第3話 『戦場の死神』
リリアーナ・エリディアが自分の手の届く距離にいる。それを確信した時、セフィルはようやく息をつくことができた。
彼女をあの腐った場所から連れ出すのに、時間がかかってしまった。彼女が「自分は誰からも必要とされていない」と思い込み傷つくほどまで放置していた時間を考えると、自身を殴りたくなるような怒りに駆られる。もっと早く気づけたのではないか。もっと早く手を伸ばせたのではないか。だが、昔のことを悔やんでも仕方がない。
今考えるべきは、これからのことだ。これからは、たとえ彼女が望まなくとも、彼が彼女を守る。
「公爵様」
控えめに扉が叩かれ、執務室へ入ってきたのは、彼に長年仕えている側近のルドリックだ。銀灰色の髪を持つ彼は、いつも穏やかな表情を崩すことはない。
「エリディア伯爵家から使者が参りました」
その報告に、セフィルは書類から目を上げる。
「何の用で?」
「リリアーナ嬢の行方を尋ねています」
その言葉を吟味するように目を閉じた彼は、やがてくつくつと喉を鳴らしながら書類を雑に机に置いた。
「随分と今更だな。彼女が屋敷にいた時、奴らは一度でも彼女を気にかけたことがあったのか?」
ルドリックは答えない。答える必要がないのだ。リリアーナ・エリディアという令嬢が、これまでどのような扱いを受けていたのか。彼らはすべてを知り尽くしている。
「使者に伝えておけ。リリアーナ・エリディアは死んだ、と。お前達が殺した。長い時間をかけて、彼女から、自分が生きていいと思う心を奪った。必要とされることを、諦めさせた。……そのような人間が、彼女の家族を語れるとでも?」
セフィルは笑みを浮かべているが、その紅い瞳は一切笑っていない。拳は、爪が手のひらに食い込むほどに強く握り締められていた。ルドリックは恭しく頭を下げる。
「承知致しました」
彼が部屋を出るのを見送った後、セフィルは机の上に置かれた小瓶へと視線を落とした。琥珀色の液体が入っている、特注で用意させたものである。
「……」
これは薬だ。長期間の虐待による不眠、過度な緊張、寝ることに恐怖を覚えるほどの悪夢。そんな限界まで削られてしまった彼女を治療するために必要なもの。多少副作用はあるが、彼女の身体に影響があるものではない。
「セフィル様」
再び扉が叩かれ、部屋に男が入ってくる。医師である専属魔術師だ。彼は深々と一礼して、セフィルの前に立つ。セフィルは無言で顎を引き、報告するよう促した。
「リリアーナ様の容態ですが、身体的な傷は時間をかければ治ります。ですがやはり、心の傷が深いです」
その言葉に、セフィルは目を伏せる。
「わかっている。彼女は、僕に対しても怯えていた。”人間”という存在が恐ろしいのだろう。……あの糞みたいな家は、彼女を壊したんだ」
医師は黙って彼の言葉を聞き、視線を小瓶へと移す。それに気が付いたセフィルは、小瓶を持ち上げて中の液体を揺らした。
「もう少し、効果の強い薬にしたい。今朝も、彼女は悪夢を見ていた」
「それでもかなり効果は強いのですけれどね……。それ以上強くしたら、リリアーナ様が薬を手放せなくなる危険があります。依存性が高い素材もありますから」
「問題ないよ。寧ろ依存してくれた方が……」
「セフィル様?」
にこりと微笑みを浮かべた両者だが、折れたのは医師の方だった。彼は大きく息を吐いて首を振りながらも、仕方がなさそうな笑みを浮かべる。
「分かりました。ですが、くれぐれも与えすぎにはご注意ください」
「ああ、分かっているよ。僕よりも薬の方が良いと思われるのは嫌だからね」
完璧な笑みを浮かべるセフィルを見て、医師は苦笑した。
◇ ◇ ◇
セフィル・ヴォルディアという男は愛を知らない。
ヴォルディア公爵家。王国でも屈指の権力を持つ名門の貴族家に生まれた彼は、幼い頃から”完璧”であることを求められた。強くあれ。賢くあれ。決して弱みを見せるな。公爵家の後継者として相応しくあれ。それが、彼に与えられた唯一の価値。
父は厳格な人物だった。息子が剣の腕で誰よりも優れていても、魔法の才能が歴代でも最高級だと称賛されても、返ってくる言葉はいつも同じだった。「当然だ」、と。
母は美しい人だった。しかし、それだけである。セフィルを抱きしめたことはなく、彼女にとっての息子という存在は愛するものではなくただの駒だった。恥を晒さない子どもであることだけを求められた。
彼は学んだのだ。期待されることに応えることが、自分の役割である。命令されたことをこなし、己の感情を隠し、誰にも頼らないようにする。昔は寂しいという感情を持っていたのかもしれないが、いつしか忘れてしまった。
彼は幼い頃から、他人の感情に敏感だった。誰かが笑い、誰かが優しい言葉をかけたとしても、その裏にあるものを探してしまう。こいつは何を望んでいるのか。この優しさには何の意味があるのか。そういった考えが、常に頭の片隅にあった。無償の愛など存在しないということを、彼は知っていた。何かを成し遂げなければ、役に立たなければ、価値がなければ、他人が自分を見ることはないと。
全てを隠して生きてきた結果、セフィルは誰からも恐れられる存在となった。王国最強の騎士として名を馳せ、戦場では数多の敵を無慈悲に葬る。『戦場の死神』などという名を付けられているそうだが、興味はなかった。彼の前で嘘を吐ける人間はいない。その紅い瞳は全てを見抜くと言われた。
誰も知らないだろう。彼自身もまた、知らないのかもしれない。彼が、誰よりも愛に飢えているということを。
セフィルは愛を知らない。愛されたことがないため、愛し方も知らない。仮面を被って優しい言葉をかけることはできるが、全て上面だけの言葉だ。考えて、すぐにどうでもいいと割り切る。どうせ、自分が誰かを愛することなんてないのだろうと思っていた。
公爵家を継ぐ以上、嫁を迎える必要はある。適当な女を見繕い、子を産ませて後は放置しておこうとそう考えていたほどであった。
「僕に愛を教えてくれたのは、君だけだった」
眠るリリアーナの髪を撫でながら、セフィルは誰に聞かせるのでもなく呟いた。
彼女はぐっすりと眠れているのか、穏やかな表情をして寝息を立てている。薬のおかげか、悪夢にも侵されていないようである。
「愛しているよ、リリアーナ。これから、共に愛を育んでいこうね」
愛を知らなかった男は、愛を知ってしまったことで何かが歪んでしまったらしいが、それはまだ隠された秘密である。




