第11話 スラム街の少年と貧乏人
「確か、この辺だって話だよな……」
クリフはスラムの路地を覗き込みながら、以前、知り合いから聞いた話を思い出していた。
スラムに入ってそれほど離れていない場所に、どんな魔道具でも直してくれる修理屋がいる。
しかも、普通の修理屋に頼むよりもずっと安いらしい。
もっとも、その知り合いも実際に修理を頼んだわけではなく、どこかで聞いた噂を話していただけだった。
「地下にあるって言ってたけど……」
クリフは周囲を見回した。
頭上には建物同士をつなぐように配管が走り、その間から垂れ下がった魔力線が風に揺れている。
昼間だというのに、建物に挟まれた路地は薄暗かった。
壁は所々が崩れかけ、足元には空き缶や紙くずが散らばっている。
クリフにとっては見慣れた景色だった。
スラムの建物は違法な建築水準で増築を繰り返しているものが多く、見た目の出来も悪い。外から見ただけではどこに何があるのか分からないことも珍しくない。
実際、クリフ自身もこの辺りの路地をすべて把握しているわけではなかった。
「……あれか?」
しばらく歩いたところで、建物の間に下へ続く階段を見つけた。
通りから少し奥まった場所にあり、注意して見なければ通り過ぎてしまいそうな階段だった。
クリフは近づくと、恐る恐る下を覗き込む。
階段の先は薄暗く、奥までは見通せない。
「こんなところに修理屋なんてあるのかよ……」
小さく呟きながらも、クリフは階段を降り始めた。
靴底が古いコンクリートを踏む音が、狭い空間に響く。
そして、階段を降りきったところで足を止めた。
「……うわ」
クリフの目の前に現れたのは、頑丈そうな金属製の扉だった。
周囲の古びた壁とは明らかに釣り合わない、見るからに分厚そうな扉。
表面には傷もなく、蝶番や鍵の部分までしっかりとした造りになっている。
スラムでこんな扉を見ることは、まずない。
少なくとも、クリフがこれまで目にしてきた住居や商店の扉とは、まるで別物だった。
「……なんだよ、これ」
思わず息を飲む。
こんな立派な扉の奥で店を営んでいるような人が、本当に安い値段で修理を引き受けてくれるのだろうか。
むしろ、何か別の怪しい商売をしている場所なのではないか。
そんな疑念がクリフの頭をよぎった。
クリフは無意識に、上着の内側へ手を伸ばした。
そこには、古い懐中時計が入っている。
布越しに硬い感触を確かめると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
そもそも、クリフがこんな場所まで足を運ぶことになったのは、今朝の出来事がきっかけだった。
◇ ◇ ◇
夜明け前。
クリフはいつものように、酒場から帰る酔っぱらいを探していた。
二日前はひどい目に遭った。
ようやく見つけた獲物から財布を盗んだものの、中に入っていたのはたったの三十二ルピー。
あれほど腹の立つ仕事は、そうそうない。
その後も何人か狙ってみたが、結局、大した稼ぎにはならなかった。
だからこそ、今朝は少しでもまともな獲物を見つけたかった。
「……おっ」
通りの向こうから、一人の男が歩いてくる。
年齢は四十代くらいだろうか。
大柄な身体を左右に揺らしながら、何やら独り言を呟いている。
足取りはふらついており、顔もずいぶん赤かった。
クリフは物陰から男の様子をしばらく観察した。
腰には財布らしき膨らみがある。
服装もそれほど悪くない。
少なくとも、二日前の貧乏人よりは金を持っていそうだった。
「……よし」
クリフは小さく呟き、男へ向かって歩き始めた。
すれ違う直前、わざと足をもつれさせる。
「うわっ!」
ドンッ、と男の身体にぶつかった。
「お、おい! 何だぁ?」
男が不機嫌そうな声を上げる。
「ごめん! 足が滑っちゃって!」
クリフは慌てたふりをしながら、男の身体を支えるように手を伸ばした。
その一瞬で、腰の財布を抜き取る。
指先に伝わる重み。悪くない重さだった。
「気をつけろよ、ガキ……」
「ごめんね!」
クリフは頭を下げると、そのまま男の横を通り過ぎた。
成功だ。
あとは適当な路地へ入ればいい。
そう考えて歩く速度を上げた、そのときだった。
「……ん?」
背後から、男の声が聞こえた。
「……おい」
クリフは足を止めなかった。
「おい、待て!」
声が大きくなる。
続いて、衣服を探るような音がした。
「てめぇ! 財布がねぇじゃねぇか!」
「……チッ!」
クリフは舌打ちすると、すぐさま駆け出した。
「待ちやがれ!」
男の怒鳴り声が背後から響く。
しかし、クリフに焦りはなかった。
相手は足元もおぼつかない酔っぱらいだ。
しかも、こちらは狭い路地を走り慣れている。
追いつかれるはずがない。
「へへっ! 捕まえられるもんなら捕まえてみろよ!」
クリフは振り返り、男を挑発するように笑った。
案の定、男との距離は少しずつ開いている。
これなら、あと一つ角を曲がれば逃げ切れるだろう。
そう思った瞬間だった。
「うわっ!?」
足元に、何か柔らかいものが引っかかった。
見ると、路地の端に捨てられていた大きなゴミ袋だった。
わざわざ振り返ってしまったばかりに、足元を確認していなかったのだ。
踏み出した足が袋に絡まり、身体が大きく前へ傾く。
「あっ……!」
体勢を立て直そうとしたが、間に合わなかった。
ドサッ!
クリフは勢いよく地面へ倒れ込んだ。
「いってぇ!」
膝と手のひらに鋭い痛みが走る。
思わず顔をしかめた。
だが、痛がっている暇はなかった。
「待てっつってんだろ!」
背後から男の声が近づいてくる。
「……やべっ!」
クリフは慌てて身体を起こした。
膝が痛む。
転んだ拍子に擦りむいたらしく、ズボンの布地には赤い染みが広がり始めていた。
それでも、捕まるわけにはいかない。
こんなところで捕まれば、財布一つのために鉱山送りになるかもしれないのだ。
クリフは歯を食いしばって立ち上がると、再び走り出した。
「待ちやがれ!」
男の声が響く。
しかし、今度こそ振り返らなかった。
角を曲がり、さらに細い路地へ飛び込む。
途中で別の通りへ抜け、建物の隙間を縫うように走り続けた。
やがて、背後から男の声が聞こえなくなる。
それでもしばらく走り続け、ようやく人目につかない場所まで来たところで足を止めた。
「はぁ……はぁ……」
壁に手をつき、荒い息を整える。
心臓が激しく脈打っていた。
「……危なかったぁ」
クリフはその場にしゃがみ込んだ。
相手が酔っぱらいで助かった。
もし、まともに走れる相手だったら。
あるいは、転んだ場所がもう少し手前だったら。
そう考えると、背筋が冷たくなる。
「……くそっ。余計なことしなきゃよかった」
調子に乗って振り返ったせいで、足元への注意がおろそかになった。
自分でも下手を打ったと分かっていた。
クリフは擦りむいた膝を見下ろし、顔をしかめた。
幸い、骨に異常はなさそうだった。
手のひらも少し皮が剥けた程度だ。
「……ま、逃げ切れたんだからいいか」
そう呟き、盗んだ財布を取り出す。
中には数枚の紙幣が入っていた。
二日前とは違い、今回はなかなかの収穫だった。
「へへっ。やっぱり今日はついてるな」
クリフは嬉しそうに笑った。
そして、財布を上着のポケットへしまおうとしたところで、ふと手が止まった。
「……あれ?」
胸元に、いつもと違う感触があった。
嫌な予感がした。
クリフは慌てて上着の内側へ手を入れる。
そこから取り出したのは、古びた懐中時計だった。
手のひらに収まるほどの大きさで、金属製の外装には細かな傷がいくつも刻まれている。
長年使われてきたことが、一目で分かる時計だった。
クリフは時計を開いた。
「…………」
針が動いていない。
いつもなら小さく聞こえてくるはずの、規則正しい音もしなかった。
「……え?」
クリフは時計を耳元へ近づけた。
何も聞こえない。
何度か軽く振ってみる。
すると、内部からかすかな音がした。
カラッ。
何か、小さなものが転がるような音だった。
「……嘘だろ」
クリフの顔から、先ほどまでの笑みが消えた。
もう一度、時計を耳に当てる。
やはり、音はしない。
「おい……」
指先で時計の側面を軽く叩いた。
それでも、針は動かなかった。
「……動けよ」
クリフは時計を見つめたまま、小さく呟いた。
「なあ……動けって……」
何度試しても、結果は変わらない。
クリフは唇を噛んだ。
胸の奥に、じわじわと嫌な感覚が広がっていく。
今朝盗んだ財布のことなど、すっかり頭から消えていた。
転んだとき、懐に入れていた時計を強く打ちつけてしまったのだろう。
外側に大きな傷は見当たらない。
だが、内部のどこかが壊れてしまったことは明らかだった。
「……くそっ」
クリフは無意識に壊れてしまった時計を握りしめた。
――自分が悪い。余裕だと思って、調子に乗って、足元も見ずに走ったせいだ。
「…………」
クリフはしばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと時計を上着の内側へ戻した。
「……直さなきゃ」
口からこぼれた言葉は、自分でも驚くほど小さかった。
修理屋に頼めば、金がかかる。
それは分かっている。
だが、どれだけかかるのかも、そもそも直せるのかも分からない。
それでも、壊れたままにしておくことだけは考えられなかった。
そのとき、以前聞いた噂が頭に浮かんだ。
スラムに、安く魔道具を直してくれる修理屋がいる。
「……あそこなら」
クリフは顔を上げた。
◇ ◇ ◇
「……まあ、値段が高かったら諦めればいいか」
クリフは目の前の金属扉を見つめながら、そう呟いた。
もっとも、本当に諦められるかどうかはクリフ自身にも分からない。
それでも、まずは話を聞いてみるしかなかった。
クリフは扉の前へ進み、握った拳を持ち上げる。
コン、コン。
金属を叩く硬い音が、狭い階段に響いた。
しかし、返事はない。
しばらく待ってみたが、中から物音が聞こえてくることもなかった。
「……あれ?」
クリフはもう一度、扉を叩いた。
コン、コン、コン。
やはり、返事はなかった。
「……留守かよ」
せっかく探し当てたというのに、肝心の修理屋がいないらしい。
クリフは小さくため息をついた。
「仕方ない。また来るか……」
そう呟いて階段へ向き直った、そのときだった。
上の方から、足音が聞こえてきた。
「ん?」
クリフが顔を上げる。
階段を降りてきたのは、一人の男だった。
伸び放題の髪に、くたびれた服。
年齢は三十歳ほどだろうか。
男は階段の途中でクリフに気づくと、不思議そうに首を傾げた。
「ん? 客か?」
「……あんたが修理屋?」
「まあ。修理もしているけど……」
男はそう答えかけて、ふと目を細めた。
クリフの顔をじっと見つめる。
「……ん?」
「な、なんだよ」
「……そういうお前は……なんだ、一昨日のガキじゃねぇか」
「……は?」
男――レオンの言葉にクリフは首を傾げた。
さっぱり心当たりはないという表情だった。
「……誰?」
「おいおい。人の財布を盗んどいて、もう忘れたのかよ」
「ッ!」
クリフの身体が硬直した。
一昨日と財布。
その二つの言葉が頭の中でつながった瞬間、クリフは目の前の男が誰なのか思い出した。
夜明け前の通り。
ぶつかった拍子に財布を抜き取った、あのだらしない男。
財布に三十二ルピーしか入れていなかった――あの貧乏人だ。




