中を見失わないようにするだけで精一杯だった。
「なあ、あんた……本当に魔道具職人なんだよな?」
「そうだが?」
「その……随分と若いんだな」
「若い? もう三十だぞ」
「いや、そういう意味じゃなくてだな……」
ボルクは言い淀んだ。
自分が訪ねた修理屋には、もっと年配の職人が多かった。少なくとも、この歳で一人で魔道具を扱っている者は少ないだろう。ボルクの知っている僅かな知識では三十といえばまだ半人前の魔道具職人として経験を積んでいる最中の年齢だった。
そんなことを正直に言えば腕を疑っているという誤解を与えるかと思い―—実際には誤解ではないのだが、ボルクは話題を変えることにした。
「実は俺、一年前までマイナーをやってたんだ」
ボルクは前を歩く男の背中に向かって、自分の身の上話と、ここ一年の出来事について話し始めた。
最初は言葉を選びながら話していたものの、次第に声には熱がこもり、最後の方には悔しそうに唇を噛み締めながら、それでもボルクは最後まで話し続けた。
そんな彼の話を、自らをXと名乗った男は一度も口を挟むことなく、黙って聞いていた。
やがて話が途切れた頃には、二人が歩いている通りの様子も随分と変わっていた。
道幅は次第に狭くなり、行き交う人々の数も減っている。
周囲に建ち並ぶ建物は古びたものばかりで、外壁には幾度も補修を繰り返した跡が残っていた。
これまでの通りでは頭上を塞ぐほど高く積み重なっていた建物も、この辺りではせいぜい四階か五階建てほどしかない。
その代わり、建物同士の隙間はほとんどなく、細い路地が迷路のように入り組んでいた。
「……おい」
ボルクは足を止めかけた。
この辺りが何と呼ばれている場所なのか、彼も知っている。
スラム街。
都市の中でも、特に貧しい人間たちが暮らす地域だった。
路地の奥には、壁にもたれて眠っている男の姿が見える。建物の入口では痩せた子供たちが何やら言い争っており、その横を通り過ぎた老人は、ボルクの抱えた剣をちらりと見てから足早に立ち去った。
「なあ、工房ってのは……この先なのか?」
「ああ」
男は短く答えた。
その声には何のためらいもない。
ボルクの背中を、嫌な汗が伝った。
もしかすると、自分はまた騙されているのではないだろうか。
昨日、あれほど親身になって話を聞いてくれたバーのマスターまで疑いたくはなかったが、目の前の男が自分をどこへ連れていこうとしているのか、まったく見当がつかなかった。
そもそも、まともな魔道具職人がスラム街に工房を構えているはずはない。
剣を奪われるだけならまだいい。
こんな場所で身ぐるみを剥がされたとしても、助けを呼べるかどうかさえ分からない。
ボルクは無意識に剣の柄を強く握り締めた。
ようやく訪れた幸運だと思っていたのに、結局また自分の運の悪さを思い知らされることになるのだろうか。
そんな考えが頭をよぎったとき、前を歩いていた男が不意に角を曲がった。
「あ、待ってくれ!」
それでもどの道、剣が直らないならこの最悪な状況は変わらない。慌てて後を追うと、そこは建物と建物の間に挟まれた細い路地だった。
スラム街の入口から、それほど奥へ入ったわけではない。
男は路地を少し進んだところで足を止め、壁際に設けられた階段を指さした。
「ここだ」
「……ここ?」
階段は地下へと続いていた。
周囲の建物と同じように、階段の壁にもひび割れが走り、手すりにはところどころ赤茶色の錆が浮いている。
その先には、分厚い金属製の扉が一枚だけ取り付けられていた。
男は慣れた様子で階段を降りると、コートのポケットから小さな鍵束を取り出した。
幾つかの鍵を指先で選り分け、そのうちの一本を鍵穴へ差し込む。
カチリ、と小さな音が響いた。
続いて男が取っ手を引くと、金属製の扉が重々しく動き始める。
ギィィ、と錆びついた蝶番が軋む音が、狭い階段に響き渡った。
「ほら、入れよ」
男はそう言って、開いた扉の向こうへ足を踏み入れた。
ボルクはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて覚悟を決めて階段を降りた。
そして、恐る恐る扉の向こうを覗き込む。
そこには、彼が想像していたものとはまるで違う光景が広がっていた。
壁一面に設けられた棚には、大小さまざまな魔道具の部品が整然と並べられ、中央には使い込まれた大きな作業台が据えられている。
その上には細かな工具が種類ごとに整理され、天井から吊り下げられた魔道灯が、地下とは思えないほど明るく室内を照らしていた。
部屋の奥には見たこともない装置が幾つも置かれ、壁際には分解途中と思われる魔道具が並んでいる。
外の荒れ果てた路地からは、到底想像できない場所だった。
ボルクが呆気に取られていると、先に入った男が作業台の向こうで振り返った。
「何ぼさっとしてんだ。早く入って扉を閉めろ」
その声で我に返ったボルクは、慌てて工房の中へ足を踏み入れた。




