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第4話 やさしいこいびと

 窓から差し込んでくる優しい日の光は、お部屋を明るい色に染め上げてくれます。わたしの心も、温かくなるような気がします。わたしが眠っているベッドは、わたしには勿体ないほどふかふかで贅沢なものです。このベッドだけではなく、このお部屋にあるすべてのものが、わたしを大切に、大切に守ってくれている……そんな心地がいたします。


「……」


 わたしは目を開けて、ぼんやりと天井を見つめました。頭の中は、真っ白な霧が立ち込めているようにはっきりとしません。昨日も、それより前も、わたしが何をしていたのかを何一つ思い出すことができませんでした。どこで何をして、どのような暮らしをしていたのか……。

 何も分からなくて不安に押し潰されそうな状況ですが、わたしの心は不思議なほどに穏やかでした。なぜなら、ここにはわたしを傷つける人はいないと確信しているからです。


「起きたのかい、リリアーナ」


 扉が叩かれ、心地よい声が聞こえました。その美しい声を耳にしただけで、わたしの胸にはじわりと温かい灯火が灯るのです。自然と、固まっていた頬が緩んで、笑みがこぼれました。


「はい、セフィル様。起きております」


 わたしがそうお答えすると、扉が開かれて彼が姿を見せました。入っていらっしゃったセフィル様は、今日も息を呑むほどにお綺麗です。艶やかな黒髪は光を浴びて輝いて、燃えるように赤い瞳が柔らかく細められています。背がとても高くて、佇んでいらっしゃるだけで空気がピンと張り詰めるような、どこか厳格な雰囲気を持っていらっしゃるのに……どうしてでしょう。わたしはちっとも怖いと思わないのです。


「おはよう、リリアーナ。よく眠れた?」

「はい。セフィル様、おはようございます。とても心地よく眠れました」


 セフィル様はわたしの言葉に満足そうに口元を緩めると、まっすぐにわたしの近くに寄ってこられました。枕元に腰を下ろしたセフィル様は、その綺麗な手をわたしの頭へと伸ばされます。そして、優しい温もりを感じました。

 彼は、わたしの髪を慈しむように撫でてくださいます。不思議です。この手で撫でられていると、何も覚えていないことへの不安や焦りが、すべて嘘のように消えていってしまうのです。まるでずっとずっと昔から、この手の温もりだけは知っていたかのような……そんな愛おしい錯覚に囚われます。


「……セフィル様の手は、とても温かいです」

「そうかい? そう言ってもらえて嬉しいよ。ただ、君が冷えすぎているとも言えるよね。すぐに消えてしまうのではないかと不安になってしまう」


 温かな眼差しをわたしに向けながら、彼はわたしの頬をそっと手のひらで包み込んでくださいました。その少しだけ寂しそうなお顔を見ていると、なんだか胸がきゅっと苦しくなります。


「さあ、朝食にしよう」


 そう言って、彼はご自身で運んできてくださったトレイをベッド脇の小さな机に置かれました。わたしのような者のためにセフィル様に朝食を運ばせてしまったことが申し訳なくて、わたしは思わず目を伏せました。


「申し訳ありません、セフィル様。お手を煩わせてしまって……」

「僕は煩わしいだなんて思っていないよ。寧ろ、したいと思ってしているんだ」


 にこりと美しい微笑みを浮かべ、彼はスプーンを持ち上げてスープをよそわれました。彼はそれを、わたしの口元へと運んできます。これは、彼が手ずからわたしに食事を与えようとしてくださっているのでしょうか。


「あ、あの。わたし、自分で食べられます」


 少し恥ずかしくなってそう申し出ると、彼は手を止めて少し眉を下げました。


「駄目だよ、リリアーナ。君はまだ病み上がりのようなものだよ。僕が食べさせてあげる。……それとも、僕の手から食べるのは嫌かい?」

「そ、そんなことありません! ただ、その……少し、恥ずかしいと言いますか……」

「なら問題はないね。さあ、口を開けて」


 彼の口調は穏やかですが、有無を言わせない圧を感じます。わたしが勝てるはずもありません。わたしは顔が赤くなるのを感じながら、小さく口を開きました。


「はい、どうぞ」


 差し出されたスプーンから、温かいスープが口の中へと広がりました。お野菜の甘みが溶け込んでいる、とても優しくて美味しいスープです。コク、と喉を鳴らして飲み干すと、セフィル様は嬉しそうに目を細められるのです。


「どう、美味しい?」

「はい。とても美味しいです」

「そうかい。君が美味しそうに食べてくれるのが、何よりも嬉しいよ」


 少しだけ気分が良くなられたセフィル様は、今度は小さく千切った柔らかいパンを綺麗な指でつかんで、わたしの口元へと運んでくださいました。一口、また一口と食事を運んで頂けるたびに、胸の奥がくすぐったくなります。恥ずかしくてどうにかなってしまいそうなのに、どうしてでしょう。この時間が終わってほしくないと思ってしまうほどに心地よくて、幸福感に包まれるのです。


 食事の次は、お着替えの時間でした。これもまた、セフィル様がご自身の手で行ってくださいます。


「セ、セフィル様。お洋服くらいは自分で、」

「リリアーナ。君が転んだり肌を傷つけたりしないように、僕がすべて君のお世話をするよ。じっとしていてね」


 セフィル様は真剣な表情をして、わたしの寝間着にそっと触れます。肌に冷たい空気が触れるたびに恥ずかしさで身体が震えてしまいますが、彼の瞳には下品な色などは微塵もありません。彼はただひたすらわたしを考え、守ってくださっているのです。

 わたしのために用意してくださった、仕立ての良い柔らかな服。セフィル様はその大きな手でわたしの腕を袖へと導き、生地に引っかからないように何度も支えてくださいました。背中のリボンを結ぶその手は驚くほどに器用で、わたしの髪を巻き込まないようにしてくださっていることが伝わってきます。

 最後に服の襟元を整えてわたしの髪をさっと後ろへ流すと、セフィル様はぽつりと呟かれました。


「……やっぱり、世界中のどんなものよりも、君が一番綺麗だよ。リリアーナ」

「え……っ、あ、ありがとうございます……」


 そのように真っ直ぐと褒められて、嬉しくないはずがありません。わたしの顔は、きっと熟した林檎のように真っ赤になっていたことでしょう。

 セフィル様はそんなわたしを愛おしそうに見つめると、今度はわたしの腰をそっと抱き上げて、ベッドから降ろしてくださいました。わたしの足が床に触れないように、あらかじめ用意してくださっていたふかふかのスリッパへと導いてくださいます。


「あっちのソファへ行こうか。少し外の景色を見ながら、ゆっくりしよう」

「はい、セフィル様」


 彼に手を引かれて、窓辺にある大きなソファへと腰を下ろしました。二人で並んで座りと、彼はわたしの身体をぐいっとご自身の方へと引き寄せられました。わたしの肩が、彼の胸元へと触れてしまいます。お隣に寄り添うと、セフィル様の体温がじんわりとわたしへと伝わってきました。とても温かくて、包み込まれるような安心感があります。セフィル様の甘い香りに包まれているだけで、身体から力が抜けていくのが分かります。

 すると、セフィル様の手が再びわたしの頭へと置かれました。そのままゆっくりと、わたしの髪を優しく撫でてくださいます。


「セフィル様……」

「なんだい、リリアーナ」

「わたしは、何も思い出せないのに……。どうしてセフィル様は、こんなにもわたしを大切にしてくださるのですか? わたしは、何もお返しすることができません……」


 ずっと胸の奥にしまい込んでいた疑問。こんなにも優しくお世話してもらうたび、申し訳なさと、「このまま記憶が戻らなかったら、いつか捨てられてしまうのではないか」という恐怖が顔を覗かせてくるのです。

 わたしの問いに、セフィル様は髪を撫でていた手を一度止められました。そしてわたしの顎に細い指を添えて、ご自身の赤い瞳と目を合わせられたのです。


「お返しなんて求めていないよ。君がそこにいて、僕の名を呼んでくれる。ただそれだけで、僕は救われているんだ。君の過去なんて重要ではない。……いや、むしろ何も思い出さなくていいよ」

「え……?」

「君を傷つけるだけの過去なら、そんなものはすべて忘れてしまえばいい。これからの新しい記憶を、僕の存在だけで満たしていけばいいんだ。君は、ただ僕だけに守られていて、僕の腕の中で笑っていれば、それでいいのだから」


 セフィル様の紅い瞳の奥に、ゆらりと、何か暗く激しい”熱”のようなものが揺らめいた気がしました。それが何なのか、わたしには上手く理解できません。それでも、わたしを包み込んでくださる彼の手は、とても温かくてとても優しいのですから。それで十分なのです。


「はい、セフィル様。あなた様がそう仰ってくださるなら、わたしは何も怖くありません」


 わたしがお答えすると、セフィル様は安心したように柔らかく微笑まれました。美しい微笑みで、ドキリと胸が変な音を立てます。


「君は本当に可愛くて良い子だね、リリアーナ」


 そう言って、セフィル様は再びわたしの頭を優しく撫でてくださいました。その熱を求めるように、わたしの身体は勝手に彼へと近づいてしまいます。自分が何者なのか分からなくても、セフィル様のこの温もりだけは絶対に本物です。彼の優しい手のひらに身を委ねながら、この上ない幸福感の中で目を閉じるのでした。

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