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第1話 目覚め

 ——最初に感じたのは、柔らかな温もりでした。ふかふかな何かに包み込まれている。雲の上で眠っているかのように感じました。

 ゆっくりと、瞼を開きます。すると、知らない景色が目に入ってきました。真っ白な天蓋に、繊細な刺繍が施されたカーテン。窓からは日の光が差し込んでいて、部屋を明るく照らしていました。しかし、このどれもわたしには見覚えがないのです。わたしが慌てて身を起こすと、途端に頭がぐらりと揺れます。


「っ……」


 頭が痛いです。身体も重い。何日も眠ってしまっていたのでしょうか。

 頭を支えながら、辺りを見回しました。とても広い部屋です。わたしが眠っていた寝台は高価そうで、窓際には可憐な白い花が飾られています。どう見ても、かなり身分の高い貴族の部屋です。


「ここは……どこ……?」


 呟いた声は、驚くほど掠れていました。わたしは自分の手を広げて、じっと見つめます。


「……?」


 何か、違和感があるのです。何でしょう。何かがおかしい。

 わたしは……わたしは、誰なのでしょう。ここがどこなのか分からない以前に、わたしが誰なのかすら分かりません。何も、思い出せません。

 頭の中は、真っ白でした。空っぽです。胸がざわざわとして、段々と息をするのが苦しくなってきました。怖いです。とても、怖い。必死に記憶を探りますが、何も分かりません。


「や……」


 どうして、何も思い出せないのでしょう。怖くてたまらなくて、自分の身体を抱くように震えていた時。コンコン、と扉が叩かれる音がしました。わたしが返事をする間もなく、扉が開かれます。

 そして——入ってきた人を見て、わたしは言葉を失ってしまいました。

 夜を閉じ込めたような艶やかな黒髪。深紅の瞳。整いすぎた顔立ち。まるで、物語の中から出てきた騎士様のようでした。それくらい、人間離れした美貌なのです。

 思わず見惚れていると、男性は紅の瞳をわたしに向けて、ぴたりと動きを止めました。しばらく互いに見つめ合っていたら、彼はふと目を和らげて綺麗な微笑みを浮かべました。


「……目が覚めたのだね」


 とても美しい声です。わたしは咄嗟にお布団を握りしめ、目を逸らしました。


「あ、あの……」


 男性が近づいてきます。距離が近づくたびに、緊張してしまいます。誰かは分からないのに、不思議と恐怖はありません。むしろ、心が落ち着きます。

 彼はベッドの傍まで来ると、わたしの顔を覗き込みました。間近でじっと見つめられます。宝石のような、綺麗な赤色の瞳に見られると、落ち着きません。


「体調はどうだい? どこか痛むところはない? 気分はどう?」

「え……? だ、大丈夫、です」


 怒涛のように問われ、曖昧に頷いてしまいました。彼の声は優しいです。しかし、わたしの言葉を聞いた彼は、少しだけ眉を顰めました。少しだけでしたが、胸がどきりと嫌な音を立てます。


「申し訳ありません」


 言葉が勝手に出てしまいました。自分でも驚きです。どうして謝ったのかは分かりませんが、口から勝手に零れていたのです。


「ご迷惑をおかけしてしまって……」


 男性は、目を見開いて固まっていました。何か、失礼なことをしてしまったのでしょうか。わたしは慌てて頭を下げようとしましたが、彼がわたしの肩に触れたのでできませんでした。


「謝らないで。君は何も悪いことをしていないのだから」

「ですが……」

「君が謝る必要はない。君は何も迷惑をかけてなんかいないから。分かったね?」

「……はい」


 彼は少し苦しそうな顔をしていました。わたしが彼の表情を曇らせてしまったのです。申し訳なくて、でも何を言えばいいのか分からなくて目を伏せていると、大きな手がわたしの頭に乗せられました。


「大丈夫。ここには、君を傷つける人はいないよ。だから、安心して僕に身を委ねてごらん」


 優しい声です。顔を上げると、彼はとても優しいお顔をしてわたしを見ていました。そのお顔を見ていると、わたしは堪えることができませんでした。彼は、わたしのことをご存じなのでしょう。ですがわたしは、彼のことを何も覚えていない……。彼のこの優しさは、わたしの知らない”わたし”に向けられたものなのでしょう。それをわたしが享受しても良いのか、不安に思ったのです。


「……わたし、何も覚えていないのです」


 声が震えてしまいます。怖くて、彼の顔を見ることができません。


「自分が誰なのかも分からなくて……あなたのことも、分からなくて」


 じわり、と涙が滲んでしまいます。とても怖いです。ぎゅっと目を瞑ると、優しい手で目元を撫でられました。驚いて目を開くと、男性は目を細めて穏やかな微笑みを浮かべていました。一見冷たく見える赤い瞳が柔らかく細められると、美しくて直視できないほどです。


「泣かないで」


 そっと、彼はわたしの頭を撫でてくださいます。あまりにも優しい手つきで、胸の奥がきゅうと痛みました。どうしてでしょう。彼が誰だかは分かりませんが、懐かしいという感覚がしました。

 彼はわたしの髪を撫でながら、口を開きます。


「君の名前は、リリアーナだよ」

「リリアーナ……」


 小さく呟きますが、少し胸がざわりとしただけで何かを思い出せたわけではありません。首を傾げていると、男性は優しく微笑みながら頷きました。


「そして僕は、セフィル」


 セフィル。その名前もまた、不思議な響きを持っています。ずっと昔から知っていたような、そんな気がする名前。


「セフィル……さま」


 わたしが呟くと、彼は目を細めました。嬉しそうに、愛おしそうに。


「そう。僕はセフィル。君と僕は、恋人なんだ」

「こ、こいびと……?」

「うん。お互いに愛し合っていて、とても親しい仲だったよ」


 彼が嘘をついているようには思えません。ですが、わたしがこの美しい人と恋人だったなんて……胸がどきどきしてしまいます。彼があまりにも美しく、わたしなんかでは不釣り合いだと思うからでしょうか。それとも、失ってしまった記憶に何か関係があるのでしょうか。

 わたしが困惑している間、セフィル様は手を伸ばして何かを持ち上げました。飲み物のようです。透明なグラスに、淡い琥珀色の液体が入っています。


「喉が渇いているだろう。これを飲んで」


 確かに、喉が渇いていました。わたしが小さく頷くと、彼はにこりと笑みを深めてグラスを口元へと運びました。わたしが飲むものではなかったのでしょうか。不思議に思ってみていると、彼はわたしの顎に指を添えたのです。


「っ」


 顔が近いです。彼が何をしようとしているのか理解する前に、唇に柔らかな感触がありました。


「ん……む、っ!?」


 驚いて目を見開いたわたしの隙を突くように、彼の唇が強く押しあてられました。そっと重ねられるだけの口づけではありません。彼は迷いことなく、わたしの唇を自身の唇で割り開いたのです。

 ちゅ、と湿った音が鼓膜を震わせると同時に、彼の唇を介して冷たい液体が流れ込んできました。花の蜜のように甘く、どこか痺れるような独特な香りを持った飲み物です。あまりに強引に飲まされたことに動揺し、それを吐きだそうと身悶えした時でした。


「……っ、ふ」


 セフィル様の喉から、色気が漂う、愉しげな吐息が聞こえてきました。逃がさないとばかりに顎を固定された指に力がこめられ、彼はわたしを食むように唇を重ね続けます。

 そして、熱く濡れた彼の舌が、わたしの抵抗を容易く押し退けて口内へと侵入してきました。


「んんっ……!? ぁ……」


 薬を流し込むためだけだとは思えない舌の動きです。わたしの口内全体をなぞり、行き場をなくして縮こまるわたしの舌に彼のそれを絡め合わされました。逃げようとしても追い詰められ、捕まって絡み取られる。呼吸を奪われていく感覚に、頭がじんわりと痺れていきました。

 薬を飲まされているのか、それとも、彼の熱に溶かされているのか。


 コク、と喉を鳴らすと、液体が身体の中へと流れ込んでいきます。すべて飲んだのに、彼は唇を離してくれません。わたしの口内に残った甘い蜜のすべてを貪り尽くすように、何度も深く、角度を変えて舌を絡ませ、激しく吸い上げます。


「ん……あ、は……っ、んむ……」


 息が、できません。彼の熱と、互いの唾液が混ざり合う甘さに、意識が白く染まっていきます。気づけば、わたしは彼の胸元を握りしめていました。

 どれほど、衣服を汚す時間が流れたでしょう。わたしが薬を完全に飲み込んだことを確認したのか、ようやくセフィル様の唇が離れました。名残惜しそうに、透明な糸が引いています。


「はっ……ぁ、ふ、う……」


 奪われていた空気を求めて、わたしの口からは荒い息がこぼれました。


「な、な……」


 言葉にすることができません。何をするのですかと言う代わりに彼を睨みますが、彼はまるで当たり前のことをしたかのように平然としていました。


「ちゃんと飲めたね」

「えっ、あ……」


 頭が働きません。不思議と、嫌だとは思いませんでした。むしろ、彼との接触で安心している自分がいます。

 その感覚に戸惑っていた時、急激な眠気がわたしを襲ってきました。


「……セフィル、さま……」


 瞼が重いです。意識が闇へと沈んでいきます。


「ゆっくりとお休み。今は、何も考えなくてもいい」


 優しい声で囁かれ、頭を撫でられます。わたしは抗うことができませんでした。

 ゆっくりと瞼を閉じます。最後に見えたのは、セフィル様の穏やかな微笑みでした。







 リリアーナが完全に眠りへ落ちたことを確認してから、セフィルは大きく息を吐いた。そしてそっと身を屈め、彼女の白く柔らかな額へと唇を寄せる。

 触れるだけの口づけ。宝物に触れるような、優しいキス。


「愛しているよ、リリアーナ」


 彼は、眠る彼女の髪を撫でる。その紅い瞳には、狂おしいほどの執着と愛情が滲み出ていた。

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