本当にあった、怖いお話
「あんたとは、いつかこうなると思ってたわ、アリス」
エクレアが、真剣な瞳でこちらを見据えてくる。
その視線を受け止めて、重々しく頷く。
「ええ、決着をつけましょう、エクレア」
温泉旅館二日目の夜。
部屋のテーブルで、お互い浴衣の腕をまくって対峙する。
――腕相撲である。
「ね~、しおん? でしとえくれあ、けんか?」
「違うよ。じゃれてるのさ」
「違うわよ!」
「そうですお姉ちゃん! 超真剣ですよ、私は!」
腕相撲とか、男なら負けられないでしょう!
見なさい、この鍛え抜かれた腕を!
まくった腕を、相手に見せつける様に披露する。
「……細」
威圧するつもりが、何故かエクレアから舐められたような目を向けられる羽目に。
そっちだってそんなに変わらないでしょうに!
いいでしょう。
ならば……見なさい、この力こぶを!
「うん、柔らかいね」
「いたいいたい! 腕を掴まないで下さい!」
お姉ちゃん、泣きますよ!
涙目で姉を睨むと、悪い悪いという苦笑が帰ってくる。
「……別に勝負の方法は変更してもいいわよ」
「なっ! 侮辱ですね! 由緒正しい力比べから逃げるなんて、そんな恥知らず出来る訳ないです!」
テーブルに先に肘をついて、来いよ受けて立つぜ、という雰囲気を醸し出してみる。
「ふん、吠え面かかせてあげる」
エクレアもテーブルに肘をついて、固く手を握り合う。
審判を務めるイリアが、握り合った俺達の手の上から手を置いた。
「では、リラックスしてください」
イリアの声に、息を吐く。
――ふ、力こぶなどどうでもいいのですよ。
腕相撲で必要なのは、手首から肘までの力なのだから。
もっと言えば、全体重を斜め後ろにかける感覚こそが勝負のキモ!
つまり、身体をしっかり固定して、引っ張り込むように前腕で薙ぎ倒す!
これにかかっている。
昔鳴らした感覚は忘れちゃいない!
素人めが――――思い知るがいい!
「レディ――」
エクレアと視線が交錯する。
「ゴー!」
イリアが被せていた手を上げた瞬間、気を吐いた!
「てぇやああああっ!!」
「……」
勝負はまさに一瞬――――ではなかった。
――なんだと!?
俺の渾身の体重をかけた先制攻撃が……効かない?
なんて奴だ、エクレア……化け物か!?
開始から、ほとんど動いていない!
「何なのよ、この居た堪れない感覚は……」
それでもじりじりと体重をかけた分、腕を押していく。
「……エクレアも強い方じゃないし、体重ごと来られると少しは効くんだけど……それにしてもアリス、よわ!」
くっ!
やはり、こうなるか!
はいはい、分かってましたよ!
暢気な顔して、どうしよっかな~って?
あまりのこちらの弱さに、勝負をためらいましたか、エクレア?
――しかぁし!!
その油断こそが勝負を分けるって、教えてあげる!
「エクレア!」
「な、何よ?」
交錯する視線を、ゆっくり下げていく――そして、エクレアの浴衣の胸元で止める。
俺の視線を追っていたエクレアが、どこか落ち着かない様子を見せた。
まぁ、視線に敏感ですからね、女の子。
「――胸、見えてる!」
腕相撲ではだけた浴衣を指摘して――
「は、ちょ!? ――あ」
エクレアが自身の浴衣の胸元に気を取られた隙を逃さず――勝負をつけた。
「……ふ、相手を舐めるからこうなるんです」
「お嬢様の勝ち」
イリアに高々と手を掲げあげられる。
「はぁ!? おかしいでしょ! なんでイリアも堂々と勝利宣言してるのよ! 何のための審判よ!?」
「お嬢様の知恵と勇気に感動して」
「明らかに悪知恵だし、勇気なんてどこにもなかったでしょうが!」
「申し訳ありません、感動して前が良く見えませんでした、決着以外」
「何なのよ、この出来レース!」
という、平和な平和な温泉旅館の一幕である。
何で腕相撲なんかしていたのかと言うと、単なる遊びでしかないのだけど。
ま、それなりに熱くなりましたよ、エクレア。
「マスター、やる?」
エイムが興味深そうに腕を捲っていた。
「……知恵も勇気も届かない事って、あると思うんです」
敵を知り、己を知れば百戦危うからず。
これは逃げじゃない、戦術的撤退です。
力5とか……腕がへし折れるわ。
ここからは、そんな温泉旅館の最終日の夜に起こった、本当にあった話です――
ふと、夜中に目を覚ました俺は、自分の身体が動かない事に気付いた。
何だまたティルかリンちゃんかと思ったけど、どうやらそうじゃないらしい。
辺りを見渡すと、それぞれ皆のふとんの中には誰も入っていなかったのだ。
もちろん、俺のふとんにも。
――金縛り!?
急に、言いようのない不安に苛まれて冷や汗が噴き出した。
意識があるのに、身体が動かない。
これは本当に気味が悪くって、恐ろしい現象だ。
見たくないモノが見えそうな予感がして、咄嗟に目を閉じた。
意味も無く悲鳴を上げそうになる。
しばらくして、身体が動くようになったことに気付いた。
まずはゆっくりと手を握ったり開いたりして、身体の動きを確認してみる。
目はまだ開けていない。
部屋の中を確認するのが怖すぎて、そのままふとんに頭から潜った。
この部屋には自分を含めて八人がふとんを並べて休んでいるはずだが、何の気配もしない。
俺は廊下から数えて三人目で、一番窓際で俺の真横はリンちゃんである。
通路分のスペースを空けて向いに、もう四人がふとんを並べているという構図だ。
それはともかく――まず、こんな夜中にそのリンちゃんが居ない事がおかしい。
普通に考えて飛び起きて探しに行く事態だが、それより良く分からない恐怖が上回っている。
本当に誰も居ないのだろうか?
俺は意を決して、声を上げてみることにした。
「……お、お姉ちゃん? お姉ちゃんいますか?」
リンちゃんとは逆の俺の隣に、シオンさんが眠っている――はずなのである。
返事はない。
気配もない。
「イリア! いるよね、イリア!?」
ふとんの中から少し大きめの声を出す。
――もちろんです、お嬢様。
という安心するような声は返ってこなかった。
異常事態である。
さすがに、このまま暢気にふとんに隠れている訳にもいかない。
俺はついに行動を開始することにした。
これ以上は、もう待てない。
――おトイレに、行きたいのです!
実はこの旅館、部屋に備え付けのトイレはない。
なので部屋を出てトイレまで歩いて行かないといけない。
建物もトイレも綺麗で、掃除も行き届いているので幽霊屋敷という訳ではないが、この妙な気配の中一人で廊下を歩いて行くのは不気味である。
「イリア~? おトイレ行きませんか~?」
最後の抵抗である。
返事は無い――ただの独り言のようだ。
……くっ、絶対に朝までは耐えられない!
漏らしちゃうとか、あり得ないし!
俺は意を決して、ふとんから這い出て――目を開けた。
「……」
辺りは相変わらずの闇と静寂に満ちている。
別に幽霊はいなかった。
ついでに、やはり誰も居なかった。
――とりあえず、お花を摘んでから後の事は考えようと思う。
部屋を出ると、俺は壁に沿うように廊下を歩いて行った。
決して死角は作らない。
後ろからトントンとかされたら――漏る!
廊下には所々に薄らと魔鉱石が備え付けられており、それがぼんやりと暗闇を照らしている。
しばらく長い廊下をゆっくり進んでいくと――正面から、床の軋む音が聞こえてきた。
――キシキシキシキシキシ。
「……」
旅館なのだから、夜中でも人とすれ違うのも当たり前ではないか。
臆するに足らず。
暴れる心臓を無視して、こちらもゆっくり前に進む。
……でも、顔は上げずに足元を見ながら前に進む。
怖くないよ?
うん、怖くない。
――キシキシ
「……」
――キ
「……え?」
――今……音だけすれ違わなかった!?
「…………あ、はは。キノセイだよ。心霊現象は科学で大抵証明できます。そう、プラズマです」
現実逃避することにした。
絶対に後ろは振り向かない。
固く決意して、廊下を進んでいく。
何故か、霧のようにもやが出てきて、視界が悪くなってきた。
――ここは屋内なのに。
どことなく肌寒い。
何かの前触れのような気配が漂っている。
俺はというと、肌寒さとは裏腹に、汗びっしょりである。
そうして、ようやくトイレまでやってきた。
中を覗くと、トイレまで霧がかかっていて良く見えない。
それでも前に進まねばならぬ、緊急事態である。
スリッパを履き替えて、トイレに入る。
こんな夜中にも関わらず、個室のドアが一番奥の一つを除いて、全て閉まっていた。
ぶわっと、脂汗が噴き出す。
絶対に……あの一番奥のトイレに入っちゃダメな気がする。
いや、絶対ダメだ。
そもそも、本当に他のトイレは誰か入っているのだろうか?
とは思うが、覗いたりはしません――ヘンタイになりたくない。
自問自答してみる。
行くか――?
引き返すか――?
否、引き返すとか有り得ませんし。
おふとんに描く世界地図の記録を更新したりしませんし。
何度目かの決意を固め、恐る恐る最奥の個室に足を進める。
ゆっくり中を覗き込んで、そこには――――何にも無かった。
……当たり前である。
胸を撫で下ろし、個室に入って扉を閉め――――
「あ~り~す~」
「ひゃああああああああああああああああああ!!!!??」
「――と、そこで血まみれのエクレアが扉の後ろに張り付いていたんです、びっくりした」
「なるほど、怖い夢を見たと、そういうお話ですね」
「そうです! ちゃんと夢の中でも返事はして下さい、イリア!」
「ふふ、これは失礼しましわ、お嬢様」
出発日の朝、憤懣やるかたないとばかりにイリアに昨日の顛末を話した。
――夢だけど。
「それでお嬢様は今朝一番にお目覚めになられて、一人で温泉に入っていた訳ですか?」
「う、うん。暇だったし、最後にもう一度入りたかったですし……」
「ところで、お嬢様のおふとんが見当たらないようですが、どこに畳んであるのですか?」
「え?」
何処に?
「……今日は、いいお天気ですね?」
「? はい、洗濯物も良く乾きそうですわ」
「……」
「?」
イリアの頭の上にハテナマークが浮かんでいるのが見えるようである。
「でし~~! おねしょ、しちゃったぁ!」
と、そこに一番最後に起きてきたリンちゃんが、わんわん泣きだして抱きついてきた。
おねしょ?
「――リンちゃん、それは当たり前の事です。生きていれば、誰しも犯すかもしれない、どうしようもない生理現象。嘆く必要はありません、そう――当然のことなのです」
「ほんと? おこってない?」
「ええ、もちろん。旅館の人には私から言っておきますから、先に一緒に温泉に入ってこよっか? リンちゃん」
「うん!」
リンちゃんと固く手を握り合った俺は、さっさと温泉に向かう事にした。
うんうん、何度入っても良いものだよね、温泉!
「……ところでその話の一番の被害者は、どう考えてもエクレアよね」
と、被害者のようで加害者のエクレアが納得いかない顔で唸っていた。
そう、これは本当にあった怖い怖いお話なのである。




