第13話 スラム街の少年とギルドのハンター
レオンに懐中時計を修理してもらってから、数日が経った。
まだ夜も明けきらない早朝。
クリフはスラムの外れにある通りで、いつものように獲物を探していた。
この時間帯は、夜通し酒を飲んでいた酔っぱらいや、カジノで遊び明かした客が帰路につく時間帯だ。
そういう人は大抵、足元がおぼつかず、周囲への警戒も薄れている。
クリフにとっては、仕事のしやすい時間だった。
「……おっ」
通りの向こうから、一人の男が歩いてくるのが見えた。
年齢は三十代半ばほどだろうか。
大柄で、肩幅の広い男だった。
男は片手に酒瓶をぶら下げ、時折それを口元へ運びながら歩いている。
顔は耳まで真っ赤に染まり、目も半分ほどしか開いていない。
「ふん、ふふーん……」
調子の外れた鼻歌を口ずさみながら、男はふらふらと通りを進んでいた。
右へ二歩進んだかと思えば、次の一歩で左へよろめく。
途中、壁に肩をぶつけた男は、何がおかしいのか一人で笑い出した。
「……へへっ。壁が寄ってきやがった……」
そう呟いて、再び酒瓶を傾ける。
クリフは建物の陰から、その様子をじっと観察していた。
――こいつならいける。
男の上着はそれなりに上等なものだった。
腰には使い込まれた革製の鞄があり、胸元からは財布らしき膨らみも確認できる。
あれだけ酔っていれば、多少ぶつかったところで気にも留めない可能性は高かった。
クリフは男の進む方向を確認すると、何食わぬ顔で通りへ出た。
そして、少し急いでいるような足取りで男へ近づいていく。
「うわっ!」
クリフはわざと声を上げ、男の身体へぶつかった。
その瞬間、上着の内側へ手を滑り込ませる。
クリフにとっては手慣れた、いつもと同じ動きだった。
相手の身体が揺れた隙に財布を抜き取り、そのまま走り去る。
何度も繰り返してきた手口。
だが――。
「……ッな!」
突然、手首に強い力が加わったことを感じたクリフが目を見開いた。
男の手が、上着の内側に入り込んだクリフの腕をがっしりと掴んでいた。
「……ヒック。おい、ガキ」
男がゆっくりと顔を向ける。
その顔は相変わらず赤く、酒臭い息がクリフの鼻を突いた。
「今、俺の財布をすろうとしたな?」
「……ッ!」
クリフは反射的に腕を引いた。
しかし、動かない。
「な、なんのことだよ! 離してよ!」
「……ヒック。とぼけんなって」
男は酒瓶を持ったまま、ふらりと身体を揺らした。
今にも倒れそうなほど酔っている。
それなのに、クリフの腕を掴む手だけは、まるで鉄の輪のようにびくともしなかった。
「い、痛いって!」
「そりゃあ、そうだろうなぁ……」
男は間延びした声で答えると、にやりと笑った。
「俺はなぁ……シグニティギルドに所属してるハンターなんだよ」
「……ギ、ギルド?」
その言葉を聞いた瞬間、クリフの顔から血の気が引いた。
ハンターとは、都市の外に生息する魔物を狩り、魔石や素材を持ち帰る者たちのことだ。
その中でも、ギルドに所属しているというのは一定以上の実力を認められた、ごく一部の優秀なハンターであることの証明でもあった。
ギルドは所属するハンターに仕事や報酬を保証するだけでなく、その身分を保護する役割も担っている。
そのため、ギルド所属のハンターは社会的な信用も高い。
少なくとも、スラムで暮らす身寄りのない子供とは、比べるまでもなかった。
「俺が財布をすられそうになったって感じたんだ」
男は酒臭い息を吐きながら、クリフの顔を覗き込んだ。
「……それだけで、理由は十分だろ?」
「ち、違う! 俺はただぶつかっただけで……!」
「へえ……?」
男の指に、さらに力がこもる。
「いっ……!」
クリフは顔を歪めた。
逃げようと足を踏ん張っても、腕は少しも動かない。
男は相変わらずふらふらと揺れている。
今なら突き飛ばせるかもしれない。
クリフは一瞬そう考えたが、すぐに思い直した。
これほど酔っているにもかかわらず、クリフの手の動きに気づいた相手だ。
下手に暴れれば、今度こそ力尽くでクリフを制圧してくる可能性もあった。
「……さーて、どうしてやろうかなぁ」
男が楽しそうに呟く。
その声を聞いた瞬間、クリフの背筋が冷たくなった。
――まずい。
盗みが見つかった者がどうなるのか、クリフはよく知っていた。
スラムでは、捕まった人間が鉱山へ送られることなど珍しくない。
実際、以前クリフと顔見知りだった少年も、盗みがばれて連れていかれたきり戻ってこなかった。
まして相手はギルド所属のハンターだ。
スラムの少年とギルドのハンター、どちらの証言をこの都市の司法が信用するのかなど考えるまでもないのだ。
「……や、やめてよ」
気づけば、声が震えていた。
「俺、何も取ってないだろ……?」
「んん? そうだなぁ。まだ取られてはねぇな」
男は酒瓶を持ち上げ、一口飲んだ。
「けど、盗もうとしたのは間違いねぇだろ?」
「……ッ」
クリフは何も言い返せなかった。
実際、男の言うとおりだったからだ。
クリフは必死に周囲を見回した。
通りには何人かの人影があったが、誰も近づいてこない。
こちらをちらりと見て、すぐに目を逸らしてしまう。
助けてくれる人間など、いるはずもなかった。
――やばい、このままじゃ‥‥
クリフの心臓は激しく脈打っていた。喉がからからに渇き、呼吸もうまくできない。
せめてもの抵抗か、クリフは男の手首を掴み返してみたが、男はそれを意に介した様子さえ見せない。
もう逃げられない。
このまま連れていかれる。
鉱山へ送られて、二度とここへ戻れなくなる。
そんな考えがクリフの頭の中を埋め尽くした、そのときだった。
「……お前、何してんだ?」
通りに響いた聞き覚えのある声に、クリフが顔を上げる。
通りの向こうから、一人の男が歩いてきていた。
くたびれた上着に、眠そうな顔。
片手をポケットへ突っ込み、面倒くさそうにこちらを見ている。
「……おじさん」
レオンだった。
「……あー」
レオンはクリフと、その腕を掴んでいる男を交互に見た。
それから、呆れたように小さく息を吐く。
何が起きているのか、説明されるまでも理解した様子だった。
「またお前かよ……」
「……なんだぁ、おまえぇ」
ハンターが赤い顔を向けた。
レオンはその顔を見ると、眉をひそめた。
「……げ。あんた、さっき隣にいたハンターじゃねぇか」
「うーん……?」
男は目を細め、レオンの顔をじっと見つめた。
しばらくして、ぽんと手を打つ。
「ああ! 隣で負けてた兄ちゃんか!」
「負けてたは余計だ」
レオンは不機嫌そうに答えた。
どうやら二人は、つい先ほどまで同じカジノにいたらしく、ハンターの男は楽しそうに笑った。
「がははっ! いやぁ、あれはひどかったなぁ!」
「うるせぇな。それより、そいつをどうするつもりだ?」
レオンがクリフを顎で示す。
「ああ、こいつか?」
男は思い出したように、掴んでいたクリフの腕を少し持ち上げた。
「このガキがなぁ、俺の財布をすろうとしやがったんだよ」
「ふーん」
レオンは気のない返事を返した。
それを聞いたクリフは無意識に唇を噛む。
――やっぱり、そう思われるよな。
自分は実際に、レオンの財布も盗んでいる。
助けてもらえる理由など、どこにもない。
ところが、レオンは眠そうな顔のまま口を開いた。
「……でも、まだすったわけじゃねぇんだろ?」
「ん?」
「財布。取られてねぇんだろ?」
「そりゃあ、そうだけどよ。確実にこいつの手が懐に入ってきたんだぜ?」
「たまたまの可能性もあるだろ」
「……たまたま?」
「ああ。ぶつかった拍子に手が入っただけかもしれねぇ」
レオンは肩をすくめた。
「もちろん、盗もうとした可能性もあるけどな」
クリフは思わずレオンを見た。
クリフのことをかばおうとしているのだろうか。
しかし、レオンの顔にはそんな様子はない。
ただ面倒な話を早く終わらせたいとでも言いたげに、頭を掻いているだけだった。
「……まあ、そう言われりゃそうかもしれねぇが」
ハンターは首を傾げた。
レオンはその様子を見て、さらに続けた。
「それに、今日は随分勝ってたじゃねぇか」
「おう! そうなんだよ!」
男の顔がぱっと明るくなった。
「久しぶりに大勝ちしたぜ!」
「だったら、そんな不確かなことで警察に突き出してどうすんだよ。事情を聞かれてるうちに酔いも醒めるし、せっかくの気分も台無しだろ」
「……んん」
男は考え込むように唸った。
「それもそうだなぁ……」
「だろ? 今日はさっさと帰って寝た方がいいぜ」
「……ふん」
男はクリフを見下ろした。
その目つきが、一瞬だけ鋭くなる。
「……まあ、いい」
そして、ようやく手を離した。
「次はねぇからな、ガキ」
「……ッ!」
解放されたクリフは、反射的に腕を胸元へ引き寄せた。
手首には、男の指の跡が赤く残っていた。
「じゃあな、兄ちゃん!」
「おう。気をつけて帰れよ」
男はレオンへ片手を上げると、再びふらふらと歩き始めた。
酒瓶を傾け、調子の外れた鼻歌を口ずさむ。
先ほどまでクリフの腕を掴んでいたとは思えないほど、足取りは頼りなかった。
その背中が通りの向こうへ消えるまで、クリフは動くことができなかった。
「……はぁ」
レオンがため息をついた。
「ったく。何やってんだ、お前」
「…………」
クリフは返事をしなかった。
まだクリフの心臓は激しく脈打っているし、手首の痛みも消えていなかった。
それでも、先ほどまでクリフの胸を押し潰していた恐怖は、少しずつ薄れていった。
「……なんで」
「あ?」
「……なんで助けたんだよ」
レオンは眉をひそめた。
「助けた?」
そして、面倒くさそうに肩をすくめる。
「俺はただ、事実を言っただけだよ。被害もねぇんだ。あの男にとって、お前を鉱山送りにしたところで金が貰えるわけでもねぇしな」
「……でも」
クリフは言いかけて、口を閉じた。
レオンが何を考えていたのかは分からない。
ただ、一つだけクリフにも分かっていたことがあった。
—―あのままだったら、俺は間違いなく鉱山送りだった。
「……ありがとう」
クリフがただでさえ小さい頭を、少しだけ下げる。
それを見たレオンは少しだけ目を細めた。
「礼を言うくらいなら、本当に鉱山送りになる前に足を洗うんだな」
「…………」
クリフの表情が曇った。
「……それで生きていけるなら、そうしてるさ」
吐き出すように絞り出したクリフの声はいつもより低かった。
「盗まなきゃ、飯だって食えないんだよ」
クリフは俯いたまま、拳を握りしめる。
「……あんたには分かんないだろうけどさ」
しばらくの沈黙のあと、レオンが口を開いた。
「それでも、自分で何かを変えねぇとな」
「……え?」
「このままだと、行き着く先は地獄だぞ」
その言葉を聞いた瞬間、クリフの胸に何かが込み上げた。
先ほど味わった恐怖と、いつか自分も鉱山に送られてしまうかもしれないという不安。
ただクリフもそんなことは、レオンに言われなくても理解していた。
ただ、スラムで物心ついた時からスラムで育ち、まともな教育も受けてこなかったクリフはこれ以外に生き残る術を知らないのである。
「……知ったように言うな!」
クリフは今度こそ声を荒らげて叫んだ。
「何も知らないくせに!」
それだけ叫ぶと、クリフは背を向けて走り出した。
「……ったく」
背後からレオンの呆れた声が聞こえたが、クリフは振り返ることはなかった。
ただ、ひたすらクリフは走った。
スラムの奥まった一角。入り組んだ路地をいくつも抜けた先にある、自らの寝床に辿り着いてようやく足を止めた。
そこは、もともと建物と建物の隙間だった場所に、誰かが廃材を使って壁と屋根を取り付けたような、小さな空間だった。
周囲の建物は何度も違法な増築を繰り返しており、外から上を見上げれば、継ぎ足された床や壁が複雑に重なっているのがよく分かった。
錆びた金属板。どこから持ってきたのかも分からない、色も形もばらばらの建材。
それらが無理やり組み合わされ、どうにか建物の形を保っている。そこがクリフの家だった。
クリフは歪んだ扉を押し開け、中へ入った。
「……はぁ、はぁ……」
薄暗い室内には、湿った木材と埃の臭いが漂っていた。
天井は低く、大人なら少し屈まなければならないほどだ。
壁の隙間からは冷たい風が入り込み、床の一部は踏むたびに軋む。
窓と呼べるものはなく、外の光は建材の隙間から細く差し込むだけだった。
家というより、物置小屋に近い。
それでも、ここはクリフが自分で見つけた場所だった。
スラムには、そもそも正式な家賃というものがない。
勝手に空いた場所を占拠し、廃材を集めて住みつく者も多かった。
もちろん、場所によっては縄張りを主張する集団がみかじめ料を取り立てることもある。
だが、幸いにもこの辺りには、そんなグループはいなかった。
少なくとも、今のところは。
室内にあるのは、拾ってきた木箱がいくつかと、古びた布の袋。
そして、床に敷いた一枚のシーツだけだった。
ベッドというにはあまりにも心もとない、そのシーツの上がクリフの寝床だった。
クリフは扉を閉めると、その場にずるずると座り込んだ。
「……はぁ」
ようやく、クリフの息が整ってきた。
だが、震えはまだ収まらなかった。
クリフはぼーっと手首を見つめる。
男に掴まれた感触が赤くなった手形と共に、今も残っていた。
「…………」
クリフは両膝を抱え込み、そこに頭をうずめた。
今までだって、危ない目に遭ったことはあった。追いかけられたことも、殴られたこともある。
それでも、どうにかクリフは逃げ延びてきた。
だから、これからも何とかなるとクリフは思っていた、いや、信じていたのだ。
だが、今日の相手には、クリフは何もできなかった。
腕を掴まれただけで、逃げることさえできなかったのだ。
『このままだと、行き着く先は地獄だぞ』
レオンの言葉が、クリフの頭の中で繰り返された。
「……くそっ」
吐き捨てるようにそう呟いたクリフは拳を地面に叩きつける。
そしてしばらく、そのまま動かなかった。
どれほど経っただろう。
やがて、ゆっくりと上着の内側へ手を伸ばした。そして取り出したのは、数日前、レオンに修理してもらった古びた懐中時計だった。
蓋を開くと、針はクリフの悩みなど知らずに、相変わらず一定のリズムを刻んでいた動いていた。
チッ、チッ、チッ。
小さな音が静かな室内に響く。
クリフは時計を両手で包み込み、胸元へ引き寄せる。
「……おじさん」
そして、誰もいない室内で、ぽつりと呟いた。
「……俺、どうすりゃいいんだ?」
狭い部屋の中で僅かに反響した問いかけに答えは返ってこない。
ただ、懐中時計の針だけが、変わらず規則正しく動いているだけだった。
「……教えてくれよ」
クリフはぎゅっと時計を握りしめた。
その瞼の裏に、もう会うことのできない男の顔が浮かんでいた。




