10.獲得的自己呈示だね
そうこうしている間に、すぐに料理が提供される。二人は常に向こうのテーブルの様子を窺い、会話の隙を狙いながら食事を進めた。あちらも午後の仕事に備えて食事を優先しているためか、それ以上の深い会話はなかった。
やがて、沢村が一番最初に食べ終わった。
「沢村さんが最初に食べ終わったね。どうしてだと思う?」
スプーンを動かしながら、紬が不意に優に小声で尋ねる。
「理由があるんですか? 単に食べるのが早いだけじゃないんですか?」
「それもあるかもね。でもあの状況において、彼が急いで食べるのには、それなりの理由があるんだよ」
優は首をひねった。それなりの理由?
「答えを言っちゃうんだけど。あれは、松井さんより早く食べようとしているんだよ。それに加え、後輩の木下さんよりもね」
そう言われ、大学で心理学を学んでいる優は、ハッとある言葉を思い出した。
「そうか。松井さんより早く食べないと、自分が食べるまで上司を待たせてしまうから……過剰適応か」
過剰適応。自分のペースで味わって食べたいという欲求を抑え込み、周囲の環境や他者の都合に無理に合わせてしまう心理状態のことだ。
「正解。あのタイプは、誰よりも最初に食べ終わろうとする。性格的にね、人を待たせたくないから」
沢村は空になった丼を前に、所在なさげに外の景色を眺めていた。
「トレースするにあたって、そういう無意識の行動から性格を掴むのは、すごく大事なことだよ」
代弁屋という仕事は、まるで心理学の実践のようだ。優は改めて紬の観察眼に感心した。
「沢村、食べるの早いな。ちゃんと味わったのか?」
松井が牛丼をかき込みながら聞くが、沢村は「おいしかったです」と、当たり障りのない愛想笑いで返答していた。
その後しばらくして、全員が食べ終わる。
「よし、じゃあ現場に戻るか」
松井が声をかけ、一行は席を立つ。その様子を見ていた優がレジの方を窺うと、松井が財布を出し、若い二人の分もまとめて支払っているようだった。
三人が退店したことを確認したのち、優たちもレジへ向かう。優は慌てて自分の財布を出そうとしたが、「優くんはいいよ、経費だから」と紬が言ってくれたので、お言葉に甘えてごちそうになることにした。
「優くんの、獲得的自己呈示だね」
財布を出すポーズだけした優を見て、紬は心理学用語を使ってからかうように笑った。
牛丼屋を出て、駐車場にある自販機で冷たい缶コーヒーを買い、二人で一息つく。 「さて。この後は沢村さんは現場に戻って、松井さんは事務所に戻るっていう事だったけど、どうしようか」
午後の予定だ。まだ少し、このエリアで時間をとることができる。
優はもちろん、自分がトレースする対象である沢村をもう少し見ておいた方がいいと思った。だが、さきほどの牛丼屋での会話を聞いて、何か引っかかる違和感を覚えていた。パワハラで辞めたいと言っていたはずなのに、松井の沢村に対する態度は、厳しいがどこか面倒見の良さ、温かみのようなものを感じたのだ。
それはきっと、紬も感じていただろう。いや、むしろ彼女はその違和感の『正体』をすでに掴んでいるのかもしれない。
「紬さんは、どうしますか?」
優は探るように紬に聞く。
「私は、ちょっと行きたいところがある」
「そうですか。じゃあ俺は、沢村さんをもう少し現場で観察していきます。十五時にバス停で待ち合わせしましょうか」
二手に分かれての行動。紬が行きたいところ――おそらく松井の向かう先だろうと、優はなんとなく気づいていた。
別行動にして、あちらは紬に任せた方がいいと思ったのも事実だ。今の優がやるべきことは、松井の真意を探ることよりも、依頼主である沢村を観察し、トレースの完成度を高めることだと感じたからだ。
優の判断に、紬は満足そうにうなずき、「わかった」と言って別行動することになった。
約束の十五時まで、優は許される限り現場に残り、沢村を観察し続けた。沢村が建物の中に入ってしまうこともあったが、外で資材を運ぶなどの作業もあったことが幸いし、彼の動作の癖や、松井社長に対する態度の変化をじっくりと確認することができた。
「そろそろ時間か」
名残惜しいが、せっかくの機会だ。十分に勉強になったと思う。今日の観察結果は、自分のトレースに必ず活かせる。そう確信して優は現場を後にし、待ち合わせのバス停へと向かった。
バス停が見えてくると、すでにそこに紬の姿があった。もう着いていたのか。優は慌てて駆け足になる。
「お待たせしてすみません」
「ううん。待ってないよ。バスが来るまでにまだ時間もあるから」
「ありがとうございます。……そちらはどうでしたか?」
優は気になっていた。松井の真意、沢村との関係。それが自分が受け持つ初めての代弁の、最大のターニングポイントになると確信している。
「ちょっと見てきたんだけどね。まだ、絶対こうだとは言えない。だけど……それに関しては、私に任せてほしいかな」
紬は少しうつむきながら、何か重要なピースを頭の中で組み立てるように考え込んでいた。
「そうですか、わかりました。自分に何か手伝えることがあれば言ってくださいね」
その言葉に、紬はふっと目線を上げ、まっすぐ優を見た。
「そうじゃないでしょ。優くんは、沢村さんのトレースをしっかり完成させることが一番大事なんだよ」
はっとした。その通りだった。役に立ちたい一心で口走ってしまったが、まずは自分が与えられた役割を完璧にこなさなければ、この代弁は成功しない。紬が掴みかけている何かを活かすためにも、俺がブレてはいけないのだ。これは間違いないと優は肝に銘じた。
「さぁ、バスが来たよ。今日は帰ろうか」
二人はバスに乗り込んで帰路につく。夏の暑さの中、久々に長時間気を張って歩いたからか、乗り継いだ電車で優は泥のように眠りそうになってしまったが、たった二駅なので寝過ごさないよう必死に目を開けていた。
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