11.これが本気でトレースするってことなのか
沢村の代弁の決行日まで、あと一週間を切った。
優は気分転換に大学のキャンパスへ来ていた。何か用事があるわけでもないが、歩きながら頭を少しリフレッシュさせたかったのだ。
「今日は意外と人がいるな。やっぱり四年生は卒論で大変なんだろうな」
木陰のベンチに腰かけ、バッグからタブレットを取り出す。画面に映し出されるのは、ヒアリングと現場観察を経て、優なりにまとめた沢村のデータだ。それに一通り目を通す。
「よし」小さく気合を入れ、立ち上がる。
すっと背筋を伸ばし、深く息を吸う。そのまま両手を体の前で組み、ゆっくりと息を吐きだす。紬がいつもやっている所作だ。
【松井さん、少しお話よろしいでしょうか】
静かに、自分の意識を深い水底へ沈めていく。そして代わりに拾い上げるのは、依頼主の言葉。俺は器だ。この口はスピーカー。この体は他人の感情を表現する傀儡。
そうだ。今の俺は、沢村耕平だ。
【僕は、今まで松井さんのもとで働いてきたんですが――】
ふいに、見える世界がぐにゃりと変わった。
あふれ出してくる感情が、明らかに自分のものではないとはっきりとわかる。発する言葉の一つ一つに、他者の重い感情が乗っていく。だが、それと同時に『新谷優』としての理性が激しく反発し、跳ね返ってくる。
ああ、だめだ。飲み込まれる――
「げほっ、はぁっ、はぁっ……!」
肺の空気が急に足りなくなったような錯覚に陥り、優は一瞬で現実に引き戻された。今までいたのはあの世か? 大袈裟でなくそう思ってしまうほど、意識の奥底まで沢村の感情に持っていかれそうになっていた。
「これが……本気でトレースするってことなのか……?」
紬はいつも、こんな自分を死なせるような恐ろしいことを平然とやっていたのか。優は背筋が粟立つような恐怖を感じた。沢村を理解し、完璧にトレースしようとすればするほど、自分という存在が殺され、消えていくようだった。
「あと一週間しかないのに。完成に近づくほど、苦しくなる……」
激しい疲労感に襲われ、優は再びベンチに崩れ落ちるように腰を下ろした。そしてしばらく俯いたまま、動けなくなってしまった。
「……大丈夫?」
ふいに、頭上から声が降ってきた。
「あ……律先輩」
顔を上げると、そこには律と数人の女子学生が立っていた。
「先に行ってて」と、律は友達であろう学生たちを促して先に行かせ、「隣いい?」と優の横に腰掛ける。
呆然としたまま優が「はい」と頷くと、律は自分のバッグからミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、優に差し出した。
「飲んで。まだ開けてないやつだから」
律のやさしさに素直に甘えて、優はペットボトルを受け取ると、乾ききった喉に一気に水を流し込んだ。
「ありがとうございます」
「大丈夫なの? なんだかすごくぐったりしていたけど」
「はい。ちょっと眩暈がしたので休んでいました。夏バテですかね?」
優はなんとか作り笑いを浮かべてごまかした。
その表情を見た律は、どう思っただろうか。下手くそな作り笑いだと優自身も自虐したが、今の消耗しきった頭では、これ以上のリアクションをとる余裕はなかった。
「そっか。無理しないでね。どうしたのかと思って、心配しちゃった」
「あいかわらず優しいですね、先輩は」
正直に言えば、今の優にはその優しさが少しきつかった。他人の感情に食い殺されそうになった、あの地獄に落ちたような一瞬から、まだ心が這い上がれていないのだ。
「先輩は、今日も卒論の研究ですか?」
適当な会話で取り繕うしかない。心配してくれている先輩に対してなんとも申し訳ないと思うが、これが精いっぱいだった。
「そうなの。就活は一社内定もらえたのは幸いなんだけどね。卒論と両立しないとって思うと、休んでいる暇はないかな」
「内定出たんですね。よかったです」
「第一志望ではないから、まだ終わっていないよ」
「それでも、先輩はすごいです。だから、絶対大丈夫です」
「なにそれ、もうちょっとちゃんと言語化してよ」
律はくすくすと笑った。その笑顔は、ひどくまぶしかった。前へ進んでいる彼女の姿を見て少し落ち着いたのか、優の強張りも解け、少しだけ元気が戻ってきた。優の表情の変化を察したのか、「元気出た?」と律が顔を覗き込む。
「はい。ありがとうございます」
「どういたしまして」
二人は自然と笑いあった。
そんな穏やかな空気を切り裂くように、一人の男が近付いて声をかけてきた。
「律、何してんの?」
その男はベンチに座る優を横目で見下ろし、それから律を見た。
「栄二くん。ちょっと休憩してたんだよ」
「そうか。みんなと待ち合わせの時間になっちゃうから、行くぞ」
「もうそんな時間か。わかった。じゃあまたね、優くん」
律は立ち上がり、栄二と呼ばれた男と二人で講堂の方へ向かっていった。親しげに名前を呼び合う二人の背中を見送りながら、優の胸の奥が少しだけざわつく。
ひとり残されたベンチで、優は改めて一人、冷静に自分の現実に向き合った。先輩はあんなにも眩しく前へ進んでいる。それに比べて、自分は何をしているのだろうか。 今の自分に必要なものは、もうわかっていた。
「……『ことのは』へ行こう」
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