第10話 スラム街の少年と獲物
「赤にオールインだ」
レオンは手元に残っていたチップをすべて掴むと、ルーレット台の赤いマスへと押し出した。
積み重なったチップが小気味よい音を立てる。
その額は、およそ三万ルピー。
数時間前には、その十倍近いチップがレオンの前に積まれていた。
カジノを訪れた直後は調子がよかったのだ。
最初の数回で立て続けに当たりを引き、気をよくして賭け金を増やしたところ、それも見事に的中した。
一時は元手の五万ルピーが三十万ルピーを超えたほどだった。
しかし、そこから突然、流れが変わった。
いくつか張った数字に球が落ちることはなく、赤と黒の二択でも負けが続く。
たまに当たることはあるがチップは少しずつ減り、気がつけば元手すら下回っていた。
それでも、レオンは席を立たなかった。
別に、負けを取り戻さなければ生活できないわけではない。
金が必要なら稼げばいい。それよりも、今は目の前のルーレットを楽しみたかった。
「全部ですか?」
ディーラーが確認する。
「ああ。全部だ」
「かしこまりました」
ディーラーは慣れた手つきでチップを整え、ほかの客の賭けが終わるのを待った。
レオンは椅子に深く腰掛け、残り少なくなったグラスの酒を口に運んだ。
周囲では、ほかの客たちが思い思いの数字や色にチップを置いている。
このカジノは、都市にいくつもある賭博場の中では、それほど格式の高い店ではなかった。
近隣にはギルドに所属していないハンターや、日雇いの仕事で生計を立てる者たちが多く暮らしている。
客層もそれに近い。
魔物の討伐でまとまった報酬を得たばかりのハンターもいれば、今日の稼ぎをすっかり使い果たした者もいる。
高価な酒を注文して騒ぐ客の隣で、安酒を一杯だけ頼み、少額のチップを握りしめている客がいることも珍しくなかった。
レオンにとっては、そんな雑多な雰囲気も居心地がよかった。
「それでは、まいります」
ディーラーがルーレットを回し始めた。
円盤が滑らかに回転する。
続いて、反対方向へ白いボールが投げ入れられた。
カラカラカラ、と乾いた音が響く。
ボールは円盤の外周を勢いよく走り、規則正しい音を立てながら回り続けた。
レオンはグラスを置き、盤面へ視線を向けた。
この瞬間が好きだった。
一度賭けてしまえば、あとはボールの行方を見守ることしかできない。
どれほど知識があろうと、どれほど器用な手先を持っていようと、盤面を転がる小さな球の行き先までは思いどおりにならない。
それが、たまらなく面白かった。
「ノー・モア・ベット」
ディーラーの声が響き、賭けが締め切られる。
外周を回っていたボールが、少しずつ速度を落とし始めた。
レオンは身を乗り出した。
白い球が円盤の内側へ落ちる。
カンッ、と金属の仕切りにぶつかった。
一度跳ね上がり、隣の数字へ。
さらに跳ねる。
カランカランと音を立てて、不規則な動きでポケットの上を彷徨う。
「……おっ」
ボールが赤いポケットに収まりかけた。
しかし、次の瞬間、仕切りに弾かれて再び跳ね上がる。
「おいおい、そっち行くなよ」
レオンが思わず声を漏らす。
白い球は二度、三度と小さく跳ね、最後に黒いポケットへと落ちた。
わずかに揺れていた球が、完全に止まる。
「黒の二十六番」
ディーラーが結果を告げた。
レオンの前に置かれていたチップが、ほかの外れた賭けとともに回収されていく。
「……っかー! そっちかよ!」
レオンは天井を仰いだ。
あと一つ、隣に落ちていれば勝っていた。
そんな思いがレオンの脳裏によぎる。
だが、しばらくして顔を戻したときには、口元に苦笑いが浮かんでいた。
「ま、しゃあねぇか」
そもそも二択なのだから隣が当たりなのが当たり前なのだ。
空になったグラスを置き、椅子から立ち上がる。
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
「ああ。また来るよ」
レオンは軽く手を振り、ルーレット台を後にした。
その足取りは、十万ルピー単位の金を失った人間のものとは思えないほど軽かった。
カジノの扉を抜けると、ひんやりとした空気がレオンの頬を撫でた。
「……さみぃな」
思わず肩をすくめる。
店内には暖房が効いていたうえ、何時間も酒を飲んでいたせいで、外気が余計に冷たく感じられた。
もっとも、日が昇れば今日も暖かくなるだろう。
朝晩の寒暖差もこの都市の特徴だった。
しかし夜明けにはまだ少し早い時間。頭上の空は暗い紫灰色に覆われている。
とは言え、この都市では昼間になったところで、空が青くなることなどない。
汚染された空を覆う厚い雲は、一年を通してほとんど晴れることがなかった。
それでも、時間が進めば街には朝が訪れる。
今はまだ建物の輪郭も薄暗いが、あと一時間もすれば空の色がわずかに明るくなり、人々が活動を始めるだろう。
レオンは両手をポケットに突っ込み、家へ向かって歩き始めた。
カジノから自宅までは、ゆっくり歩いて三十分ほど。
何度も通った道だった。
普段なら人でごった返している大通りも、今は驚くほど静かだった。
営業を終えた飲食店の前には、片づけられていない空き瓶やゴミ袋が置かれている。
建物の壁際では、古びた室外機が低い唸り声を上げていた。
どこか遠くで金属製のシャッターが閉まる音が響き、それが止むと、再び通りは静けさに包まれる。
たまに見かける人影といえば、仕事を終えた夜勤の労働者か、レオンと同じように酒場やカジノから帰る者くらいだった。
昼間にはあれほど騒がしい街も、こんな時間には別の場所のように感じられた。
レオンは欠伸を一つした。
「……あー、眠い」
さすがに一晩中遊んでいたせいで、眠気が強くなってきた。
酒もずいぶん飲んだ。
足取りこそしっかりしていたが、頭の奥には心地よい酔いが残っている。
「今日も昼まで寝るか……」
そんなことを考えながら、貧民街へ続く通りを歩いていたときだった。
曲がり角から、小さな人影が飛び出してきた。
「うおっ」
ドンッ、と身体に衝撃が走る。
レオンは一歩、二歩とよろめいたが、なんとか踏ん張って転倒を免れた。
「おっと……」
視線を下げる。
ぶつかってきたのは、まだ年端もいかない少年だった。
痩せた身体に、少し大きすぎる上着。
髪は伸び放題で、靴もずいぶんくたびれている。
見れば、少年もぶつかった勢いで尻もちをつきかけていた。
「大丈夫か?」
レオンが声をかける。
少年はすぐに体勢を立て直し、顔を上げた。
「ごめんよ! おいちゃん!」
「……誰がおいちゃんだよ」
レオンが眉をひそめる。
しかし、少年はそんな反応を気にする様子もなく、にっと笑った。
「急いでるんだ! じゃあね!」
「あ、おい……」
呼び止める間もなく、少年は駆け出していた。
小さな背中が通りを走り、やがて建物の角を曲がって見えなくなる。
レオンはしばらく、その方向を眺めていた。
そして、ふっと息を吐く。
「……そろそろ替え時だったから、ちょうどいいや」
そう呟くと、何事もなかったように歩き始めた。
レオンの呟きは誰にも聞かれることなく、普段より少し冷たい朝の空気に消えていった。
◇ ◇ ◇
少年は走りながら、上着のポケットに手を入れた。
指先に触れる、硬い革の感触。
ちゃんと入っている。
それを確認した少年の口元が思わず緩んだ。
「へへっ」
少年はそのまま近くの路地へ飛び込み、さらにいくつかの角を曲がった。
ようやくその足が止まったのは、両側を高い建物に挟まれた、細い裏路地だった。
ここまで来れば、先ほどの男に追いかけられても簡単には見つからないだろうと、少年は少し上がった息を整えた。
もっとも、追ってくる気配など最初からなかったのだが。
「さ~て。開封といきますか」
少年は上着のポケットから財布を取り出した。
くたびれた革製の財布だった。角は擦り切れ、表面には細かな傷がいくつもついている。
レオンがここ三年ほど使っていたものだ。
「へへ。楽勝だったな」
少年の名はクリフ。
貧民街で暮らす彼の主な稼ぎは、スリだった。
それも、狙う相手は決まっている。
早朝、酒場やカジノから帰ってくる酔っぱらいたちだ。
彼らは酒が入っているため注意力が鈍っており、多少ぶつかった程度では大して気にも留めない。
万が一失敗したとしても、酔っぱらい相手なら走って逃げ切れる自信があった。
もちろん、毎日必ず獲物が見つかるわけではない。
誰にも出会えず、収穫がないまま朝を迎えることもある。
それでも、クリフはこのやり方を変えるつもりはなかった。
たまに、とんでもない大当たりがあるからだ。
カジノで大勝ちした客が、その勢いのまま酒を飲みすぎて帰ってくることがある。
そういう客の財布には、驚くほどの大金が入っている。
一度の成功で、何日も食べていけるだけの金が手に入るのだ。
それに、何より大切なのは危険を冒しすぎないことだった。
スリとはいえ、盗みは重罪だ。
ましてや、クリフのようなスラムの人間には、まともな弁明の機会すら与えられないことの方が多い。
状況証拠だけで有罪とされ、そのまま鉱山での強制労働に送られることも珍しくなかった。
実際、先月も知り合いが一人、鉱山送りになった。
クリフより二つほど年上の少年だった。
いつも自分の稼ぎの少なさを馬鹿にし、もっと大胆に盗めばいいのだと威張り散らしていた。
しかし、その少年は昼間の市場で商人の金を盗もうとして捕まり、そのまま警官に連れていかれた。
それ以来、姿を見たものはいない。
「みんな、もっと頭を使わないと」
クリフは得意げに呟いた。
欲張りすぎれば捕まる。だから、自分は危険の少ない相手だけを狙う。
そうすれば、これからも長く生き延びられるはずだった。
今回の相手も、実に都合がよかった。
まだ薄暗い時間に、一人で歩いていた男。
酒の臭いがして、服装もだらしない。
しかも、こちらがぶつかっても怒鳴ることすらなかった。
ああいう相手こそ、最高の獲物だ。
「さてさて、いくら入ってるかな~」
クリフは期待を込めて財布を開いた。
そして、中を覗き込む。
「…………」
財布の内側には、使い古された革の仕切りがあるだけだった。
紙幣が入っているはずの場所には、何もない。
「……は?」
クリフは慌てて財布を広げた。
仕切りの奥まで指を突っ込み、隠れた紙幣がないか探る。
しかし、何も出てこない。
「……なんだよ、これ」
財布を逆さまにして振ってみた。
チャリン。
小さな音とともに、数枚の硬貨が地面へ落ちた。
硬貨は石畳の上を跳ね、くるくると転がって止まった。
クリフは呆然とそれを見つめた。
そしてその金額を無意識に数える。
三十二ルピー。それが、今日の収穫だった。
「…………」
クリフの頬が、ぴくりと引きつった。
「ッふざけるなよ! あの貧乏人が!」
思わず叫んでいた。
せっかく早起きして、寒い中を歩き回って、ようやく見つけた獲物だったのだ。
それが、たった三十二ルピー。
こんな金額では、まともな食事すら難しい。
「何なんだよ、あいつ! 金もねぇくせに酒なんか飲んでんじゃねぇよ!」
自分のことは棚に上げ、クリフは悪態をついた。
そして、手に持っていた財布を地面へ叩きつける。
「くそっ!」
さらに足を持ち上げ、財布を思い切り踏みつけた。
くたびれた革が、汚れた石畳に押しつけられる。
それでも腹の虫は収まらなかったが、いくら踏みつけたところで金が増えるわけではない。
クリフは大きく息を吐いた。
「……ハァ。次のカモ探さないと」
幸い、まだ時間は早い。
もう少し待てば、別の酒場から客が出てくるかもしれない。
今度こそ、まともな財布を持った相手を見つけたいものだ。
クリフは路地の出口へ向かいかけた。
そこで、ふと足を止める。
視線の先には、地面に散らばったままの硬貨があった
「……まあ、ないよりはマシか」
クリフはしゃがみ込み、硬貨を一枚ずつ拾い上げた。
汚れを指で払ってポケットへ入れる。
それから、地面に転がった財布を一瞥し、踵を返した。
「次こそはまともな獲物を見つけないとな」
そう呟くと、クリフは再び走り出した。
まだ眠りから覚めきらない都市の通りへ。次の獲物を探しに。




