第10話 しあわせな世界
わたしの世界は、この美しいお部屋がすべてです。
「僕のリリアーナ、今日も可愛いね。よく眠れたかい?」
「はい……セフィルさま。おはようございます」
目が覚めると、すぐにセフィル様がわたしをぎゅっと抱きしめてくださいました。すぐそばから伝わってくる、彼の優しい温もり。鼻腔をくすぐる、お香のような、甘いセフィル様の香り。そのすべてに包まれているだけで、わたしの胸は信じられないほどの幸福感で満たされて、じわりと涙が出そうになってしまいます。
わたしの頭の中には、今日も心地の良い真っ白な霧が立ち込めています。わたしにとって、セフィル様のこと以外は何も分かりません。何かを考えようとすると、頭の芯が痺れて、すぐにどうでもよくなってしまうのです。けれど、それでいいのです。だって、わたしの隣には、世界中の何よりもわたしを大切にしてくださる、優しくて美しいセフィル様がいてくださるのですから。
「さあ、今日も僕と一緒に、たくさん楽しいことをしようね」
「はい、セフィルさま。わたし、セフィルさまとご一緒なら、何をしていても幸せです」
わたしが微笑むと、セフィル様は嬉しそうに目を細めて、わたしの額に口づけを落してくださいました。それだけで、わたしは自分が世界で一番の幸せ者なのだと、心の底から実感できるのです。
お着替えとお食事をすべてセフィル様の手ずからお世話してもらった後、今日はお部屋の中でお花をめでる時間を過ごすことになりました。
セフィル様が「君が外で見たがっていたようだからね」と仰って、大きなガラスの器に、瑞々しい青いお花をたくさん活けて、ソファの前の机に置いてくださったのです。いつのことかは分かりませんが、一度このきらきらとした綺麗なお花を見たことがあるような気がします。
「わあ……っ、とても綺麗です、セフィルさま! お部屋の中なのに、まるでお花畑にいるみたいです」
「君が喜んでくれるなら、僕は何だって用意するよ。ほら、近くで見てご覧」
セフィル様に腰を抱かれながらソファに座り、わたしたちは二人でお花を眺めました。わたしが身を乗り出してそっとお花の柔らかい花弁に触れると、足元でジャラリと鎖が鳴りました。わたしがこのソファから離れようとすれば、この鎖がわたしを引き留めるでしょう。ですが、今のわたしにはお外へ行く必要なんてどこにもありません。こうして、セフィル様がお部屋の中へ、わたしの好きなものを運んできてくださるのですから。
「セフィルさま、このお花は、どうしてこんなに綺麗な青色をしているのでしょうか」
「それはね、可愛いリリアーナ。君の美しい瞳の色を映しているからだよ。世界中の美しいものはすべて、君を飾るために存在しているんだ」
「まあ……。セフィルさまったら、またそのようにわたしをからかわれて……」
恥ずかしくなって俯くわたしを見て、セフィル様は心地よい声でクスクスと笑われました。そして、大きな手でわたしの頭を優しく撫でてくださいます。その手のひらの温もりが、わたしの頭の中の霧をさらに甘いものへと変えていくのが分かります。
温かいです。そしてとても、優しい。セフィル様に撫でて頂ける時間は、わたしにとって何よりも贅沢で、至福のひとときなのです。
お花を見た後には、二人でお絵描きをして遊ぶことになりました。セフィル様が、紙と色鮮やかな画材をたくさん用意してくださいました。わたしは昔、絵を描くのが好きだったのでしょうか……? 道具を手にした時、なんだか胸の奥が懐かしい気持ちでいっぱいになりました。
「リリアーナ、何を描こうとしているんだい?」
「ふふ、秘密です。描き終えるまで見ないでくださいね、セフィルさま」
わたしはセフィル様の胸元にすっぽりと背中を預けた状態で、紙に向かって筆を動かしました。セフィル様の長い腕が、わたしの身体を後ろから包み込むようにして支えてくれています。彼の体温がじんわりと伝わってきて、まるでお洋服をもう一枚羽織っているかのように温かいのです。
わたしが一生懸命に描いたのは、真っ黒な髪と、燃えるような深紅の瞳を持った、世界で一番恰好良くてお優しい男性の姿でした。そう、大好きなセフィル様です。
「できました! セフィルさま、見てください」
描き終えた絵を誇らしげに見せると、セフィル様は驚いたように目を丸くして、それから胸が締め付けられるほどに優しい眼差しでわたしを見つめてくださいました。
「僕の絵を描いてくれたのかい、リリアーナ」
「はい。わたしの頭の中には、セフィルさまのことしかございませんから。わたしの世界で一番美しくて、一番大好きな方を描かせていただきました。上手に描けているでしょうか……?」
少しだけ不安になって彼のお顔を見上げると、セフィル様はわたしの頬を手のひらでそっと包み込んでくださいました。
「上手なんて言葉じゃ足りないよ。君の描く絵は、世界中のどんな名画よりも素晴らしい。……愛している、リリアーナ。君が僕だけをその美しい瞳に映してくれていることが、僕にとっての何よりの救いだよ」
セフィル様の深紅の瞳に、ゆらりと、狂おしいほどの熱い光が灯るのを見ました。その光に射抜かれるたびに、わたしの心臓はトクトクと鐘を鳴らします。彼にこんなにも深く愛されているのだと思うと、胸がいっぱいになって、言葉にならない幸福感が全身を駆け巡るのです。
それから、わたしたちはたくさんお話をしました。お話と言っても、わたしが何かを話せるわけではありません。今のわたしは何も考えられませんから、セフィル様がわたしのために、楽しいお話をたくさん聞かせてくださるのです。
「明日には、君にぴったりな新しいドレスを渡してあげるよ」
「今夜は君の好きな、甘いお菓子を持ってくるね」
「ずっと僕の傍にいるんだよ、リリアーナ。君は僕だけの可愛い小鳥なのだから」
セフィル様が言葉を紡ぐたびに、その優しい声がわたしの耳に染み渡り、わたしの心を彼の色だけに塗りつぶしていきます。
あの日、わたしが勝手にお外に出てしまった時。セフィル様が浮かべた、あの悲しそうなお顔。あの時、わたしは誓ったのです。二度とセフィル様を裏切らない、二度と彼を悲しませるようなことはしない、と。
今のわたしは、この生活がこれ以上ないほどに心地よくて、正しいものなのだと確信しています。だってこのようにしていれば、セフィル様は絶対に悲しいお顔をなさいませんし、わたしのことを甘やかしてくださいますから。
お話をしているうちに、少しずつお部屋の外が夕闇に包まれ、静かな夜が訪れました。夜はわたしにとって一番甘やかで、一番刺激的な時間です。
わたしがベッドに戻ると、セフィル様はいつものように、淡い琥珀色のお薬が入ったグラスを手に取られました。このお薬がないと、わたしは上手く眠ることも、彼の温もりを感じることもできなくなってしまっているのです。
「さあ、リリアーナ。良い子にして、僕を受け入れてね」
「はい、セフィルさま……。お薬、ください……」
わたしは自ら唇を開きました。セフィル様はご自身の口にお薬を一口含むと、わたしの顎を固定し、上向かせました。その指に込められた強い力に、わたしの胸はトクンと跳ねあがります。
柔らかな唇が重ねられ、隙間からセフィル様の熱い舌が滑り込んできました。同時に彼の口内から、甘い液体がわたしの口の中へと流れ込んできます。わたしはそれに抗うことなく、コク、コクと喉を鳴らして飲み干しました。
「ん、んん……っ、ふ……んむ……っ」
お薬をすべて飲み干した後も、セフィル様の唇は離れません。彼はわたしの身体をさらに強く抱きしめて、わたしの口内に深く舌を突き入れられるのです。彼の舌がわたしの舌と絡み合い、一つになります。息が上手くできなくて胸が苦しくなっていくのに、頭の中は彼の熱によってドロドロに融かされていくのが分かります。お腹の奥が疼いて、身体中の力がへなへなと抜けてしまいます。
「ん、あ……ん、は……ぅ……っ」
呼吸が奪われる口づけに、わたしの目からは自然と涙がこぼれ落ちてしまいます。しかしどれほど激しく貪られても、セフィル様のもう片方の手はずっと優しくわたしの頭を撫で続けてくださっているのです。その手の温もりがあるから、わたしは何も怖くありません。
やがて、ぷは、と唇が離されると、わたしとセフィル様の唇は銀の糸を引いて繋がりました。
「はっ……ぁ、ふ、う……セフィル、さま……」
「ちゃんと飲めて偉いね、可愛いリリアーナ」
セフィル様はわたしの涙を指で優しく拭うと、そのままわたしをシーツの上へと押し倒されました。
その夜、わたしたちは何度も、何度も肌を重ね合いました。セフィル様の大きな身体に包み込まれ、彼の激しい愛に抱かれる時間。わたしの身体の隅々まで、セフィル様の熱と香りと所有の印で満たされていきます。鎖がじゃらじゃらと激しく音を立てるたび、わたしがセフィル様のものになったのだと実感して、背筋がぞくぞくとするほどの甘い快感に満たされるのです。
「セフィルさま……っ、あ、あ……っ! だいすき、です……」
「僕もだよ、リリアーナ。君は僕のものだ。一生、君を離さないからね」
激しく抱かれながら、わたしは彼の背中に腕を回し、必死にしがみつきました。セフィル様以外のことは何一つ考えることはできません。セフィル様がいないと、呼吸の仕方も分からなくなってしまいそうです。
わたしは、とても幸せです。何も思い出せなくて、何も持っていないわたしに、こんなにも溢れるほどの愛を注いでくださるセフィル様が、ずっとお隣にいてくださるのですから。彼の腕の中にいることだけが、わたしにとって何よりの『幸せ』なのです。




