第1話 幸運で不幸なハンター
歪な形の建物が、空へ向かって伸びていた。
古びた集合住宅の屋上に別の建物が継ぎ足され、さらにその上にも新しい階層が積み重なっている。外壁には大小さまざまな配管が這い回り、建物同士を繋ぐ渡り廊下が、狭い通りの頭上に幾重にも架かっていた。
そんな建物に挟まれたとある通りには、今日も大勢の人々が行き交っている。
煤で汚れた作業着を着た男たちや、大きな荷物を背負った運搬人。露店の前では買い物客が店主と値段の交渉をしており、そのすぐ横では、薄汚れた服を着た子供が人混みを縫うように駆け抜けていった。
スラムではないが、決して裕福な人間が暮らす場所でもなかった。
通りを歩く者のほとんどは着古した服を身につけ、建物の壁には雨水が流れた黒い筋が幾本も残っている。道端には壊れた家具や使い物にならなくなった魔道具が積み上げられ、ところどころから漂ってくる生ごみの臭いが、飲食店の排気と混ざり合っていた。
頭上を見上げれば、建物の隙間から紫色に濁った空が覗いている。いや、ここで暮らす人々からすればそれが果たして本当に濁っているのかさえ、もう分からない。
遠くから、魔道列車の出発を知らせる長い汽笛が聞こえてくる。
そんな騒がしい通りを、一人の男がふらふらと歩いていた。
年齢は三十代半ばほど。使い古された革の防具を身につけ、泥のこびりついたブーツを履いたその男は、周囲の人々とぶつかりそうになりながらも、足を止めることなく歩き続けている。
顔色はひどく悪く、頬は青ざめ、目の下には濃い隈が浮かんでいた。
右手には鞘に収められた一本の剣が握られているが、腕はだらしなく垂れ下がり、歩くたびに剣先が石畳を擦りそうになる。
それでも、剣が手から滑り落ちそうになるたび、男は思い出したように柄を強く握り締めた。
男の名はボルク。
一年前、彼はその剣を手にしたとき、ようやく自分の人生が変わるのだと信じていた。
* * *
ボルクは、三十年以上の人生の大半を坑道の中で過ごしてきた。
マイナーと呼ばれる坑夫の仕事は、決して楽なものではない。薄暗い坑道で一日中岩を砕き、掘り出した鉱物を運び、時には落盤の危険に怯えながら作業を続けなければならなかった。
それだけ働いても、月に手に入る金は平均して十三万から十五万ルピー程度。採掘できた鉱物の質が悪ければ、さらに少なくなることも珍しくない。
そんな生活を変えるきっかけが訪れたのは、ちょうど一年前のことだった。
その日もボルクは、いつもと変わらず坑道の奥で岩を砕いていた。
何度目かの一撃を振り下ろしたとき、崩れた岩の隙間に、白いものが見えた。
最初はただの石英か何かだと思ったが、周囲の岩を取り除いてみると、小石ほどの大きさの白い鉱物が姿を現した。
薄暗い坑道の中でも、そこだけが妙にはっきりと見える。
不思議に思ったボルクが近くにいた監督役を呼ぶと、男は手にした鉱物を見た途端、目を大きく見開いた。
それが聖属性の魔鉱物だと知らされたのは、地上に戻ってからだった。
買い取り額は百五十万ルピー。
金額を告げられたボルクは、しばらく何も言えなかった。
何かの間違いではないかと何度も確認し、正式な買い取り証明書を受け取ってからも、そこに記された数字を繰り返し眺めていた。
百五十万ルピー。数か月間、休まず働いてようやく手にできるような金額だった。
そしてボルクは、その金を使って長年の夢だったハンターになることを決意した。
マイナーとして働いていた頃から、彼は都市の外へ魔物を狩りに行くハンターたちに憧れていた。
もちろん、ハンターが危険な仕事であることは知っている。それでも、自分の腕次第で収入を増やせるという話は、毎月の給料を気にしながら貧しい生活を送る彼にとって、何より魅力的に思えた。
ハンターになるためには何も資格が必要なわけではない。
問題は武器だった。弱い魔物を相手にするだけなら普通の剣でも十分だが、ハンターとしてまともな収入を得るには、それなりの魔物を倒さなければならない。
そのためには魔道武器と呼ばれる特別な武器が必要だった。
安いものでも五十万ルピーは下らず、性能の良いものになれば値段は際限なく上がっていく。
何軒もの武器屋を回り、悩みに悩んだ末にボルクが購入したのは、百万ルピーの魔道剣だった。
「こいつはいい剣ですよ。切れ味上昇に耐久性上昇も付いた惑う武器です。長く使うつもりなら、下手に安物を買うよりずっとお得です」
店主はそう言って、磨き上げられた刀身をボルクに見せた。
確かに、その剣は美しかった。
刃には淡い光を帯びた細い紋様が刻まれており、柄を握って魔力を流すと、刀身全体がかすかに震えるような感覚があった。
百五十万ルピーのうち、百万円を一度に使ってしまうことには抵抗があったが、これから長く使う武器なのだと自分に言い聞かせ、ボルクは購入を決めた。
残った五十万ルピーを生活費に充てながら、ハンターとして経験を積んでいけばいい。
そう考えていた。
実際、ハンターになってからここまでの一年間は、決して楽なものではなかった。
最初の頃は弱い魔物を相手にするだけで精一杯で、討伐した魔物から得られる魔石の売却額も、生活費を賄うには心許ないものだった。
都市の外へ出るたびに怪我をし、慣れない戦闘で体中を痛めながら、それでもボルクは少しずつ経験を積んでいった。
マイナーだった頃に比べれば収入は不安定で、貯金も少しずつ減っていたが、後悔したことはなかった。
暗い坑道の中で岩を砕き続けていた頃とは違う。
自分の力で魔物を倒し、その成果に応じた金を手にする生活は、苦労が多くても充実していた。
そしてハンターになって一年が経とうとした頃には、ようやく戦い方にも慣れ、これまで避けていた少し強い魔物にも挑戦できそうだと思えるようになっていた。
そんな矢先だった。
魔物との戦闘中、いつものように剣へ魔力を流そうとした瞬間、柄の奥から小さな音が響いた。
次の瞬間、刀身を覆っていた淡い光が消えた。
何度魔力を流しても、剣は反応しない。
幸い、その場は何とか逃げ出すことができたが、都市へ戻ってからも剣が元に戻ることはなかった。
慌てて購入した武器屋へ持ち込んだものの、店主は剣を一瞥すると、面倒そうに首を振った。
「一年も使ったんでしょう? だったら使い方が悪かったんじゃないですかね」
購入したときの愛想の良い笑顔は、どこにもなかった。
それでも諦めきれず、今度は魔道具の修理を扱う店へ持ち込んだ。
そこで告げられたのは、さらに絶望的な話だった。
「こりゃ随分と古い代物だな。柄の中にある魔道回路の一部が完全に壊れてやがる」
店主は分解した剣の内部を覗き込みながら、呆れたように鼻を鳴らした。
「使い始めて一年だと? だったら元々パーツにヒビでも入っていたんだろうな。お前みたいな素人が粗悪品を掴まされるなんて、よくある話だ」
「そ、それで……直せるんですか?」
ボルクが身を乗り出すと、店主は口元に薄い笑みを浮かべた。
「直すなら、このパーツを一から作らないと駄目だ。今じゃまったく流通していないものだからな。どうだ、七十万ルピーで手に入れてやろう。もちろん先払いになるが」
七十万ルピー。
その金額を聞いた瞬間、ボルクの頭は真っ白になった。
今の彼に、そんな金があるはずもない。
何とか言葉を絞り出して修理を断ると、震える手で剣を受け取り、逃げるように店を後にした。
その後も何軒もの修理屋を回ったが、返ってくる答えは似たようなものだった。
古すぎる。部品がない。修理できない。
中には剣を見ただけで、まともに話も聞かず追い返す店まであった。
* * *
「……チクショウ」
通りを歩いていたボルクの口から、かすれた声が漏れた。
あれほど大切にしていた剣が、今ではただの重たい鉄の塊に思えてしまう。
それでも手放すことができないのは、この剣を買うために費やした金だけでなく、ハンターとして過ごした一年間まで無駄になってしまう気がしたからだった。
気づけば、日は傾き始めていた。
狭い通りの先に、古びた木製の看板が見える。
小さなバーだった。
普段なら見向きもしないような店だったが、今は何も考えたくなかった。
ボルクは重い足を引きずるように店の前まで歩くと、扉に手をかけた。
店内には落ち着いた色の照明が灯り、磨き込まれた木製のカウンターが奥へと伸びていた。
まだ早い時間だからか、客の姿は誰もいない。
カウンターの向こうでは、三十代前半ほどの男がグラスを磨いていた。
「いらっしゃいませ」
男は顔を上げると、ボルクの姿を一度だけ眺めた。
「お一人ですか?」
「ああ……適当に酒をくれ」
「かしこまりました」
男はそれ以上何も聞かず、棚から酒瓶を取り出した。
ボルクはカウンターの端に腰を下ろし、剣を足元へ立てかけると、差し出されたグラスを一息に傾けた。
喉を焼くような熱さが胸の奥へ落ちていく。
もう一杯頼み、さらにもう一杯飲んだ頃には、張り詰めていたものが少しずつ緩み始めていた。
「……なあ、マスター」
「はい?」
「人間ってのはよ、結局都合のいい人生なんて送れねぇようになってるのかな」
カウンターの男は、磨いていたグラスを棚に戻すと、穏やかな表情で首を傾げた。
「何かあったんですか?」
その一言がきっかけだった。
ボルクは、誰に聞かせるつもりもなかった話をぽつぽつと語り始めた。
マイナーだった頃のこと。聖属性の鉱物を掘り当てたこと。ハンターになるために魔道剣を買ったこと。そして、その剣が壊れ、どこの修理屋にも相手にされなかったこと。
男は途中で口を挟むことなく、時折相槌を打ちながら話を聞いていた。
すべてを話し終えると、ボルクは空になったグラスを見つめ、力なく笑った。
「……笑いたきゃ笑ってくれ。騙されて高い買い物して、調子に乗った馬鹿野郎だってな」
「なるほど。お客さんも、ついてるのかついてないのか分からない人ですね」
「……まったくだ」
「でも、探せばまだ直せる人がいるかもしれないじゃないですか」
ボルクは鼻で笑った。
「へっ。そんなやつ、もうこの都市にはいねえさ」
「そう思うのもお客さんの自由ですけどね。だったら、またマイナーに戻るしかないんじゃないですか? まあ、マイナーならハンターより危険は少ないでしょうし、一人で食べていく分には問題ないでしょう」
その言葉を聞いた途端、ボルクの顔が歪んだ。
「……嫌なんだよ」
握り締めた拳が、カウンターの上で小さく震える。
「もう、あんな薄暗い穴の中になんか戻りたくねえんだよ……」
声が次第に大きくなり、俯いた顔からぽたりと涙が落ちた。
「ようやく……ようやく憧れてたハンターになれたってのによ。やっと戦い方も覚えて、これからだってときに……」
ボルクは乱暴に目元を拭ったが、涙はなかなか止まらなかった。
「チクショウ……。やっぱり、こんな世界には夢も希望もねえのかよ……」
カウンターの向こうの男は、しばらく黙ってその様子を眺めていた。
やがて、ボルクの前に水の入ったグラスを置くと、少しだけ声を落とした。
「……実はね、お客さん」
ボルクが涙に濡れた顔を上げる。
男は穏やかに微笑んだ。
「一人だけ、その剣を直せそうな人に心当たりがあるんですが……」




