第12話 スラム街の少年と懐中時計
「……あっ!」
目の前の男が、自分が標的にした相手だと思い出したクリフは思わず声を漏らした。
レオンはそんなクリフを見て、にやりと笑った。
「思い出したか?」
「な、何のことだよ!」
クリフは反射的に否定するもその声は裏返ったものになってしまった。
それでは自白しているようなものだ、と呆れたレオンは肩をすくめる。
「別に怒っちゃいねぇよ。どうせ中身はほとんどはいってなかったろ」
「……知らないよ」
――盗みがばれた。
ここで捕まえられたら、どうなるか分からない。
そう思ったクリフは無意識に、一歩後ずさった。
しかしクリフの後ろには見るからに堅牢そうな金属の扉があるだけで、逃げ場はなかった。
「……おい」
レオンが声をかける。
クリフの肩がびくりと跳ねた。
「な、なんだよ……」
「そんな顔すんなって。取っ捕まえたりしねぇよ」
「……本当かよ」
「嘘ついてどうすんだ」
レオンは面倒くさそうに答えると、クリフの横を通り過ぎて金属扉の前へ向かった。
そして、ポケットから鍵を取り出す。
逃げるなら今だ、そう思って走り出そうとしたクリフにレオンは再び声をかけた。
「で、依頼なんだろ?」
「……え?」
「違うのか?」
クリフは戸惑った。
盗みを知っているというのに、目の前の男はまるで気にしていない。
怒鳴ることも、金を返せと言うこともなかった。
それどころか、普通に仕事の話を始めているのだ。
「……いや、そうだけど」
「だったら入れよ」
男が鍵を操作すると、扉の奥から小さな機械音が響いた。
続いて、重そうな金属扉が開かれる。
「ほら」
「…………」
クリフはその場から動けなかった。
この男を信用していいのだろうか。
工房に入った途端、扉を閉められて捕まるかもしれない。
そんな考えがクリフの頭をよぎる。
しかし、レオンはそんなクリフの様子など気にも留めず、さっさと中へ入ってしまった。
「……何してんだ。来ねぇのか?」
室内に僅かに反響した声が響く。
クリフは唇を噛んだ。
ここまで来て帰るわけにもいかない。
それに、もし本当に捕まえるつもりなら、わざわざ工房へ入れる必要もないはずだ。
そう願うようにクリフは一歩、踏み出した。
「……行くよ」
小さく答え、恐る恐る扉をくぐる。
そして、目の前の光景に思わず足を止めた。
「……うわ」
工房の中は、驚くほど整然としていた。
壁には工具が種類ごとに並べられ、棚には大小さまざまな部品が整理されている。
作業台の上には見慣れない器具がいくつも置かれていたが、どれも丁寧に手入れされていることがクリフにも分かった。
床にもゴミ一つ落ちていない。
外の薄暗い路地や、目の前の男のだらしない格好からは、まるで想像できない空間だった。
「……ここ、本当にあんたの工房なの?」
「ああ。なんだと思ってたんだよ」
「いや……もっと汚いところかと」
「失礼なガキだな」
レオンは苦笑いを浮かべながら、作業台の前へ移動した。
「で、何をしてほしいんだ?」
クリフは一瞬、ためらった。
本当に、この男を信用してもいいのだろうか。
しかし、ここまで来た以上、見せるだけ見せてみよう。
そう考え、上着の内側へ手を伸ばした。
「……これ」
取り出したのは、古びた懐中時計だった。
クリフはそれを両手で包むように持ち、恐る恐るという様子でレオンへ差し出した。
レオンは時計を受け取ると、手のひらの上で軽く裏返した。
「ふーん。時計か」
金属製の外装には細かな傷が刻まれ、長い年月を経てきたことがうかがえる。
「随分古いな、こいつ」
「……直せる?」
「見てみねぇと分からん」
レオンはそう答え、時計を開いた。
止まったままの針を確認すると、今度はクリフへ視線を向ける。
「……それで、これも盗んだものなのか?」
「違う! これはおじさんのッ……!」
クリフは思わず声を荒らげた。
しかし、途中で口を閉じる。
「……ん?」
レオンが首を傾げる。
「あっ……いや、その……」
クリフは視線を逸らした。
別に、やましいことがあるわけではなかった。
それでも自分の事情を、まして会って間もない相手に、全て話す気にはなれなかった。
「と、とにかく! これは盗んで手に入れた物じゃないから安心してよ!」
「別に心配なんかしてねぇよ」
レオンはあっさりと答えた。
そして、再び懐中時計へ目を落とす。
「……これが盗品でもなんでも、俺には関係ないからな」
そのまま時計を持ち、作業台の方へ歩き始めた。
クリフはその背中を見つめた。
「……おい」
「あ?」
「……本当に、直せるんだろうな?」
レオンは振り返った。
「だから、調べてみねぇと分からねぇって言ってんだろ」
そう言うと、レオンは面倒くさそうに頭を掻いた。
「とりあえず、そこに座って待ってろ」
クリフは返事をしなかった。
ただ、レオンの手の中にある懐中時計を、じっと見つめていた。
止まってしまった、あの時計。
もう一度、あの針が動くところを見られるのだろうか。
そんな期待と不安を抱えながら、クリフは言われたとおり、近くの椅子へ腰を下ろした。
「さて、と……」
レオンは作業台の前に腰を下ろすと、手にしていた懐中時計を照明の下へ持っていった。
古びた金属製の外装には無数の細かな傷が刻まれ、蓋の縁も長年の使用によって少し擦り減っている。
それでも、決して粗末な品物ではなかった。
むしろ、造りそのものはしっかりしている。
「……結構いい時計じゃねぇか」
「え?」
「古いけどな。少なくとも、そこらで売ってる安物よりはずっといい」
「……そうなの?」
「なんだ。知らずに持ってたのか?」
「別に、時計のことなんて詳しくないし……」
クリフは椅子に座ったまま、少し不満そうに答えた。
レオンは小さく笑うと、再び時計へ視線を戻した。
「まあ、そんなもんか。……それにしても随分使い込まれてるな」
「……ずっと使ってたらしいからね」
「ふーん……」
レオンはそれ以上尋ねることなく、時計を裏返して状態を確認する。
先ほどクリフが口走った「おじさん」という言葉が頭をよぎる。
おそらく、その人物が長年使っていたものなのだろう。
もっとも、それが誰で、どうして今はクリフの手元にあるのか。レオンにとってそれは興味の対象にはならなかった。
「で、いつから動かなくなった?」
「……今朝」
「今朝?」
「ああ。ちょっと転んじゃってさ。それから動かなくなったんだ」
「なるほどな。落としたのか?」
「落としてはないけど……思いっきり地面に倒れたから」
「ふーん」
軽い返事をしたレオンは懐中時計の裏蓋を開けると、内部を覗き込んだ。
「……ああ、こいつか」
「えっ?」
「いや、まだ分からん。ちょっと待ってろ」
レオンは作業台の照明を調整すると、時計を固定するための小さな器具を取り出した。
それから、細い工具を使って内部の部品を一つずつ確認し始める。
クリフは椅子に座ったまま、その様子をじっと見つめていた。
何をしているのかは、さっぱり分からない。
時計の内部には小さな歯車や金属片が複雑に組み合わされており、その一つ一つがどういう役割を持っているのか、クリフには想像もつかなかった。
ただ、レオンの手つきが妙に慣れていることだけはなんとなく分かった。
さっきまでのだらしない雰囲気とは違い、作業中のレオンには無駄な動きがほとんどない。
工具を持ち替える動作も、部品を確認する仕草も、驚くほど滑らかだった。
「……なあ」
「ん?」
「本当に修理屋なんだな」
「本職は魔道具職人だけどな」
「そうだとしても……いや、なんか……」
クリフは言葉を探した。
「もっと適当な奴かと思ってた」
「お前、さっきから失礼なことしか言わねぇな」
レオンは呆れたように答えたが、手を止めることはなかった。スラムに住んでいるようなやつは大抵は口が悪い。それはレオン自身も身をもって知っていることだった。
クリフは少しだけ笑った。
先ほどまで感じていた警戒心が、いつの間にか薄れていることに気づく。
もちろん、完全に信用したわけではない。
それでも、少なくとも目の前の男が時計に対しては真摯に向き合っている、そんな気がしたのだ。
「……おっ」
しばらくして、レオンが小さく声を上げた。
「原因は分かったぞ」
「本当!?」
クリフは思わず椅子から立ち上がった。
「おいおい。そんな慌てんなって」
「だって……!」
「分かったのは原因だけだ。直るかどうかは、まだ別の話だぞ」
「……あ」
クリフは口を閉じ、再び椅子に座り直す。
レオンは小さな器具を使い、時計の内部にある部品を指し示した。
「ここのヒンジが曲がってる。転んだときの衝撃だろうな。おかげで隣の部品と噛み合わなくなってる」
「……直せる?」
「これくらいならな」
レオンは工具を持ち替えると、時計の内部から小さな部品を取り外した。
そして、作業台の引き出しから代わりの部品を探し出し、手際よく組み込んでいく。
クリフは椅子に座ったまま、その作業を眺めていた。
しばらくすると、レオンは時計の内部を確認し、小さく頷いた。
「よし。こっちは問題ねぇな」
「じゃあ、直ったの?」
「もう少しだ」
レオンは取り外していた文字盤のガラスカバーを手に取った。
しかし、その表面に走る亀裂を確認すると、ふと手を止めた。
「……こっちも割れてんのか」
そう呟いて、ガラスカバーを作業台の端へ置く。
そして、時計へ片手を添えたまま、静かに目を閉じた。
「……?」
クリフは首を傾げた。
何をしているのだろう。
修理の途中で、急に動かなくなってしまった。
気になって椅子から少し背を伸ばしてみたものの、作業台までは距離がある。おまけに背の低いクリフの位置からでは、レオンの手元までは見えなかった。
「……おじさん?」
返事はない。
レオンは目を閉じたまま、何かに集中しているようだった。
しかし、それもほんのわずかな時間だった。
三秒ほど経ったところで、レオンはゆっくりと目を開けた。
「……よし」
そして、何事もなかったように懐中時計を手に取った。
「終わったぞ」
「……え?」
クリフは思わず聞き返した。
「もう?」
「ああ。ほら」
レオンが差し出した懐中時計を、クリフは恐る恐る覗き込む。
蓋が開かれると、そこには、傷一つない透明なガラスに覆われた文字盤がある。
そして、その奥では――。
チッ、チッ、チッ。
止まっていた針が、再び時を刻んでいた。
「……あ」
クリフは思わず作業台へ近づいた。
時計の針が、ゆっくりと動いている。
ほんのわずかな動きだった。
それでも、確かに動いていた。
「……動いた」
「おう。問題なさそうだな」
レオンは内部をもう一度確認して、工房内にある時計と時間を合わせてから裏蓋を閉じた。
それから時計を手に取り、軽く振ってみる。
耳元へ近づけ、音を確かめる。
「……うん。これなら大丈夫だろ」
そう言って、クリフへ差し出した。
「ほら」
クリフは両手で時計を受け取った。
見慣れた重みが、手のひらに戻ってくる。
恐る恐る蓋を開いた。
針が動いている。
耳元へ近づけると、規則正しい音が聞こえた。
チッ、チッ、チッ。
「…………」
クリフは何も言わなかった。
ただ、時計をじっと見つめていた。
今朝、何度叩いても、振っても動かなかった針。
もう二度と動かないのではないかと思った、あの時計。
それが今、自分の手の中で動いている。
「……よかった」
小さな声が漏れた。
クリフは慌てて顔を伏せた。
別に、泣くほどのことではない。
ただ時計が直っただけだ。
そう自分に言い聞かせたが、胸の奥に溜まっていたものが、ゆっくりとほどけていくような感覚があった。
「……よかったぁ」
今度は、少しだけ声が震えた。
レオンはそんなクリフを横目で見ながら、工具を片づけ始めた。
「大袈裟だな。壊れたパーツを取り換えただけだぞ」
「……うるさいな」
「なんだよ。直してやったのに」
「……別に、文句なんて言ってないだろ」
クリフは時計を胸元へ引き寄せた。
レオンは小さく笑った。
「けどこんなサイズのガラスまで持ってるなんて、おじさん何者なんだよ」
クリフはピカピカになったガラスのカバーを思い出してレオンに問いかけた。
元のガラスカバーは今も作業台の端に置かれたままになってる。
「何者って……たまたま持ってただけだよ」
そこでレオンは言いにくそうに言葉を詰まらせると、頭を掻きながら話を切り替えた。
「で、修理代なんだけどな」
「……あ」
その言葉を聞いたクリフの表情が固まった。
この時クリフは修理代のことを、すっかり忘れていたと思い出した。
せっかく直ったのに支払えない金額を請求されればクリフにはどうすることもできない。
不安そうなクリフの表情を見て苦笑いを浮かべたレオンは指を一本立てた。
「千ルピーだ」
「……千?」
「ああ」
クリフは思わず時計を見下ろした。
それから、上着のポケットへ手を伸ばす。
今朝盗んだ財布には、それなりの金が入っていた。
だが、千ルピーと言ってもクリフにとっても決して安い金額ではない。
「……もう少し安くならない?」
「ならねぇよ」
即答だった。
「けど、部品交換しただけなんだろ?」
「その部品にも金がかかってるんだぞ」
「……それは、そうだけど」
クリフは口を尖らせた。
レオンは肩をすくめる。
「嫌なら別にいいぞ。元に戻してやっても」
「ちょっ! それは駄目!」
クリフは慌てて時計を抱え込んだ。
レオンは声を上げて笑った。
「冗談だよ、冗談」
「……性格悪いな、あんた」
「よく言われる」
クリフは不満そうに頬を膨らませた。
それでも、しばらく迷ったあと、ポケットから紙幣を取り出し、レオンへ差し出す。
「……はい」
「毎度あり」
レオンは紙幣を受け取ると、特に確認することなくポケットへしまった。
それだけだった。クリフがどうやってその金を手に入れたのか、尋ねることもない。
一昨日、自分の財布を盗んだ少年だというのに、まるで気にしていないようだった。
「……なあ」
「ん?」
「……あんた、変な奴だな」
「お前に言われたくねぇよ」
レオンはそう答えながら、使った工具を元の場所へ戻した。
クリフは小さく笑った。
そして、もう一度時計を開く。
針は変わらず動いていた。
「……ありがとう」
ぽつりと呟く。
レオンが振り返った。
「ん? 何か言ったか?」
「……何でもない!」
クリフは慌てて時計を閉じた。
「もう帰る!」
「おう。気をつけてな」
レオンはあっさりと答えた。
クリフは時計を上着の内側へしまい、工房の出口へ向かったが、金属扉の前で一度だけ振り返る。
レオンはすでに次の作業を始めており、もうクリフの方を見ていなかった。
「…………」
クリフは何か言いかけようとするが、結局何も言わずに扉を開けた。
階段を上り、薄暗い路地へ出るといつもと変わらないスラムの景色が広がっていた。
崩れかけた壁。頭上を走る魔力線。通りの向こうから聞こえる、誰かの怒鳴り声。
何一つ変わっていない。
それでも、クリフには少しだけ違って見えた。
上着の内側へ手を入れ、懐中時計を取り出す。
蓋を開くと、針は規則正しく動いていた。
チッ、チッ、チッ。
クリフはしばらく、その音に耳を澄ませた。
そして、誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。
「……直ったよ、おじさん」
懐中時計を大切そうにしまうと、クリフはいつもの路地へ向かって歩き始めた。




