養蚕始動
一 村を知る
松は砥堀の村を歩いていた。
せっかく砥堀に出入りできるようになったのだから、ただ屋敷で過ごしているだけではもったいない。
村には何があるのか。
何が作られ、何が売られているのか。
そして、何か商いの種になるものはないだろうか。
そんなことを考えながら、松は村の様子を眺めていた。
「姫様、どちらへ参られるのですか?」
付き添っていた通が尋ねる。
「村を見て回ろうと思って。せっかく来たのですから、どんなところなのか知っておきたいでしょう?」
「それはそうですが……」
通は少し困ったような顔をした。
松は気にせず、畑や家々を眺めながら歩いていく。
しばらくして、村の者から話を聞くなら村長がよいだろうと思い立った。
「村長殿にお話を聞いてみましょう」
そうして松は、村長のもとを訪ねることにした。
二 砥堀の暮らし
村長の家を訪ねた松は、村の様子について話を聞いていた。
「このあたりでは、どのような作物を作っているのですか?」
「主には米でございます。ほかには麦や粟、豆などを作っております。畑では季節に応じて野菜も育てておりますな」
「山の方はどうでしょう?」
「薪や柴を採るほか、木の実などもございます。村の者が山に入って、それぞれ必要なものを得ております」
松は話を聞きながら、頭の中で村の様子を思い描いていた。
米や麦だけではない。山にも畑にも、何か使えるものがあるかもしれない。
「この村で、ほかに何か作っているものはありませんか? 昔から続いている仕事などでも構いません」
村長は少し考え込んだ。
「昔からの仕事でございますか……。そうですな。今ではあまり見かけなくなりましたが、このあたりにも昔は蚕を飼う家がございました」
「蚕?」
松はその言葉に反応した。
「はい。桑の葉を食べさせ、繭を作らせるのでございます。昔はこのあたりでも、それなりに行われていたと聞いております」
「それは、絹を作るためですか?」
「左様でございます」
村長はうなずいた。
「古い話では、この播磨にも蚕や絹にまつわる記録が残っております。播磨古事記にも、そのような記述があったはずです」
「播磨古事記に?」
松は少し身を乗り出した。
村の昔話を聞くつもりだったが、思いがけず興味深い話が出てきた。
「詳しく聞かせていただけますか?」
松の目が、少し輝いた。
どうやら、砥堀にはまだ知らないものが眠っているらしい。
三編 昔の養蚕
「昔は、このあたりでも蚕を飼う家が多かったのでございますか?」
松が尋ねると、村長は懐かしむように目を細めた。
「左様です。私も幼い頃、年寄りから聞いた話ではございますが、昔はこのあたりでも養蚕が盛んだったそうです」
「今は、あまり見かけませんね」
「ええ。今では細々と続けている家がある程度でございます」
村長は少し間を置いて話を続けた。
「かつては蚕を飼う者だけでなく、糸を取る者、真綿を作る者もおりました。村で作った繭や糸をまとめ、商人に渡す仕組みもあったと聞いております」
「それなら、村の大きな稼ぎになっていたのでしょうね」
「そうだったのでしょうか?。しかし、そうした仕事をまとめていた者たちがいなくなり、職人も各地へ散ってしまった。今では、それぞれの家で細々と続けるばかりです」
「もったいないですね」
松はそう言って考え込んだ。
蚕を飼い、繭を作り、糸を取る。そこまでの技術がこの土地に残っているのなら、何も一から始める必要はない。
「今でも、蚕を飼っている家はあるのですか?」
「一軒だけございます。畑作の傍ら、昔からのやり方で続けている家が」
「そうですか」
松の表情が少し明るくなった。
なくなったと思っていたものが、まだ残っている。
それなら、話を聞いてみる価値はありそうだった。
「そのお宅を紹介していただけませんか?」
「よろしゅうございます。私から話を通しておきましょう」
松は嬉しそうにうなずいた。
砥堀には、まだ商いの種が残っているのかもしれない。
四編 養蚕農家
数日後、松は村長に紹介された養蚕農家を訪ねていた。
家の周囲には畑が広がり、軒先には農具が並んでいる。
「こちらが、今も蚕を飼っている家でございます」
村長がそう紹介すると、家の者が慌てて頭を下げた。
「姫様がお越しになるとは、何のお構いもできませぬが……」
「急に訪ねて申し訳ありません。少し、蚕のことを聞いてみたかったのです」
松は穏やかに答えた。
「今も蚕を飼っていると聞きました。繭を見せていただくことはできますか?」
「それは構いませぬが……」
家の者は少し戸惑いながら、奥から繭を持ってきた。
松は手に取って眺める。
思っていたよりも小さい。けれど、この中に絹糸が何本も巻かれているのだ。
「これを糸にするのですね」
「はい。繭を煮て、糸口を探し、何本か合わせて糸にいたします」
「なるほど……。ところで、この繭を少し譲っていただくことはできませんか?」
松が尋ねると、農家の者は申し訳なさそうに首を横に振った。
「申し訳ございませぬ。これらは冬に生糸や真綿にするためのものでして。家の者が一年かけて作った、大切な稼ぎでございます」
「そうですか。無理を言ってごめんなさい」
松はすぐに引き下がった。
すると、農家の者が少し考えてから口を開いた。
「ただ、糸を取るときに出る屑糸でしたらございます。売り物にはなりませぬが、そちらでよろしければ差し上げます」
「屑糸?」
「繭からうまく糸が取れなかったものや、途中で切れてしまった糸などでございます。捨てるほどのものではありませんが、商人が買うようなものでもございません」
松は顔を明るくした。
「それで構いません。少し分けていただけますか?」
「その程度でよろしければ、いくらでも」
こうして松は、少量の屑糸を譲り受けることになった。
帰り道、松は包みを大事そうに抱えていた。
「通、これで糸を作ってみましょう」
「姫様ご自身でございますか?」
「ええ。まずは、どんなものか試してみたいのです」
通は包みを見つめ、少し不安そうにため息をついた。
松の新しい遊びが、また始まりそうだった。
五編 糸を紡ぐ
屋敷に戻った松は、さっそく譲ってもらった屑糸を広げていた。
「これを使って糸にするのですね」
「姫様、本当にご自身でなさるのですか?」
通が心配そうに尋ねる。
「そうよ。せっかくいただいたのですもの。どうやって作るのか、知っておきたいでしょう?」
松は屑糸を手に取り、一本ずつほぐし始めた。
絡まった糸を解き、繊維を整える。細かな作業に思った以上の時間がかかった。
「なかなか難しいわね……」
「職人の仕事でございますから」
「そうね。でも、少しずつ形になってきたわ」
松は手を動かし続けた。
何度か失敗しながらも、どうにか糸らしいものができあがる。
細さは揃わず、ところどころに節がある。お世辞にも美しいとは言えない。
それでも松は、できあがった糸を持ち上げて眺めた。
「できたわ」
「……できましたね」
通の反応は控えめだった。
「これが売れるようになれば、面白いのだけれど」
松は糸を手のひらに載せた。
自分で作ってみれば、どれほど手間がかかるかも分かる。けれど、手間をかけたからといって、商売になるとは限らない。
そのことを確かめるためにも、次は商人に見せてみたい。
松は糸を丁寧に巻き取り、しまい込んだ。
「今度、村へ行ったら聞いてみましょう。これがどれくらいの値で売れるのか」
通は、また何か始まるのだろうと小さく息をついた。
六編 糸の値打ち
数日後、松は再び村を訪れていた。
手には、先日自分で紡いだ糸を持っている。
「先日いただいた屑糸で、糸を作ってみたのです」
農家の者は、松の差し出した糸を受け取った。
「ほう、姫様がお作りになったのでございますか」
「ええ。これくらいの糸なら、商人はいくらほどで買ってくれるのでしょう?」
農家の者は糸を指先で確かめ、しばらく眺めていた。
「これは……売り物にはなりませぬな」
「やはり、そうですか」
「仮に買い取る者がおりましても、一匁一文にもならぬでしょう」
「一匁一文にも……」
松は手元の糸を見つめた。
ずいぶん時間をかけて作ったのに、ほとんど値が付かない。
「そんなに安いのですか?」
「そもそも、屑糸から作った糸でございます。商人も、これを買って何に使うのかという話になりますので、せいぜい自分で作って 使うくらいです。」
松は少し考え込んだ。
「姫様ほどのお方が、どうして銭を稼ごうとなさるのでしょう?」
農家の者が不思議そうに尋ねた。
「お屋敷で暮らしておられるのですから、何不自由ない暮らしをされているものと思っておりました」
「そうね。食べるものにも、住むところにも困ってはいません」
松は糸を手に取り、指先でそっと撫でた。
「でも、私にはやりたいことがあるのです。それには銭が必要なのですよ」
「やりたいこと、でございますか?」
「ええ。自分で稼いだ銭で、いろいろなことをしてみたいのです」
松は笑顔で答えた。
けれど、胸の内には別の思いもある。
黒田の家にとって、自分が役に立つ存在になればいい。
そうすれば、嫁に出すのは惜しいと思ってもらえるかもしれない。
「ですから、何か商いになるものがないか、探しているのです」
農家の者は、松の手元にある不格好な糸をもう一度眺めた。
どうやら姫様は、ただの物見遊山で村を訪れているわけではないらしい。
松はその糸を包み直した。
「まだまだ勉強が必要ですね」
そう言って、次の手掛かりを探すように村を見渡した。
七編 農家の事情
「それにしても、これほど手間をかけて糸を作っても、売り物にならないのですね」
松は改めて農家の者に尋ねた。
「生糸を作るには、それなりの繭が必要でございます。屑糸から作ったものとは、値打ちが違いますので」
「では、もっと蚕を飼えばよいのではありませんか?」
「それができれば苦労はいたしませぬ」
農家の者は苦笑した。
「我らは農家でございます。米や麦を作り、畑を耕すのが本業。蚕はその合間に飼っているにすぎませぬ」
「桑の葉を集めるのも大変なのですか?」
「桑を育てる土地も必要ですし、蚕の世話には手間もかかります。何より、蚕は生き物です。世話を怠れば、たちまち駄目になります」
松は黙って話を聞いていた。
「それでも、冬になれば貯めておいた繭から糸を取ったり、真綿を作ったりして売ります。それが米や品を買うための大切な銭になるのです」
「なるほど……」
「ですから、繭を余分にお譲りするわけにもいきませぬ。家族が暮らしていくために必要なものでございます」
松はうなずいた。
無理に繭を譲ってもらうわけにはいかない。
農家にとって養蚕は、余裕があれば行う遊びではない。少ない収入を補うための大切な仕事なのだ。
「では、今の暮らしを変えずに、蚕を増やすことはできないのでしょうか?」
「今の暮らしを変えずに、でございますか?」
「ええ。畑仕事をやめて養蚕に専念するのではなく、今の仕事を続けながら、もう少し蚕を飼えるようにするのです」
農家の者は少し考え込んだ。
「そう簡単には参りませぬが……」
「そうですよね」
松もすぐに答えを求めるつもりはなかった。
けれど、今の話で分かったことがある。
この村には、まだ養蚕の技術が残っている。
問題は、それを続けるための人手や場所、そして桑の葉なのだ。
松は、もう少し詳しく話を聞いてみたいと思った。
八編 一人召し抱える
「ところで、こちらで養蚕をしているのは、どなたが担当されているのですか?」
松が尋ねると、農家の者は家の奥を振り返った。
「父の代から続けておりますが、今は兄の家の者たちが主に世話をしております。私も手伝いますが、なにぶん畑仕事もございますので」
「そうですか。では、養蚕に詳しい方はほかにもいらっしゃるのでしょうか?」
「そうですな……。うちには、太郎という叔父がおります。昔から蚕の世話をしておりまして、繭の扱いも糸の取り方もよく知っております」
「その方は、今も養蚕を?」
「いえ、今は家の仕事を手伝う程度でございます」
松は少し考えた。
養蚕を増やすにしても、まずは詳しい人間が必要だ。蚕の世話から繭の扱いまで分かる者がいれば、一から覚えるよりずっと早い。
「その方を、私のところで働いていただくことはできませんか?」
「叔父を、でございますか?」
農家の者は目を丸くした。
「ええ。養蚕を教えていただきたいのです」
「しかし、あの者ももう五十近くになります。若い者ならともかく、今さら姫様のお傍で働くなど……」
「年齢は関係ありません。経験があるのでしょう?」
松はあっさりと言った。
「蚕の世話ができて、繭の扱いも分かる。私には、それが大切なのです」
「ですが、人を召し抱えるとなれば、食べるものも用意せねばなりませぬ」
その言葉に、通が口を挟んだ。
「姫様。人を召し抱えると申しましても、養うには銭が要ります。今の私たちに、余分な者を抱える余裕はございません」
「そうね……」
松は腕を組んだ。
確かに、働いてもらう以上、食べるものを用意しなければならない。
「では、私たちの食べる分を少し減らしましょう」
「姫様まで食を減らすおつもりですか?」
「それなら一人分くらい、何とかなるでしょう?」
「なりません。そもそも、姫様のお食事を減らすなど、私が許しません」
通はきっぱりと言った。
松は困ったように考え込む。
そして、ふと思いついた。
「そうだわ。父上にお願いして、仕送りを増やしていただきましょう」
通は額に手を当てた。
「姫様……」
「だって、養蚕を始めるために必要な人なのですもの。父上にお願いする理由はあります」
松はそう言って、すっかり乗り気になっていた。
農家の者は、目の前のやり取りを呆然と眺めていた。
まさか、養蚕の話から自分の叔父が召し抱えられる話になるとは思ってもいなかったのである。
「まずは父上にお伺いを立ててみましょう」
松はそう言って、通を見上げた。
通は深いため息をついた。
また、松姫の新しい仕事が始まりそうだった。
九編 父上へのお願い
松はさっそく、父・職隆に文を送った。
養蚕を始めるために、村で経験を積んだ者を一人召し抱えたいこと。その者は五十歳ほどだが、蚕の飼育から繭の扱い、糸の取り方まで心得ていること。そして、その者を養うための米が必要であること。
数日後、職隆から返事が届いた。
「一人だけなら構わぬ。ただし、松が責任を持って面倒を見るのだぞ」
文を読んだ松は、嬉しそうに顔をほころばせた。
「通、父上がお許しくださいました!」
「それはようございました。ですが、これで終わりではございませんよ」
「分かっています。お米もお願いしてありますから」
松の願いを受け、職隆は米五俵を砥堀の叔父の屋敷へ送ることにした。
そして数日後。
屋敷に米俵が運び込まれた。
「五俵も届きましたね」
松は並べられた米俵を見て満足そうにうなずいた。
「これなら、太郎殿をお迎えできます」
「姫様、米は一度に渡すのではなく、必要な分を少しずつお渡しになった方がよろしいのでは?」
通が尋ねる。
「どうしてですか?」
「一度に渡してしまえば、後々足りなくなることもございます」
「でも、これから働いていただくのですから、最初にきちんとお渡しした方がよいでしょう?」
松はそう言うと、太郎のもとへ米俵を運ぶように命じた。
「太郎殿には、これをお渡ししてください」
通は米俵を眺めた。
五俵というのは、決して少ない量ではない。
こうして松は、養蚕を始めるための最初の人手を確保したのだった。
第十編 なぜ五十の男を?
松が太郎を召し抱えたという話は、高友が説明をもとめて聞いてきた。
「五十ほどの男を召し抱えたそうだな」
高友が松に尋ねた。
「はい。太郎殿と申します。養蚕の経験が豊富なのです」
「しかし、なぜそのような年寄りを? 召し抱えるなら、若い者の方が働きもよかろう」
不思議そうに松を見ていた。
松は少し首を傾げる。
「そうでしょうか?」
「そうであろう。五十ともなれば、若い者ほど働けぬこともある」
「ですが、太郎殿は蚕の飼い方を知っています。桑の木のことも、繭の扱いも、糸の取り方も心得ております」
「それは分かるが……」
「若い者を召し抱えても、まずは一から教えなければなりません。それなら、最初から知っている者を迎えた方がよいでしょう?」
松は当然のことのように答えた。
「それに、この時代に五十まで生きている方なら、むしろ貴重な経験をお持ちなのではありませんか?」
「なるほどな。若さよりも、持っている技を見たということか」
「はい。太郎殿は養蚕だけでなく、道具の扱いや修繕にも詳しいそうです。私には、とても頼りになる方に思えました」
「ふむ……」
高友は納得したようにうなずいた。
「松は人を見るところが、少し変わっておるな」
「そうでしょうか?」
松はきょとんとしている。
「よい。せっかく迎えたのだ。しっかり働いてもらうのだぞ」
「もちろんです。これから砥堀で養蚕を始めるのですから」
松は胸を張って答えた。
その様子を見て、高友は苦笑した。
どうやら、また一つ松の仕事が増えたらしい。
十一編 太郎爺の事情
太郎が松のもとへやって来たのは、それから数日後のことだった。
「太郎と申します。このたびは、お召し抱えいただき、ありがたき幸せにございます」
太郎は深々と頭を下げた。
「こちらこそ、来ていただいてありがとうございます。これからよろしくお願いしますね」
「はっ。できる限りお役に立ちとうございます」
松は太郎の顔を見て、それから傍らに置かれた米俵へ目を向けた。
「お米は足りそうですか?」
「はい。五俵もいただける話とは、思っておりませんでした。これだけあれば、当面は困りませぬ」
「それならよかったです」
松は安心したように笑った。
その後、通が太郎の身の回りについて確認していた。
「太郎殿は、ご家族はいらっしゃるのですか?」
「兄弟がおります。兄たちはそれぞれ家を持ち、今は甥が家を継いでおります。私は長く実家におりましたが、家のことは若い者たちに任せております」
「では、今まで養蚕を?」
「ええ。父から教わりましてな。蚕の世話は昔から私の役目のようなものでした」
太郎は少し笑った。
「もっとも、今では甥たちが家のことを取り仕切っております。私がいなくなっても、困ることはないでしょう」
松はその言葉を聞いて、少し考えた。
太郎にとって、今回の召し抱えは新しい働き口というだけではないのかもしれない。
「それなら、これからはこちらで存分に腕を振るってください。私も養蚕について、いろいろ教えていただきたいのです」
「姫様にお教えするなど、恐れ多いことでございますが……」
「そんなことはありません。私には分からないことばかりですから」
松はそう言って笑った。
太郎はもう一度、深く頭を下げた。
こうして松のもとに、養蚕を知る者が一人加わった。
十二編 養蚕の支度
太郎が松のもとへやって来て、
松は太郎に、養蚕を始めるための準備について尋ねていた。
「太郎殿、養蚕を始めるには、何から用意すればよいのでしょう?」
「まずは蚕を育てる小屋が必要でございますな。蚕は雨風をしのげればよいというものでもございません。育てる場所はきちんと整えねばなりませぬ」
「小屋ですか。新しく建てなければなりませんか?」
「いえ、村に使われておらぬ家がございます。あれを直せば使えるでしょう。屋根や壁の修繕程度なら、わしにもできます」
「そうなのですね」
「それに、蚕を育てる棚や道具も必要になりますが、それも作れます。桑の木も、村の山に生えているものを知っておりますので、まずはそこから集めればよろしいかと」
松は感心したように太郎を見た。
「ずいぶん色々とできるのですね」
「長年やってきたことでございますから。蚕の世話だけでなく、必要な道具を作ることも仕事のうちでございました」
「では、蚕の卵はどうするのですか?」
「それは実家に頼もうと思います。今も蚕を飼っておりますから、蚕種を分けてもらえるでしょう」
「なるほど。では、養蚕を始める準備は、ほとんど太郎爺にお任せしても大丈夫ですか?」
「ええ。小屋の修繕から道具の用意まで、わしが責任を持って進めましょう」
松は満足そうにうなずいた。
「そうですか。それなら安心ですね」
そして、ふと思い出したように通を振り返る。
「通、先に太郎殿の分のお米を渡してしまいましょう」
「姫様、またその話でございますか」
通は少し呆れたように返した。
「ですが、これから養蚕を始めるのでしょう? 太郎殿には準備に専念していただきたいのです」
「それは分かりますが、先に五俵も渡す必要がございますか?」
松は太郎を見た。
「太郎殿、実家の方々にも、蚕種を分けてもらうなど、お願いすることがあるのでしょう?」
「はい。ほかにも道具のことで、相談することがあるかもしれませぬ」
「でしたら、先にお米を渡しておいた方がよいでしょう。家の方々にも少しご迷惑をかけることになりますし、太郎殿も頼みやすくなるのではありませんか?」
「それは……確かに、そうかもしれませぬ」
太郎は少し考え込んだ。
これから家を離れて働く以上、実家に頼ることもある。先に米をいただいておけば、家の者にも話を持ちかけやすい。
それに、食べるものの心配がなくなれば、養蚕の準備に専念できる。
「それに、太郎殿も食べるものの心配をせずに済みます。安心して仕事をしていただきたいのです」
松はそう言って笑った。
通はしばらく考えていたが、やがて小さく息をついた。
「……まあ、そういう理由でしたら」
「よかった!」
松は嬉しそうに手を合わせた。
「では、太郎殿。お米は先にお渡ししますので、準備をお願いしますね」
「はっ。必ずや、姫様のお役に立ってみせます」
太郎は深々と頭を下げた。
こうして太郎は、食い扶持の心配をすることなく、養蚕の準備に取りかかることになった。
松にとっても、ようやく養蚕を始めるための最初の一歩である。




