第6話 甘いおくすり
朝の光は、今日も変わらず穏やかです。美しいお部屋を柔らかな色に染め上げてくれます。わたしの隣には、大好きなセフィル様の温もり。世界中の何よりも大切にわたしを甘やかしてくださるあの方との時間は、まさに夢のような日々の連続です。
——本当に、「夢」なのではないかと思う程です。
「……リリアーナ? どうしたんだい」
心地よい声にハッと意識を浮上させると、目の前にはセフィル様の端正なお顔がありました。その深紅の瞳が、心配そうにわたしの顔を覗き込んでいます。彼の手から口元へと運ばれているスープは、いつも通り美味しいです。しかし、なぜだか今のわたしには、その味が遠いものであるかのように感じられました。
「あ……すみません、セフィル様。少し、考え事をしていて……」
「考え事? ……もしかして、過去について考えているの?」
セフィル様の声が、少し硬くなった気がしました。わたしは慌てて首を振ります。
「違います、そうではなくて……。ただ、なんだか最近、ずっと頭がぼんやりとするのです。まるで、夢の中にいるような気持になって……」
そうなのです。ここ数日、わたしは奇妙な倦怠感に支配されていました。考えるという行為そのものが酷く億劫になり、時間の感覚も曖昧になっていきます。お昼だったのに気づけば夜になっていて、セフィル様がお世話してくださっている記憶も、まるで薄いレース越しに眺めているかのように霞んでしまうのです。自分が誰なのかを思い出せない不安すら、その霧の向こうに消えてしまい、どうでもよくなっていくような——そんな感覚。
セフィル様はわたしの言葉を聞くと、表情を崩さないまま、大きな手でわたしの頬をそっと包み込みました。とても温かくて、安心する手です。
「心配いらないよ。君はまだ、過去の傷から心が回復していないだけなんだ。ゆっくり休んで、僕のことだけを考えていればいい」
「そう……でしょうか……」
「そうだよ。僕が嘘をつくと思う?」
「いいえ、思いません」
セフィル様がそう仰るのなら、きっとそうなのです。わたしは、彼だけのことを考えていればいい。そう自分を納得させようとし、彼が差し出してくださる食事へと口を寄せました。
しかしこの日の夜、わたしの心の中には小さな違和感が芽生えたのです。
いつものように、一日の終わりに運ばれてくるトレイ。その上には、淡い琥珀色の液体が入ったグラスが乗せられています。蜂蜜のように甘く、飲むと頭の芯が痺れてしまうような香りを持った、毎晩欠かさず出される”おくすり”。
「さあ、リリアーナ。薬を飲む時間だよ。これを飲んで、心地よく眠ってね」
セフィル様がグラスを手に取って、わたしの唇へと近づけてくださいます。その液体を見つめていると、頭の片隅では小さな警鐘が鳴り響きました。
——この薬を飲むと、すぐに目の前がぐらぐらして、深い眠りに落ちてしまいます。
——この薬のせいで、わたしの頭は、昼の間もずっとぼんやりとしているのではないのでしょうか……?
一度生まれた疑念は、霧を引き裂くように胸に広がっていきました。もしこのお薬のせいでわたしの頭が働くなっているのだとしたら。このままわたしは、考えることも、何かを思い出すこともできなくなって、ただの人形のようになってしまうのではないか……。
背筋を駆け抜けた小さな恐怖に、わたしは反射的にセフィル様から顔を背けてしまいました。
「……リリアーナ?」
セフィル様の手が、空中でぴたりと止まります。その紅い瞳が、微かに細められました。
「……セフィル様、申し訳ありません。今夜は、そのお薬を飲むのを……やめてもよろしいでしょうか」
初めて、彼の親切を拒絶してしまいました。わたしの声は、自分でも驚くほど震えています。
「どうしてだい? 君の身体を労わるための、大切な薬だよ。これを飲まなければ、また悪い夢を見てしまうかもしれない」
「ですが……このお薬を飲むと、頭の中が霞んでしまうのです。時々、セフィル様のお顔も上手に思い出せなくなる時があって……それが、とても怖くて。ですから、今夜は薬を飲まずに、自分の力で眠ってみたいのです」
わたしは必死に、胸の内を訴えました。セフィル様を傷つけたいわけではないのです。ただ、自分を失っていくような恐怖から、どうしても逃げたかったのです。
セフィル様は、わたしの言葉を静かに聞いていらっしゃいました。怒られるか、あるいは悲しそうな顔をなされるか……そう思って身を強張らせるわたしに、セフィル様が浮かべたのは、驚くほどに優しい微笑みでした。まるで駄々をこねる幼子を見ているような、包容力に満ちた甘やかな微笑み。
「君は怖がりだね、リリアーナ。そんな些細な事で不安になる必要はないよ。大丈夫、君が忘れられないほどに、僕は君の傍にいる。もし君がすべてを忘れてしまっても、僕がすべてを覚えている。君は何も心配しなくてもいいんだ」
「ですが、セフィル様……っ」
「悪い子だ。僕の言うことが聞けないのかい?」
優しく諭すような声色です。しかし、その後ろにある拒絶を許さない圧に、わたしは息を呑みました。セフィル様はグラスを自らの唇へと運び、琥珀色の液体を口に含みます。
——あ。
彼が何をしようとしていらっしゃるのかを理解した時には、既に遅すぎました。セフィル様は空いた手で、わたしの顎を固定されます。添えられている力は優しいのに、わたしの力ではぴくりとも動かせません。そのまま彼は、わたしの顔を上向かせました。
「ん……っ!」
逃げる間もなく、熱く柔らかな唇が、わたしの唇へと押し当てられました。触れるだけの口づけではありません。セフィル様はわたしの微弱な抵抗を押し退け、唇の隙間から舌を滑り込ませてきたのです。
「んんっ……!? ぅ、ん……」
彼の口内から、甘く痺れるあの液体が、わたしの口の中へと流れ込んできました。お薬を拒もうと、必死に液体を飲まずに堪えていた時、彼はさらに激しく唇を重ねてきます。顎を固定する力はさらに強くなりました。彼の舌が、わたしの口内を蹂躙していきます。
「ん、んむ……っ! ぁ、は……」
逃がさないと言わんばかりに、彼の舌はわたしの舌と絡みつきます。お薬を飲ませるための口づけではありません。わたしの身体から一切の拒絶の意志を毟り取るような、過剰な愛撫でした。
息が、できません。鼻から抜ける彼の熱と甘い香りが混ざり合い、頭の芯がじんわりと融けていくような感覚。お腹の奥が、きゅん、と切なく疼きました。お薬を拒まないといけないのに、彼の舌が突き入れられて吸い上げられるたびに、身体から力がへなへなと抜けていってしまうのです。
わたしが彼の唾液と共にお薬を飲み込んでも、彼は引き下がりません。何度も何度も、口づけが繰り返されます。
「ん……あ……ん、は……ぅ……」
わたしは彼の胸元を握りしめることしかできませんでした。激しく貪られながらも、セフィル様のもう片方の手はいつだって優しく、わたしの頭を撫で続けてくれているのです。愛おしそうに、優しく。その手の温もりがあまりにも心地よくて、わたしを安心させてくださるから——わたしは、身体を襲う淫らな快感に流されるまま、彼の口づけを受け入れるしかありませんでした。
長い時間が経った後、ようやくセフィル様の唇が離れました。
「……ちゃんと飲めたね。良い子だ、リリアーナ」
セフィル様は、ご自身の指でわたしの唇をなぞりながら、満足そうに目を細められました。その紅い瞳の奥には、悦楽が揺らめているようにも見えてしまいます。
「あ……ぅ、セフィル、さま……」
息を整えるわたしの頭を、彼は世界で一番優しい手つきで撫でてくださいました。
「これでいいんだ。君は何も考えなくていい。怖いことも、不安なことも、すべてその霞の中に沈めてしまえばいいのだよ」
セフィル様の優しい声が、遠く聞こえます。いつも以上に早く、お薬が身体に回ってしまったのでしょうか。抗えない眠気がわたしを襲い、瞼が鉛のように重くなっていきます。
「……あれ……、わたし……」
頭が、ぼんやりとしていきます。さきほどまで抱いていたはずの恐怖も、違和感も、お薬への疑問も、急速に薄れていきます。セフィル様以外は、どうでもよくなっていく……。
「おやすみ、僕の可愛い小鳥」
「……はい、セフィル、さま……」
わたしはベッドへと横たわされ、心地よい闇の中へと沈んでいきました。最後に視界に移ったのは、わたしのすべてを愛してくださる、セフィル様の美しい微笑みです。
たとえ、このまま何も思い出せなくても……彼がわたしの傍にいてくださる限り、きっと大丈夫です。
眠りに落ちたリリアーナの額に、触れるだけの口づけが落とされた。眠る彼女の頬に指を這わせたセフィルは、愛おしそうに呟く。
「そうだ、リリアーナ。そのまま、何も思い出さなくていい。君を傷つける過去も、君を僕から奪おうとする者達の存在も、すべて忘れてしまえ。君は、僕だけのことを考えていればいいのだから」
彼は安心したように微笑み、眠る彼女の身体をその腕の中に引き寄せるのだった。世界で一番大切な宝物に触れるように、優しい手つきで。




