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第8話 おしおき

 意識の底から、這い上がるようにして目を覚ましました。いつもなら、ふかふかのベッドの心地よさかセフィル様の優しい手の温もりを感じるはずでした。けれど、今朝は違います。身体が鉛のように重く、手足の感覚がひどく痺れていて、寝返りを打つことすらままならないのです。


「……っ、うう……」


 わたしは重い瞼を必死に押し上げました。目に飛び込んできたのは、今は見慣れたお部屋の光景。そこまでは、いつもと同じです。ですが、ほんの少し身体を動かそうとした時——。

 ガチャリ、と冷たい音が聞こえたのです。驚いて、音のした方……自分の足元へと目を向けました。白い寝具の中で、異様な存在感を放っている銀色の光。わたしの足首に、見慣れない金属の輪が嵌められていました。そしてその輪からは、ベッドの頑丈な柱に向かって鎖が伸びています。


「な、に……これ……?」


 何が起きているのか、わたしの頭ではすぐに理解することはできませんでした。戸惑いながら右足を引いてみると、再びジャラリと重苦しい音が鳴って、鎖とシーツが擦れ合います。その冷たさが肌を通して伝わってきた時、心臓がドクンと大きく跳ね上がりました。


 わたしは、拘束されているのです。まるで、わたしが悪い人であるように。


 恐怖で身体がガタガタと震え出し、呼吸が浅くなってしまいます。どうしてわたしは鎖に繋がれているのでしょう。誰がこんなことをしたのでしょう。何があったのかを思い出そうとしても、頭には靄がかかっていて何も分かりません。

 その時です。部屋の扉が、静かに開かれました。入っていらっしゃったのは、わたしの世界で唯一の光であるセフィル様です。今日も美しい黒髪を整え、端正な顔立ちに気品を漂わせていらっしゃいます。そのお姿を見た時、わたしはすがるような思いで上半身を起こしました。


「セ、セフィル様……っ! 助けて、ください。わたしの足に、このような……よく分からないものが……っ」


 涙目になりながら彼に訴え、彼に手を伸ばしました。しかしそんなわたしの言葉を遮るように、セフィル様はそれはそれは美しく微笑まれたのです。

 まるでお花の蕾が綻ぶような、どこまでも甘くてどこまでも優しい微笑み。それなのに、その燃え上がるような紅い瞳は一切笑っていませんでした。見たこともないほどに昏く、濁った光がゆらゆらと揺らめいているのです。そのあまりの恐ろしさに、わたしの身体はすくみ上りました。


「おはよう、リリアーナ。体調はどうだい?」

「セ、セフィル様……? あの、この鎖は……」

「君が悪いことをしたから、お仕置きとして、ね」


 穏やかな声色です。わたしが何が起きているのかを察知するよりも早く、セフィル様はベッドに腰かけると、わたしの両手を片手で掴み上げて頭の上へと縫い付けた。


「っ、あ……」

「勝手に外に出てはいけないじゃないか。君は本当に、悪い子だね」


 そう呟いたセフィル様のお顔が目の前に迫ったかと思うと、わたしの唇は彼の唇によって塞がれていました。


「んむ、っ!? ——んんっ!!」


 口内に、セフィル様は舌を差し込んでこられました。それは、甘やかな口づけとは全く違います。わたしの呼吸をすべて奪い尽くし、わたしの存在そのものを塗り潰してしまおうとするかのような、激しすぎる口づけ。


「ん、んんーっ! ぅ、は……っ、んむ……」


 セフィル様の手がわたしの鼻を覆っていて、息を吸うことができません。彼の口から流れ込む熱い吐息と逆らうことのできない舌が、わたしの口の中を満たしていきます。

 息が、できない。死んでしまう。恐怖で涙が溢れてしまいます。わたしは身体を必死に捩って、彼の元から離れようとしました。けれど、大好きな彼の身体はまるでびくともせず、もがけばもがくほどに舌が突き入れられて、口内のすべてを貪り吸い上げられていきます。


 頭の中が、真っ白に染まっていきます。怖いはずなのに、お腹の奥はきゅん、きゅんと疼いてしまいます。身体から力が抜けて、視界がチカチカと明滅しました。もがく力すら失った時、ようやくセフィル様はゆっくりと唇を離してくださいました。


「はっ……ぁ、あ、ふ、ぅ……っ」


 奪われていた空気を求めて、わたしの口からは荒い息がこぼれます。激しく吸い上げられたからか、唇がジンジンと痺れていました。


「ごめんなさい……。ごめんなさい、セフィル様……っ!」


 わたしはぼろぼろと涙を流しながら、何度も何度も謝りました。こうして謝らなければ、またあの息のできない恐ろしい時間が始まってしまう。彼を怒らせてしまったことがただただ怖くて、わたしはベッドの上で身を小さくしながら許しを請い続けました。


「ごめんなさい……もうお外には出ません……どうか、お許しください……」


 すると、セフィル様はふっと表情を和らげ、いつものような優しい微笑みに戻られました。そしてわたしの頭へと手を伸ばし、髪を梳くように優しく撫でてくださったのです。


「分かってくれたらいいのだよ、リリアーナ。君は、僕の言う通りに良い子にしていてね。僕だって、こんなことはしたくないんだ」

「あ……セフィル、さま……」


 彼のいつもの温もりに少しほっとして、わたしは自分の右足首を視線で示しました。


「あの……お薬もお食事も、ちゃんといただきます。もう二度と、お外には出ません。ですから……この鎖は、外していただけませんか……?」


 恐る恐るお尋ねいたしました。ですが、セフィル様は髪を撫でる手を止めることもなく、ただひどく悲しそうなお顔をされたのです。深紅の瞳には深い憂いが帯び、今にも泣きだしてしまいそうなほど、痛々しく胸を痛みつけるような表情でした。世界で一番美しくて、世界で一番強いセフィル様が、まるで捨てられた子どものように傷ついたお顔をされている……。


「君は、やはり僕の元から逃げ出したいの? リリアーナ。……僕の愛だけでは、君は満たしてあげられないのかな……?」


 その消え入りそうな声を聞いた途端、わたしの胸の奥が激しく痛みました。


 違います。わたしは、セフィル様を悲しませたいわけではありません。わたしをこんなにも大切にしてくださるこの方に、そんなお顔をさせたくない……。

 鎖を外してほしいと言うことが、まるで一番の悪徳であるかのように思えて、罪悪感で胸がいっぱいになってしまいました。わたしのせいで、彼を傷つけてしまったのです。わたしは何も言えなくなり、ただ彼の悲しみを和らげるために、小さく首を振ることしかできませんでした。


「……いいえ、セフィル様。どこへも、行きません。わたしの居場所は、セフィル様のお傍だけです……」

「そうか。やっぱり君は、僕の優しい小鳥だね。愛しているよ」


 セフィル様は嬉しそうに目を細め、わたしの額に触れるだけの優しい口づけを落してくださいました。


 ……しかし、この日以降。入浴等の時間を除き、わたしの足首から鎖が外されることはありませんでした。








 それからの日々は、以前にもまして甘やかで、さらに深い霧の中に落ちていくかのようでした。

 お部屋の中でのわたしの移動範囲は、ベッドの上からすぐ隣のソファまで。扉の前までは、鎖が突っ張って近づくことはできません。けれども、不自由を感じることはほとんどありませんでした。なぜなら、セフィル様が朝も夜も、わたしの傍にずっといてくださるからです。

 お食事はすべてセフィル様の手から直接わたしの口へと運ばれ、お洋服の着替えも、身体を洗うのも、すべて彼の手によって行われます。そして、毎晩欠かさず出されるあのお薬。


「さあ、リリアーナ。今夜も薬を飲もうね」


 そのお薬の量は、あの日を境に増えているように思えました。もう、グラスから自分で飲むことすら許されません。セフィル様は毎晩、ご自身の口にお薬を含み、深い口移しでわたしにそれを飲ませるのです。


「ん、む……あ……んん……っ」


 お薬の量が増えたせいで、口づけの時間は日ごとに長くなり、より激しくなっていきました。彼の舌がわたしの口内を熱く融かすたびにわたしの頭は真っ白になり、彼の熱を受け入れることしかできなくなっていきます。

 お薬が身体に回る早さも、以前よりも早くなりました。目を覚ました時も、お昼になっても、夕方になっても、頭にかかった濃いもやもやは一向に貼れることはありません。考える、という行為そのものが少しずつ削ぎ落されていきます。自分がどんな存在だったのか、どんな人生を歩んでいたのか。そんなことは、どうでもよくなります。


 それどころか、段々とセフィル様以外のことを考えられなくなっていったのです。

 いま、わたしの頭の中に存在するのは、セフィル様のお姿と優しい温もりだけ。お部屋の外にどんな世界が広がっているのか、わたしには分かりませんし、知りたいとも思いません。

 わたしにとっての世界は、このベッドと窓辺のソファ、そしてセフィル様の腕の中。それだけが、わたしのすべてになっていきました。


「セフィルさま……、セフィルさま……」


 お薬のせいで頭がぼんやりとする中、わたしは気づけばあの方のお名前を呟いています。

 ソファで隣り合い、彼の胸元に身体を預けながら、足元の鎖を見つめました。もう、この鎖を不快だと思いません。これは、セフィル様とわたしを繋ぐ愛の証です。わたしが二度と彼を悲しませないための、優しい、優しい約束の証——。

 セフィル様はわたしの呟きを聞き、愛おしそうにわたしの髪を撫でてくださいました。


「ここにいるよ、リリアーナ。僕はずっと、君の傍にいる。君には僕だけがいればいい。他の何も、誰も、君の可愛い頭の中に置く必要はないんだ」

「はい……セフィルさま。わたしには、あなたさまがいてくだされば……幸せでございます……」


 おぼつかない言葉でそうお答えすると、セフィル様は幸せそうに微笑んでくださいました。わたしはそっと彼の胸に顔を埋め、深い微睡みの中へと沈んでいきます。


 過去の記憶も、お外の世界も、わたしにはもう何も必要ありません。ただ、セフィル様にすべてを委ね、彼の優しい腕の中で生き続けること——それだけが、何よりも甘やかで、今のわたしにとっての唯一の幸福なのでした。

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