14.あなたの気持ち届けさせてください
「……誰だ」
松井は低い声で唸り、優を不審そうな目で睨みつけた。背後に控える紬の方へも目線をやる。
しかし、二人の纏うただならぬ空気から何かを察したのか。松井は手にした封筒を握りしめ、ゆっくりと優に向き直った。
「ふぅ……」
優は神経を研ぎ澄ます。そしてすっと背筋を伸ばし、深く息を吸い込んだ。そのまま両手を体の前で組み、ゆっくりと細く息を吐きだす。
【松井さん。……手紙を見ていただいたと思いますが、私は、会社を辞めたいと思っています】
松井はじっと優の目を見ている。そして、ぼそっと「沢村……」と呟いた。今の優の顔に、空気感に、目の前にいないはずの部下の姿を重ね合わせたのだ。松井は、優が沢村を代弁していると瞬時に気づいた。
【いつもミスばかりして、松井さんや木下君に迷惑をかけている現状に、もう耐えられません。自分が会社にとって迷惑だと感じています。ずっと、そう感じて仕事をしてきました。この会社に入社した時、一番にお世話になった松井さんには、感謝してもしきれません。……ですが、これから先のことを考えると、いずれ取り返しのつかない大きな失敗をして、もっともっと迷惑をかけてしまうと思います。そう思うことが……怖いです】
優は、自分の中に溢れ出してくる感情を止められなかった。
深くトレースしたことで、沢村の隠していた感情を完全に理解した。彼が辞めたい理由は、決してパワハラなどではなかった。沢村自身の、優しすぎる『弱さ』が原因だったのだ。
だから沢村は、事務所で終始落ち着きのない様子だったのだ。嘘の理由で尊敬する松井を悪く言い、罪悪感と、自分の不甲斐なさという無力感で押し潰されていたから。
優は、懸念されていたトレースによる自意識の反発を乗り越え、さらに深く沢村の意識の底へと潜っていく。紬のアドバイス通り、一度完全に溺れてしまうほど身を委ねた結果、自分の理性のブレーキを意識的にコントロールできるようになったのだ。
松井は、手に持っていた白い退職届を改めて見る。優の立つ位置からでも、その封筒の表書きの文字が小刻みに乱れ、何度もペンを走らせては書き直した跡があるのがわかった。沢村は、どんな思いでこれを書いたのだろう。じっと封筒を見つめる松井の震える手から、彼もまた沢村の痛切な思いを痛感していることが伝わってきた。
「そうか……。沢村のやつ、そこまで追い詰められていたのか」
ふと視界の端に動くものがあった。少し離れた車の陰から、沢村本人が息を潜めてこのやり取りを見守っていた。優に自分の心の中を丸裸にされ、依頼時の嘘を完全に見抜かれたことに戦慄しているのか、沢村は目を見開いて小さく肩を震わせていた。
【松井さん、僕は……もう限界です】
優は膝から崩れ落ちるように、深く頭を下げた。
その痛々しい姿を見た松井は、「もういい。わかった」と静かに告げ、沢村をトレースした優を見下ろした。そして、無骨な手を優へと差し伸べた。
「すごいな。君は、本当に沢村だった。……あいつの本当の気持ち、しっかりと聞かせてもらったよ」
優は松井の手を取り、ゆっくりと顔を上げる。そこには、怒りではなく、どこかひどく寂しそうな笑みを浮かべた松井の顔があった。
代弁は成功した。その様子を物陰から見届けた沢村は、自らが望んだ結末に満足したのか、諦めたようにその場を去ろうとしていた。
しかし、紬の放った一言が、沢村の足を床に縫い付けた。
「松井さん。……本当に、それでいいのですか?」
優もハッとして紬を見た。
そうだ。沢村の本当の退職理由は、誰のせいでもない自分の弱さのせいだった。だとすれば、松井が引き留めることだってできるはずだ。
代弁屋の仕事は、ただ一方的に言葉の爆弾を渡して逃げることではない。相手と対話をし、希望を聞き、もし譲歩できる部分があるならばそこにゴールを定める。それもひとつの代弁の形として、『ことのは』では行っている。事務所で優が学んだその信条に則るならば、今回の事例のゴールは本当に『退職』でいいのか?
紬と優が、牛丼屋での現場視察の時に感じた違和感の正体がこれだった。沢村が嘘をついていたとしたら、真のゴールはその先にあるはずだ。
「もういい」
松井は、自分に言い聞かせるように短く言った。
代弁屋がどこまで介入するべきか。正直に言うと、これは関与しすぎているかもしれないと優も思った。だが、このまま終わっていい訳はない。そう確信できる理由が、紬にはあったのだ。
「松井さん。……あなたの気持ち、届けさせてください」
優は紬の横顔を見て、今度は自分が戦慄した。まさか、事前のヒアリングもなしに、ターゲットである松井をこの場でトレースする気なのか。
紬は優の方を一瞥し、「トレースしたままでいて」と目で伝えると、いつもの仕草を始めた。
すっと背筋を伸ばし、深く息を吸い込む。そのまま両手を体の前で組み、ゆっくりと細く息を吐きだす。
この場から逃げるように立ち去りたいと、足を外に向けていたはずの沢村だったが、動かない。いや、動けなかった。その視線はむしろ紬たちの方へと向けられている。すっかり、紬のトレースに見入ってしまっているようだった。
【沢村。……お前の気持ちはわかっていた。辞めようと、俺の前から去ろうとしていることも】
紬は見事に松井の声を、その厳しくも温かい温度をトレースしていた。この場にいる者すべてが、その言葉に釘付けになっている。ただ一人を除いて。それは、当の松井本人だった。
【俺がどれだけお前に期待していたか、それがわからないのか! いつも人の見えないところで雑務をこなし、みんなのために動いてくれていたことを、俺が気づかなかったとでも思っているのか! たしかに、お前は不器用だし失敗も多い。それは認める。だがな、それを踏まえてもありあまる『影の功績』がお前にはあるんだよ!】
紬は一歩踏み込み、切実な思いを訴えかける。松井は静かに目をつむり、自らの内面をえぐり出すようなその言葉を聞いていた。
【自分が不甲斐ないから辞めたい? ふざけるな、もっと全力で俺にぶつかって来いよ! まだ俺たちは、きちんと会話ができていないんだ。お前の気持ち、俺に教えてくれ。俺に足りなかったことがあれば言ってくれ! なぁ沢村! 俺はこれから、この会社をもっとデカくしていく。その時……お前には、俺の右腕になってほしいんだ。お前に期待しているんだ!】
紬は、松井の胸の奥にある熱い気持ちをすべてぶつけていく。事前のヒアリングもない異性の代弁で、ここまで迫真に、魂を揺さぶるように伝えることができるのか。優は紬の背中を見て、自分はまだまだ足元にも及ばないと痛感させられていた。
黙って聞いていた松井が、そっと手で合図を送った。もう十分だ。そういう事だろう。紬はふっと肩の力を抜き、トレースをやめて短く息を吐いた。
「……ありがとう。一ノ瀬さん」
松井は紬に深く頭を下げて礼を言う。
「沢村……」
そして、うつむいたまま固まっている沢村の方を向き、松井は照れくさそうに笑いながら口を開いた。
「なぁ、沢村。代弁屋ってすごいな。俺が思っていること、すべて言ってくれたよ。俺の本心、全部見通されてな」
沢村は黙ったまま、松井の言葉を聞いている。
「あらためて、俺の口から言うからな。俺がこんな事言うのも柄じゃないが……辞めないでほしい。この会社で……いや、俺の下で、これからも働いてほしい」
代弁ではない、不器用な松井本人の、まっすぐな懇願。その偽りのない言葉に、沢村は顔を伏せ、微かに肩を震わせていた。
言葉を発せない沢村。今、彼は何を思っているのか。泣いているのだろうか。
「優くん。最後に……」
紬が小声で優を促す。優は深く頷く。そして優は沢村に、紬は松井に向き直り、二人は同時に深く頭を下げた。
「私たちの仕事はこれで終わりです。紡いだ言葉が、あなたの人生を少しでも豊かにすることを願っています。それでは失礼いたします」
二人は夕暮れの駐車場を去った。時刻は十八時。まだ空は明るく、この時間になってもまだ夏の爽やかな風が吹いていた。
これ以上、二人に余計な言葉はいらない。あとは言葉ではなく気持ちの問題なんだ。きっとあの二人は、これから大丈夫。そう思ってやまないのは、自分の中にまだ沢村耕平のトレースが抜けきっていないからだろうか。優は振り返らずとも、二人の確かな未来を確信していた。
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