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第9話 純愛か狂愛か

 リリアーナ。その愛しい名を心の中で反芻するだけで、セフィルの胸の奥からは昏い悦楽が際限なく湧き上がってくる。彼はベッドの端に腰を下ろし、彼女の細い足首に嵌められた足枷へと手を伸ばした。ひんやりとした金属の手触り。そこからベッドの支柱へと伸びる鎖を指でなぞれば、ジャラリ、と美しい音が響く。この音が、彼女が自分の所有物であり、二度とこの部屋から離れられないという現実を証明しているのだ。


 ——洗脳、という言葉を凡俗どもは忌避するだろう。

 だがセフィルにとっては、日々薬の量を増やし、彼女の頭を心地よい霧で満たし、自分以外のすべてを思考の彼方へと消し去っていくこの時間は、至福でしかなかった。


 罪悪感など微塵も持ち合わせてはいない。むしろ、自分はこれ以上ないほどに正しいことをしているという確信がある。だってその通りだろう。あんな薄汚い伯爵家で奴隷も同然に扱われ、尊厳を踏み潰され、ただ誰かの言いなりになるだけだった哀れな小鳥を、こうして誰の手も届かない安全な場所に囲い込み、溢れんばかりの愛を注いでいるのだから。

 彼女の壊れた心を一度真っ白にして、そこに「セフィル」という存在だけを唯一の神として書き込んでいく。


 最近の彼女は、朝に目を覚ましても、昼下がりにソファで隣り合って座っていても、ただぼんやりと自分の姿だけを見つめ、熱病に浮かされたように彼の名を呼び、縋りついてくれるようになった。”お仕置き”に怯えて、何度も涙を流して謝りながらも、頭を撫でてやれば顔を蕩けさせて身を委ねてくれる。


「ふ、っ……。本当に、可愛い人だ」


 セフィルは眠るリリアーナの唇を親指の腹でそっとなぞり、歪な笑みを浮かべた。彼女が自分に依存し、自分なしでは呼吸の仕方も忘れてしまうほどに壊れていく様子を見るのがたまらなく愛おしく、狂おしいほどの悦楽を彼に与えているのだ。

 愛撫の手を止めぬまま、セフィルの意識は昔の記憶——彼女と出会った、あのすべての始まりの日へと遡っていった。





 ◆ ◆ ◆





 それは、今思い出しても虫唾が走るほどに、下俗な欲にまみれた日々だった。


 当時、王国の重鎮として頭角を現していたセフィルは、国家財産の横領等の罪の証拠を掴むためにも、公式な挨拶という大義名分を掲げ、あの忌まわしい伯爵家を訪れていた。

 成金の象徴のような派手な調度品、下品な笑みを浮かべて揉み手をしている伯爵、我が世の春とばかりに謳歌する夫人と、甘ったるい香水の匂いを漂わせる厚化粧の娘。そのすべてが不愉快だった。用件を済ませ、早々に立ち去ろうと屋敷の廊下を歩いていたその時、彼は見てしまったのだ。


 薄暗い階段の踊り場で、ぼろぼろの衣服を纏った少女が倒れていた。彼女の周囲には、割れた陶器だと思われる破片と水が散らばっている。


「何をなさっているのですか! お客人の前で伯爵様に恥をかかせる気ですか!」と、年配の女が彼女の肩を蹴りつけている。服から予想するに、あの女は侍女だろう。

 その少女は、殴られ、蹴られ、罵倒されながらも、ただじっと床を見つめて耐えていた。その時彼女は彼の気配を察したのか、ゆっくりと顔を上げたのだ。


 ——ドクン、と。セフィルの心臓は、生まれて初めて奇妙な音を立てた。


 酷い扱いを受けている彼女。しかしその瞳の中にあるのは、諦めでも憎悪でもない。気高い、誇りだ。泥の中に咲く一輪の花のように、彼女の存在だけが、この醜悪な空間の中で異様なほどの美しさを放っていた。


(彼女を、手に入れたい)


 今までに感じたことのない所有欲が、セフィルの胸の中で産声を上げたのは、まさにその瞬間だった。あの美しい存在を、自分の手で優しく解きほぐし、自分だけのものにしたい。他の一切の雑音を排除し、彼女の瞳に自分だけを映させたい。


 セフィルは即座に行動へ移した。伯爵の弱みを幾つか突きつけ、半ば脅迫に近い形で彼女を引き抜こうとした。話を聞いているうちに、彼女が伯爵家の血を継いでいる人間だということが分かった。それは寧ろ好機だと、彼女との婚約を強引に取り付けたのだ。伯爵家側は、彼が出会ったこともない娘が、まさか当代随一の権力者であるセフィルの目に留まるとは思ってもいなかったようで、驚愕した様子を見せていた。しかし彼の莫大な結納金と公爵家の後ろ盾の魅力に目が眩んだのだろう、早々に快諾した。

 これで、彼女は自分のものになると、そう確信していた。しかし現実は、セフィルの目論見通りには進まなかった。


 婚約が成立した後、セフィルは何度も彼女に会うために伯爵家へ使者を送り、自らも直接足を運んだ。しかしその度に、伯爵夫妻はありとあやゆる理由をつけて彼が彼女と会うことを拒んだのだ。


「リリアーナは急な病で臥せております」「本日は調子が悪く、とてもお見せできる状態では……」「令嬢としての教育が足りず、公爵様にお会いするのを本人が酷く恐れておりまして」


 最初は、伯爵家側が何かを隠蔽しているのだろうと考えた。しかし、何度も面会を拒絶されるうちに、セフィルの脳内には別の疑念がもくもくと膨れ始めていった。


 教育が足りないから、自分に会いたくない? 本人が恐れている? リリアーナは……自分に会いたくないというのか。


 あの時、一瞬だけ交わった視線。彼女は彼の存在に気付いていたはずだ。それなのに、彼から差し伸べられた救いの手を、彼女は拒絶しているというのか。あの気高い心を持って、彼の愛を見下し、拒んでいるのではないか。

 一度生じた猜疑心は徐々に執着へと姿を変え、セフィルの精神を蝕んでいった。日を追うごとに彼の欲は膨れ上がり、彼が用意した鳥籠は頑強な檻へと姿を変えていった。


 そして、あの運命の夜。ついに、彼の痺れが切れたのだ。





 ◆ ◆ ◆





 その夜。セフィルは誰にも告げず、単身で伯爵家の屋敷へと赴いた。正面から尋ねても、どうせまた下らぬ言い訳で門前払いされるだけだ。彼は自らの気配を魔法で消し去り、夜の闇に紛れて邸内へと足を踏み入れた。

 一度探知した彼女の魔力を忘れることはない。それを頼りに移動すると、屋敷の裏手にある切り立った崖に面したバルコニーに辿り着いた。夜風が激しく吹き荒れるその場にセフィルが辿り着いた時、目に入ったのは息が止まるような光景だった。


 リリアーナが、手すりの向こう側に立っていたのだ。彼女が纏う薄い衣服は風によって激しくはためき、その身体は今にも夜の闇へ吸い込まれてしまいそうだった。


「……リリアーナ!!」


 セフィルは叫び、地を蹴った。彼女が虚空へその身体を傾けようとした、まさにその刹那。セフィルの腕が手すりを超え、彼女の細い腰を全力で抱き寄せた。


「きゃっ……! だ、誰……っ、放して! 放してください!!」


 激しい衝撃と共に、二人の身体が倒れる。

 間に合った。その安堵よりも先に、セフィルの胸を支配したのは、これまでに経験したことのないほどの激しい怒りだ。


「放すわけがないだろう……! 君は、僕のものなのだから! 僕に無断で、死ぬことなど許さない!」


 セフィルはもがくリリアーナの身体を、背後から羽交い絞めにした。彼の両腕が彼女の華奢な上半身を、力を込めて押さえつける。リリアーナは必死に身体を動かして、彼の腕から逃れようと抵抗した。顔を大きく動かしながら、「嫌、死なせて、もう楽になりたいの!」と涙を流して叫んでいる。

 しかし、セフィルはその抵抗を受け入れるつもりなど毛頭ない。これ以上彼女に妙な真似をさせてたまるものか。これ以上、自分の目の届かない場所へにげられてたまるものか。


「暴れないで、リリアーナ。君は何も悪くない。悪いのは、君を傷つける存在とこの世界そのものだ。これ以上君を傷つける世界は、僕がすべて壊してやる。これから君は、僕のことだけを考えて生きていけばいいんだ!」

「嫌……放して、放してぇっ!」


 彼女の気高い誇りが、死を選ぶことで保たれるというのなら、そんな誇りなど今すぐ叩き割ってやればいい。セフィルは彼女を羽交い絞めにしたまま、彼女の耳元で呟いた。


「——眠れ」


 魔力が込められた詠唱と共に、彼の手から放たれた魔力が、リリアーナの身体を包み込んでいく。激しくもがいていた彼女の身体から、急速に力が抜けていった。抵抗していた細い脚が、だらりと地面に落ちる。

 静寂が戻ったバルコニーで、セフィルは意識を失ったリリアーナの身体を抱き上げた。彼女の身体は驚くほど軽く、そして冷え切っている。


(ああ、そうだ。君をこんな目に遭わせる過去も、記憶も、すべて邪魔なだけだよ)


 この時、彼は決意したのだ。彼女をこの薄汚い世界から隔離し、安全な場所へ閉じ込めることを。彼女の頭の中から、彼女が彼を拒絶する原因となった記憶をすべて消し去ってしまえばいい。まっさらになった彼女の心に、自分への依存と愛だけを植え付け、自分の腕の中でしか生きられない、可愛い小鳥にしてやればいいのだ、と。





 ◆ ◆ ◆





「……ふ、はは。あの時の僕の選択は、間違っていなかったようだね」


 意識を戻したセフィルは、現在のベッドの上で眠るリリアーナを見つめ、愉しげに笑った。彼女は今、彼の姿が傍にないだけで不安に震えるほど、彼に依存しきっている。

 あの時に彼女が見せていた絶望は、もう彼女の瞳のどこにも存在しない。今の彼女の瞳に映っているのは、ただ一人、彼女のすべてを支配するセフィルという存在だけ。


 なんと素晴らしく、なんと愛おしく、なんと美しい光景だろう。


 世界から虐げられていた小鳥を救い出し、彼と彼女だけがいる優しい鳥籠の中で、永遠の幸福を与えている。これ以上の正義が、この世のどこにあるというのか。


「君を傷つける過去なんて、最初から必要なかったんだよ。可愛いリリアーナ」


 セフィルは身を屈めて、眠る彼女の唇に濃厚な口づけを落した。リリアーナは眠っているが、彼の熱に反応するように、小さく「ん……」と甘い吐息を漏らし、無意識に彼の身体へと腕を伸ばした。その無防備で、飼い慣らされていることが分かる仕草に、独占欲がぞくぞくと悦楽で満たされていく。


「そうだ、その調子だよ。もっと僕に依存して、もっと僕だけを求めるといい。君が僕以外のすべてを失うその時まで……僕は何度でも、僕の熱で満たしてあげる」


 誰にも邪魔させない。誰にも奪わせない。

 セフィルの深紅の瞳が、狂気と恍惚の光を宿して怪しく輝いた。

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