第2話 虐げられた令嬢
一人の娘が、洗濯籠を抱えて歩いていた。籠の中には、シーツや服が山のように積まれている。彼女の細い腕で持ち上げるには無理がある量だった。
ふらり、とその足元が揺れるが、彼女は何も言わない。ただ黙って歩き続ける。腰まで届く淡い金髪は艶を失い、ところどころが乱れている。白い肌には青あざや擦り傷が残っており、手の甲には新しい火傷の痕まであった。
彼女——リリアーナ・エリディアは、伯爵令嬢である。最もそれは肩書だけで、実際のところは……。
「何をちんたら歩いているのよ。邪魔よ!」
甲高い声が響き、ばしんっ! と背中に痛みが走った。蹴られたのだ。リリアーナの身体が倒れ、洗濯籠が落ちて中身が床に散らばる。
「あ……」
彼女は顔を真っ青にさせた。目の前には、豪華なドレスを纏った異母妹、カトレアが立っている。
「最悪! わたくしのお気に入りのドレスが汚れたじゃない!」
「も、申し訳ありません……!」
反射的に頭を下げる。彼女にとって、謝罪をすることはもはや呼吸をすることと同じように当たり前のものだった。何かあれば謝る。たとえ自分が悪くなくても、謝る。そうしなければもっと酷い目に遭うからだ。
しかし、彼女の謝罪を聞いても異母妹は満足しない。彼女は散らばった洗濯物を見下ろすと、わざと白い服の上を歩いた。当然カトレアのものではなく、リリアーナの服の一つである。先ほど洗ったばかりの服が、また汚れてしまった。
「あら、また洗い直しね」
カトレアは楽しそうに笑う。
「も、申し訳ありません……」
「本当に役立たずなのだから。お義姉様って、何のために生きているの?」
その言葉に、周囲にいた使用人達がくすくすと笑う。誰も止めようとしない。むしろ、誰もが楽しんでいる。
リリアーナは黙って俯いた。慣れているから、大丈夫。でも、慣れてしまったことが、何よりも悲しかった。
「何を騒いでいるの?」
その時、優雅な声が響いた。歩いてくるのは、エリディア伯爵夫人。リリアーナの継母にあたり、カトレアの実母である。義母の姿を見て、カトレアは涙目になって義母に抱き着いた。
「お母様ぁ!」
「まあ、どうしたの? わたくしの可愛い娘」
「お義姉様がまたわたくしのドレスを台無しにしたのです!」
リリアーナは思わず顔を上げた。違う。自分はそんなこと——と言いそうになったが、義母の冷たい目が向けられ、喉が締まる。蛇のような視線だ。
「リリアーナ」
温度のない声に、彼女の身体は震える。
「謝罪はしたの?」
「……申し訳ございません」
「何? 何も聞こえないわよ」
「申し訳ございません……!」
地面に這いつくばりながら、頭を下げて謝罪をする。くすくすと、カトレアたちの笑い声が聞こえる。まるで、見世物だ。
「本当に困った子ね」
義母は満足そうに微笑んでから、突然リリアーナの髪を掴み上げた。
「っ!」
激痛が走り、涙が出そうになるのを必死で堪えた。そのまま、無理やり顔を上げさせられる。
「あなたは仮にもカトレアの姉でしょう? なら、妹を支える役割があるはずよね。それすらできないあなたに、生きている価値があるのかしら?」
リリアーナは瞳を揺らした。生きている価値。何度聞いたか分からない言葉だ。実の母が死んで、この義母と異母妹が屋敷に来てから、毎日のように言われ続けてきた言葉。
お前には何の価値もない。邪魔だ。お前なんて要らない。消えろ。お前は誰にも愛されない。
何度も何度も何度も、言われてきた。そのせいか、彼女自身がそう思うようになってしまった。
わたしには何の価値もない。わたしは邪魔で、要らない存在。わたしは消えるべき。誰にも愛されるはずがない。
「申し訳ございません……」
「謝ることしかできないのね」
義母は鼻で笑い、彼女の髪から手を離す。そして汚い物に触れたかのように手を払うと、近くの侍女に命じた。
「リリアーナの夕食は必要ないわ。それと、地下倉庫の掃除をさせておいて。終わるまでは、決してそこから出さないように」
「承知致しました」
侍女はすぐに答え、頭を下げる。リリアーナは顔色を悪くした。昨日も、食事はほとんど与えられていない。朝から働き詰めで、足も限界だ。それでも、逆らうことなんてできない。
「返事はどうしたの?」
「……はい」
「だから、あなたのその小さな声じゃ何も聞こえないわ」
「はい……!」
ようやく満足したのか、義母はリリアーナから目を離してその場を去る。義母の後を追ったカトレアだが、途中で後ろを向いて笑った。
「お姉様、お掃除頑張ってくださいね?」
一人残されたリリアーナは、地面に散らばった洗濯物を拾い集める。袖がずり落ちて、腕の傷が露わになった。切り傷や火傷、打撲痕、新しいものも古いものもある。誰も彼女を気にしない。誰も助けようとしない。伯爵令嬢であるはずの彼女は、この屋敷では誰よりも下の立場にいる。誰も、彼女を人間として扱わない。
どれだけ苦しくても、リリアーナは泣かなかった。泣けば、怒られるから。
「ごめんなさい……」
自分自身に謝るように小さく呟きながら、汚れてしまった洗濯物を拾い続けた。
◆ ◆ ◆
暗い。寒い。怖い。
わたしは、どこにいるのでしょう。何も分かりません。夢の中、でしょうか。
「早くしなさい。あなたは本当に、何をやらせても遅いのね」
誰かの声が聞こえます。その声を聞いた時、わたしの口からは勝手に言葉が出てきました。
「申し訳ありません……」
誰の声かは分からないけれど、わたしが言うべきことは決まっています。それしか、知らないのです。
「また謝っているのね。〇〇〇って、それしかできないのよ。無能な人だわ」
誰かに笑われています。胸が痛いですが、言い返してはいけません。怒らせたら、嫌なことになると、それだけは分かるのです。
「役立たず」「出来損ない」「お前なんて生まれてこなければよかったのに」
その言葉が、何度も何度も胸に突き刺さります。痛いです。苦しいです。もう、嫌です。
誰か。誰かに、助けてもらいたいと。そう願ったことは、何度もあります。ですが、誰も助けてくれないということは痛いほど理解していました。ですからいつしか、そう願うことすらやめました。
わたしは、そういうものなのです。愛されない存在なのです。必要とされない存在なのです。
——だから、誰かに優しくされるなんて、そんなこと、あるはずがありません。
「……っ」
息が苦しいです。誰かが、わたしを呼んでいます。またです。また、謝らなくてはいけません。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
そう声に出そうとした時。
「……大丈夫だよ」
優しい声が、聞こえました。低くて、穏やかで……わたしは、この声を知らないはずです。それなのにどうして、こんなにも安心するのでしょう。
「…………」
ゆっくりと瞼を開きます。視界がぼやけています。どうやら、わたしは涙を流していたようです。何か、嫌な夢を見たのでしょうか。分かりません。
「嫌な夢を見たのかい?」
頬に温かなものを感じ、わたしは目を動かしました。綺麗な赤い瞳を持つ、美しい男性。セフィル様のお顔が、わたしのすぐそばにあります。誰かが近くにいると怖いと思ってしまうのに、彼は怖くありませんでした。彼の手は、わたしの髪をゆっくりと撫でてくださっています。
「……」
言葉が出てきません。混乱しているからです。どうしてこの方は、こんな悲しそうな顔をしているのでしょう。まるで、わたしが嫌な夢を見ていたことを、自分のことのように痛がっているかのようです。
「……ごめんなさい」
また、勝手に口から出てしまいました。彼の手がピタリと止まり、彼は痛ましそうに眉を寄せました。
「君は何も悪いことをしていないのだから、謝る必要はないよ」
……そう仰っても、わたしには分かりません。何が悪くて、何が悪くないのか。もう、何も分からないのです。
すると、彼の手がそっと頬へ触れました。指で、流れ落ちた涙を拭ってくださったようです。
「泣いてもいいんだよ」
「……え」
「辛かったなら、泣いてもいいんだ」
胸の奥が、震えました。何も覚えていませんが、そんなことを誰からも言われたことがないことくらい分かります。泣いたら怒らせてしまう。泣いたら弱いと言われてしまう。泣いたら迷惑だと思われてしまう。ですから、泣くことは我慢するようにしていました。
それなのに。
「……っ」
彼の優しい声を聞いていると、涙があふれてきました。駄目だと分かっているのに、止まりません。
「ごめ……」
また反射的に謝ろうとして、彼の指が唇に触れました。
「リリアーナ」
名前を呼ばれます。わたしの名前だと実感したわけではありませんが、心が大きく震えました。彼に優しく呼ばれただけなのに、涙が止まらなくなってしまいます。
「……怖かったね。もう大丈夫だよ。ここには、僕と君しかいない。君を虐げる人間は、存在してはいけないんだ。だから、大丈夫。これからは、僕が君を護るから」
ゆっくりと、彼はわたしの頭を撫でてくださいます。ゆっくりと、何度も何度も。その手も、声も、何もかもが温かいです。
「……どうして、ですか」
声が震えてしまいます。
「どうして、そんなに優しくしてくださるのですか……?」
わたしの問いに、彼は少し考える素振りを見せました。そして、とても美しく、悲しそうに、それでいて愛おしそうに、微笑みを浮かべました。
「ずっと、そうしたかったから。それに、僕は君の恋人だからね」
彼の言葉の意味をすべて理解できたわけではありませんでしたが、その言葉は胸に刻み込まれました。
安心したからか、段々と瞼が重くなってきました。眠るのが怖いと思うような夢だったような気がしますが、今は怖くありません。セフィル様が、そばにいてくださるから。
誰かが傍にいてくれるという安心感の中で、わたしは初めて眠ることができました。




