第16章:静かすぎる平和
ぐっすり眠っていたあたしは、ゆっくりと目を開けた。心の中では、あの汚い安宿で目覚めて薫様にまた会えるものだと思っていたのに、目に飛び込んできたのは木製の家具ばかり。鼻にツンとくる安っぽいニスの匂い。でも、なぜか落ち着く。ベッドはふかふかで柔らかくて、マジかよ……こんなベッド、何年ぶりだろう。死んで天国にでも来たのか?ありえない。あたしの経歴じゃ、地獄行きVIPチケット確定だろ。
自分の体を見下ろすと、全身包帯だらけ。誰かがあたしの手当てをしてくれたのか?グラディエーター時代に学んだことがある──慈善なんて、ただの下心を善意に見せかけたものに過ぎない。
ゆっくりと体を起こす。足元がおぼつかない。立ち上がった途端、部屋がぐるりと回って、胃がひっくり返りそうになった。思わず膝をつく。マジで弱ってる……しばらく息を整えてから、また立ち上がった。
部屋のドアに向かい、ゆっくりと開ける。そこにはごく普通の廊下。シーンと静まり返っていて、聞こえるのはあたしの小さな足音だけ。慎重にドアを一つずつ開け、探索を続ける。でも、どこもおかしなところはない。むしろ普通すぎて不気味だ。キッチンにたどり着くと、刃の輝きが目に飛び込んできた。奥に包丁が一本。テーブルからそれを手に取る。メスで奇跡を起こしたあたしだ、これくらい余裕。最大限の警戒を保ちながら、さらに進む。
ダイニングルームらしき場所に着くと、ソファに男が一人、本を読んでいた。
影のように近づき、そいつの首に包丁を突きつけた。
「あんた、誰? あたしに何の用?」
そいつは微動だにせず、あたしの脅しを完全に無視して本を読み続けている。まるで何でもないことのように。
「同じ質問、二度もする気はないから」あたしは唸るように言いながら、刃を押し付け、皮膚がわずかに裂けるのを確認した。「さっさと答えなさいよ。今すぐ」
彼が本を閉じ、あたしを見た。やっとまともに視線を合わせ、ニヤリと笑う。あたしが動くより先に、そいつの体は数秒で崩れ、形を変えた。男がいた場所には、ナイフを物理法則無視でスルスルとすり抜けるネズミがいた。ネズミはみるみる膨らみ、伸びて、数メートル先で元の男に戻る。こいつ、人間じゃねぇ……なら、あたしの敵だろッ!!!
あたしは前に出る。ナイフでそいつの顔めがけて攻撃を叩き込んだ。そいつはあたしの目をじっと見つめ……あたしの攻撃は、あのクソ野郎を守る見えない硬い何かに阻まれた。触れることすら許さない、エネルギーのバリアだ。なんだこれ、クソがッ! 拳を叩き込むが、無駄だ。何も通じねぇ。
「望むなら、もっと公平にするためにバリアを解除してやってもいいぜ?」 あのムカつく野郎が、ニヤニヤしながら言う。
それにマジでキレた……! たちまち、あたしの体もあのオーラに包まれる。腕に熱が駆け上がるのを感じた。構え、一発殴りつける。バリアはガラスのように粉々に砕け散った。あたしは勢いのまま、急所を狙って攻撃を叩き込む。 そいつは一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに嘲笑うような表情に戻り、全ての攻撃を軽々と避ける。あたしが気づく間もなく、そいつはあたしの腹に手を置いた。風の魔法で突風を起こし、あたしを遠くへ吹き飛ばした。 壁に背中を打ちつけ、地面に倒れ込む。息が苦しく、視界が霞む。もう、あたしはボロボロだ。 急いで立ち上がる。次の攻撃を考えなきゃ。
そいつは笑っていた。それが、あたしには理解できなかった。 なんであのクソ野郎は、あたしを笑ってやがるんだ?
「君は本当に面白いな。人間が魔法を使うなんて、何千年ぶりだろう。懐かしいくらいだ。それに、こんなくだらない小競り合いはやめようじゃないか」
「あたしがバカに見えるってのか? そんな口車に乗るわけないだろ」 あたしは訝しげに返す。
「常識的に考えろよ、お嬢ちゃん」 そいつはあたしの包帯を指差しながら続けた。 「もし私がお前を殺したかったら、とっくに殺している。それも容易くな。お前は三日間も寝込んでいたんだ。あの状態なら、子供でも簡単にお前を殺せただろう」
まあ、そいつの言うことも一理ある……それに、あたしの傷も開き始めていた。 弱ってても、あたしはバカじゃない。勝ちたくても、こいつには勝てない。
あたしは肩の力を抜き、ナイフを下ろした。だが、まだしっかりと握りしめていた。
「あんた、誰だ?」
「やっと文明的な会話ができるようになったな。素晴らしい。さて、私はこれまでたくさんの名前と姿を持ってきた」 そいつはイラつくような、ふざけた口調で返した。
そう言うと、そいつは様々な生き物に姿を変え始めた。どう表現したらいいか分からない、視覚的なホラーショー。ただただ、気持ち悪い。エルフに獣人族、様々な姿や性別の人間……次々と変身していく。だが、ある男の姿で止まり、告げた。
「俺のことはルカン・アルヴェンと呼んでくれ。変幻種だ。お前も見た通り、俺が変身できないものなどない」
「マジで、そんなこと言わなくても、もう十分わかったわよ。自己紹介しすぎ。ただ、元奴隷のあたしに何の用だ?」
「僕の親切心を信じないのかい?」
「あたしは自分の影すら信用しない。ましてや他人の親切なんて、特にあんたみたいな化け物からのなんて、絶対にありえないね」
ルカンは小さく息を吐いた。
「お前は奴隷だったのか? この世界について何を知っている?」
「何も。あたしは剣闘士やってただけ。死なないために戦ってただけだ。」
「この世界の歴史を聞きたいか?」
「聞きたくない。」
「だが、聞いてもらう。遥か昔、この世界とお前の世界は一つだった。だが、お前たち人間は、他の種族を嫌悪の目で見ていた。今のお前と同じ顔でな。人間が俺たちのような存在に主権を脅かされるという事実は、絶望的だったのだろう。そこで、お前たちがやったこと……呪文だ。俺たちが『大封印』と呼ぶものをな。お前たちの主権と引き換えに、俺たちの民を、全てから隔絶された異次元のこの世界へと追放した。お前たちはそうやって……」
「もうそのクソみたいな話、やめてくんない? うざいんだけど。あたし、何もしてないし。」 あたしは、そんなくだらない話に我慢ならず、ルカンの言葉を遮った。
「お前の先祖がやったことだ。」
「じゃあ、あたしの先祖と解決してよ。あたしはあたしの罪にしか責任取らないから。」
ルカンはクツクツと笑った。
「まさにお前は面白いな。助けて正解だった……だが、本題に戻るか。この話は遥か昔のことだ。だが、この封印が弱まっている。だから、異世界への門が開き始めた。この次元とお前の次元の間に、弱点があるというか……弱体化に伴い、特定の場所で異世界への門が開くことがある。より正確には、お前の世界への門がな。」
「で、何が言いたいわけ?」
「そんなに急かすなら、単刀直入に言おう。この門は、この王国が人間を連れてきて奴隷にするために使っている……」
その瞬間、あたしの頭の中で何かがカチリと音を立てた。あたしの街での失踪事件の波は、これのせいだったのか……!
ルカンが手を伸ばすと、空間が歪み、一つの門が形成された。ルカンはニヤリと笑う。
「これは封印の綻びだ。時々、俺も利用している。お前の世界に戻る門だ……」
「え、何それ? マジで?!」
心臓が止まるかと思った。握りしめていたナイフが、カランと音を立てて落ちそうになる。あたしの家が、そこにある……奪われたあたしの人生が……あたし、家に帰れる……?




