プロローグ
空は青かったというのはもはやおとぎ話の中の話だ。
晴れた日にはどこまでも澄み渡る青空が広がり、夜になれば無数の星々が輝いている。そんな光景を実際に見たことのある人間は、もうどこにもいない。
この世界の空は、紫がかった灰色をしている。
厚い雲が空を覆い、太陽の姿さえ滅多に拝むことができなくなっていた。
それでも朝になれば空は明るくなり、夜になれば暗くなる。
人々はそんな空の下で生まれ、働き、そして死んでいく。
誰もが、それを当たり前のこととして受け入れていた。
この世界の大地の、そのほとんどは魔物に支配されている。
かつて人間が暮らしていたという土地も、その大半が魔物たちの生息域へと変わっていた。
広大な荒野。鬱蒼と木々が生い茂る森林。険しい山岳地帯。
至るとろこに魔物が存在し、人間が無防備に足を踏み入れれば、命の保証はない。
そんな世界で、人間は巨大な壁に囲まれた都市を築いて暮らしていた。
都市を取り囲む壁には、特殊な鉱石が埋め込まれている。
魔物を遠ざける性質を持つ聖の属性鉱石は極めて希少で、現在の技術では人工的に作り出すこともできない。
人間が今なお絶滅せずに生きながらえているのは、その鉱石のおかげだといっても過言ではなかった。
もっとも、壁があるからといって、すべての危険から守られているわけではない。
都市の外へ一歩踏み出せば、そこは魔物たちの領域なのだから。
それでも、人間は壁の外へ出る。
魔物から得られる魔石は、現代の人間社会に欠かせない資源だったからだ。
街を照らす照明も、家庭で使われる調理器具も、人や荷物を運ぶ乗り物も、その多くが魔石を動力としている。
魔石を組み込み、魔力によって動作する道具。それらは総じて―—魔道具と呼ばれていた。
そして魔物を狩り、その体内から魔石を回収する者たち。人々は彼らを、ハンターと呼ぶ。
そして、都市の生活を支えるもう一つの仕事がある。
都市の地下から伸びる坑道を通り、鉱山から鉱石を掘り出すマイナーだ。
彼らが採掘する金属や鉱石は、建物の建設から魔道具の製造まで、さまざまな用途に使われている。
ハンターもマイナーも、決して安全な仕事ではなかった。
魔物に殺されるハンターもいれば、落盤事故によって命を落とすマイナーもいる。
それでも、仕事を求める人間が途絶えることはない。
稼ぎの少ないマイナーに対して、ハンターになれば危険に見合う報酬を得られる可能性もあるが、何より、危険な仕事のほかに生きる手段を持たない者も多かったからだ。
世界にいくつかある城塞都市にはそれぞれ数百万人が生活している。
高層建築が立ち並ぶ中心部では、富裕層が豊かな生活を送っていた。
整備された道路を高級な魔道車が行き交い、店には高価な魔道具や衣服が並ぶ。
金さえあれば、望むものの大半は手に入った。
一方で、都市の外縁部には、古びた建物が隙間なく立ち並ぶ貧民街が広がっている。
増築を繰り返した建物は複雑に入り組み、狭い路地の頭上には配管や魔力線が幾重にも走っていた。
窓を開ければ隣の建物の壁があり、日中でも薄暗い部屋の方が多かった。
壊れた設備を修理する金がなければ、そのまま使い続けるしかない。
雨漏りする屋根も、まともに動かない空調も、故障した照明も、住人たちにとってはありふれたものだった。
同じ都市の中に暮らしていながら、中心部と貧民街では、まるで別の世界のような生活が営まれている。
だが、それもこの世界では当たり前の光景だった。
人々は生まれた場所によって、手にできるものが大きく異なる。
良い教育を受けるにも金がいる。
安全な仕事に就くにも、資格や人脈が必要になる。
病気や怪我を治療するための医療技術も発達しているが、高度な治療を受けられるかどうかは、結局のところ本人の懐事情に左右される。
金があれば助かる命も、金がなければ失われる。
そんなことが、日常的に起こっていた。
だからといって、貧民街の人間が皆、不幸な顔をして暮らしているわけではない。
狭い路地には屋台が並び、仕事を終えた労働者たちが酒を酌み交わす。
子供たちは建物の隙間を駆け回り、商人たちは少しでも多くの商品を売ろうと声を張り上げる。
金持ちも貧乏人も、明日がどうなるかなど分からない。
それでも腹が減れば飯を食い、疲れれば眠り、たまには酒を飲んで騒ぎたくなる。
人間とは、そういう生き物なのだろう。
そして、そんな人間たちのために、この都市にはいくつもの娯楽施設が存在していた。
その一つが、カジノである。
都市の中心部には富裕層向けの豪華なカジノがあり、そこでは僅かな時間で庶民の年収を超える金が動くことも珍しくない。
もちろん、そんな場所ばかりではない。
貧民街からほど近い、ギルドに所属していないハンターなどが暮らす地区にも、比較的大衆向けのカジノがあった。
魔物を狩って大金を手にしたハンターが、勢いのまま賭けに興じることもあれば、日々の稼ぎを増やそうとして有り金を失う者もいる。
一晩で人生が変わることもあれば、一晩で何もかも失うこともある。
熱気と焦燥に包まれた、そんな場所の扉が開き、一人の男が外へ出てきた。
年齢は三十歳ほど。
伸び放題の髪に、くたびれた服。
身なりに気を遣っている様子はなく、どう見ても裕福な人間には見えなかった。
男は店の外へ出ると、大きな欠伸を一つした。
カジノの中とは違い、外の空気は少し冷たい。
普段なら人でごった返している通りにも、この時間はほとんど人影がなかった。
営業を終えた店の前にはゴミ袋が積まれ、建物の隙間からは古い室外機の低い唸り声が聞こえてくる。
男はポケットから財布を取り出した。
使い込まれた革の財布だった。
中を開いて確認すると、紙幣は一枚も残っていない。
入っているのは、わずかな小銭だけ。
男はそれを見て、苦笑いを浮かべた。
「……今日も負けたなぁ」
その声には、金を失った悲壮感などほとんどなかった。
むしろ、楽しい時間を過ごしたあとの、心地よい疲労感さえ滲んでいる。
男は財布をポケットへ戻すと、両手を突っ込んだまま歩き始めた。
目指すのは、ここから三十分ほど歩いた先にある貧民街。
その一角にある、古びた住居だった。
男の名前は、レオン。
正規の資格を持たない、モグリの魔道具職人である。




