6.代弁してもらえると、看板を見たのですが
第一部 誰がために紡ぐ
あの奇妙な出会いと衝動的な申し出から、時間が経つのは早かった。
天野弥生の依頼である『坂村の案件』が無事に完遂し、しばらく経った夏の日。優が『ことのは』で助手として働くようになって、ちょうど一年と二か月が過ぎたころだった。
代弁屋の仕事は繁盛しているわけではなく、決して毎日依頼が舞い込むわけではない。それは優も勤めるにあたって、最初に紬から忠告されていた通りだ。ただ、優はシフトを減らしたファミレスのバイトと大学の講義がない時は、用もなくほぼ『ことのは』に顔を出していた。
「優くん、仕事ない時は無理して来なくていいんだよ。お給料だって払えるわけでもないんだし」
紬はいつも申し訳なさそうに言う。
「いえ、ここ落ち着くんです。迷惑ですか?」
「迷惑ってわけでもないんだけど……」
「ほら、いつお客様がいらっしゃるかもわからないじゃないですか。そこに立ち会いたいんですよね」
優はやる気に満ち溢れていた。まだそれほど件数をこなしているわけではないが、この仕事に確かなやりがいを見出していた。紬の仕事についていき、人との向き合い方や、それぞれの伝えたいこと、言葉の裏にある考え方を聞いて自分の糧にする。代弁の技術はまだまだだが、優のそんなひたむきな姿勢を、紬もどこか頼もしく思ってくれているようだった。
「なんでもやりますから。何かあれば言ってくださいね」
そう言い、優は自ら進んで事務所の掃除を始めた。
「ありがとうね、優くん」紬もデスクで書類の整理を始める。
これが『ことのは』の、穏やかな日常だった。
しばらく二人で無言のまま作業をしていたが、突然カラン、と事務所のドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
紬と優は作業の手を止め、来訪者を迎える。入ってきたのはスーツ姿の男性だった。年齢は見たところまだ若く、二十代半ばだろうか。よく見ると、スーツの着こなしや所作にどこかぎこちなさを感じる。
「あのー。代弁してもらえると、看板を見たのですが」
「はい。まずはお話を聞かせていただけますか? こちらへどうぞ」
紬が淀みない動作で男性を応接ソファに案内する。優もすぐに奥の給湯室へ入り、コーヒーを淹れてテーブルに二つ用意した。
「すみません、ありがとうございます」
男性はひどく緊張しているのか、落ち着かない様子でソファの端に座り、コーヒーに口をつける。
「まずは、私どもの仕事について説明させていただきますね。『ことのは』では、依頼主様が伝えたいけれどどうしても直接伝えられないことを、代わりに私たちが伝えさせていただきます。伝えたいこととその経緯をお伺いし、依頼主様のお気持ちを、確実に温度感やその裏にある本心まで100%伝えさせていただきます。また、守秘義務として依頼内容を外部に漏らすことは絶対にないと約束いたしますので、ご安心ください」
紬がいつものように、柔らかく、けれど毅然とした声で男性に説明をする。だが男性はまだ落ち着かないのか、しきりに視線を泳がせていた。優も少し離れた自分のデスクから、不思議に思いながらその様子を観察していた。
「よろしければ、ご相談内容を伺えますか?」
「はい。ちょっとまだ、依頼するかどうかは決めていないのですが,
相手は仕事の上司なんです」
男性は胸ポケットから名刺入れを取り出し、震える手で紬に差し出した。彼の名刺には『松井電気 沢村耕平』と印字されている。
「それで、伝えたいことっていうのが、仕事を辞めさせてください、と言いたいんです」
その言葉を聞いて、優は少し驚いた。
このご時世、退職代行というサービスがビジネスとして成立している。まさに代弁屋もこういう使い方ができてしまうのだ。紬は「本人にはどうしても言い出せない」という心の負担を理解しているため、これまでにも何度かこういった事例を請け負ってきたと優に語ったことがあった。
ただ事務的に退職手続きを済ませるだけの『退職代行』と、気持ちの温度まで真っ向から伝える『代弁屋』を利用するのとでは、絶対的な意味の違いがあるのだと、優は助手としての経験から学んでいた。
「なるほど。退職の旨を会社に伝えたいということですね。ご相談は承りました。もしよろしければ、退職をすると伝えたい理由などを、お聞かせ願えますか?」
依頼主の事情を聞き出し、代弁をする。しかしそれは、ただ一方的に言葉の爆弾を渡し逃げることではない。相手と対話をし、希望を聞き、もし譲歩できる部分があるならばそこにゴールを定める。それもひとつの代弁の形として、『ことのは』では行っている。
優はゆっくりとノートパソコンを開き、沢村の次の言葉を記録する準備を整えた。
そして沢村は、ゆっくりと重い口を開く。
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