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12.一度完全に『溺れて』しまったらいいんだよ

 大学を後にし、優は足早に『ことのは』へと向かった。いつもの路地を曲がった先にある事務所。そこでは、紬が店先の植木鉢で咲く夏の花に、じょうろで水をやっていた。


「優くん、お疲れ様。今日も暑いね」


 振り返った紬の笑顔は、いつも通り穏やかだった。


 どうして紬さんは、あんな恐ろしいトレースを平然とやってのけて、こうも自然にいられるのだろう。優は改めてそう思った。この領域に達するまでに、彼女はどれほど自分を殺し、相当な苦労をしてきたに違いない。自分で「やりたい」と啖呵を切ったが、ここまで精神を削る過酷な仕事だとは思わなかった。


「紬さん。ちょっと、相談があります」


 優の切羽詰まったような表情を見て察したのか、紬は静かに頷いた。


「うん。中で話そう」


 優しく促され、事務所の中へ入る。紬は奥の給湯室へ向かい、アイスコーヒーを淹れてテーブルに置いてくれた。


「どうしたの?」


「はい。……実は、トレースの件で」


「そうだと思った。やっぱり、大変?」


 優は自分がぶつかっている壁を、素直にすべて打ち明けた。他人の感情を受け入れる際、自分の意識が激しく拒絶反応を示すこと。無理にトレースを行おうとすると、息ができなくなり、深い水底で溺れるような苦痛が襲ってくること。


 どうやって紬はそれをコントロールしているのか知りたい。代弁の真髄を教えてほしい、と頭を下げた。


 紬はグラスのコーヒーを一口啜ると、ふぅと短く息を吐き、ゆっくりとソファから立ち上がった。


 その動作を見た瞬間、優は『トレースが始まる』と一瞬で理解した。いったい誰をトレースするのか。優は息を呑み、瞬きすら忘れて彼女を見守った。


【お姉ちゃん。あの時、ちゃんとお姉ちゃんの気持ちを理解してあげられなくて……ごめんね】


 誰の代弁だ? 過去の依頼主だろうか?


 紬の表情、声の震え、そして空間を圧するほどの強烈な後悔。痛いほどの切実な感情が、波のように優へ伝わってくる。


【もう一度伝えたい。お願いだから、ちゃんと……】


 言葉を紡ぐ紬の瞳から、ポロリと、一筋の綺麗な涙がこぼれ落ちていた。


 次の瞬間。紬の纏う空気がふっと緩み、いつもの『一ノ瀬紬』へと戻る。


「どうかな? ……私が初めて代弁をした時の、依頼主のトレースなんだ」


「紬さん、涙が……」


 いったい誰の感情をトレースしたのか、優にはわからなかった。だが、そのあまりの生々しさと切実さに圧倒されながらも、彼女の涙の理由がどうしても気になって、優は思わず口にしていた。


「そうなの。優くんが抱えている悩みは、私にもあるんだよ。今もね」


 紬は目元の涙を指先でそっと拭い、静かに説明を始めた。優に起きている拒絶反応の正体。紬が今までの経験から学んだ、他人の感情との向き合い方。それは、優にとって喉から手が出るほど知りたかった『プロの極意』だった。


「他人の気持ちを、完全に自分の意志でコントロールしようなんて、正直言うと不可能なんだ。今回の沢村さんの件もそうなんだけど、特にマイナスに気持ちが振れているものをトレースする時はね。依頼主の『負の感情』をそのまま自分の中に落とし込むわけだから、苦しくて、息ができなくなって当然なんだよ。プラスな感情だったら、ここまで苦しくはないんだけどね」


 紬はまっすぐ優の目を見た。


「今回の案件、いきなりで申し訳なかったんだけど……トレースの一番つらい部分を、最初に経験してほしかったの。だからお願いしたんだ。苦しい思いをさせてごめんね」


 紬が頭を下げたことに、優は少し驚いた。しかし、それ以上に胸が熱くなった。


 彼女は意地悪で難しい案件を任せたわけではない。『ことのは』で代弁をやりたいと言った自分の本気の覚悟を試すために、あえて最大の試練を与えてくれたのだ。


 優は、グラスに残っていた氷混じりのコーヒーを一気に飲み干した。


「謝らないでください。俺、もっと代弁のことが知りたいです。教えてください」


  本心からそう思えた。この仕事の恐ろしさも深さも含めて魅了され、目の前にいるこの人に、少しでも近づきたいと強く思ったのだ。


「具体的に一つだけ、ちゃんとアドバイスするとすれば……」


 紬はふっと、悪戯っぽく笑った。


「抗おうとするから苦しいの。だから、一度完全に『溺れて』しまったらいいんだよ」


 ぞっとするような恐ろしいアドバイスだった。自分という存在を消して、完全に感情の波に飲み込まれろということだ。


 だが、不思議と恐怖は消えていた。確かに、一度溺れてしまったとしても、紬がいれば必ず引き上げて、介抱してくれる。みっともない姿を見せてしまうかもしれないが、彼女の前でなら、いくらでも泥臭く溺れてやろうと思えた。


 少しずつ夕方に近づき、夏の厳しい暑さが和らいできたころ。  優は覚悟を決め、再びトレースの深淵へと飛び込んだ。

読んでいただきありがとうございます。

感想など反応いただけると嬉しいです。


※この作品はカクヨム様でも配信しています。

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