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ベイリー家に戻ると、私は真っ先に母へ状況報告をしたけれど、セツがベイリー家に予め使い魔を向かわせ文を届けてくれていた事もあり、母は既に今回の出来事の全体像を把握していた。母はセツからの文を受け取るなり、すぐに帝国騎士団へ緊急要請を出してくれたようで、そのおかげで帝国騎士団も迅速に駆けつけてくれていた。
魔術式を父と兄に伝えるだけだと話をしていた母には、当然ながら酷く心配をかけ、危うく窒息しかけるほどに強く抱き締められた。母には心配をかけてばかりで胸が痛むけれど、でも、今回の選択に後悔はない。また同じ状況になったとしてもきっと私は同じ事をする。
ベイリー家に到着し、母への状況報告を終える頃には空が白み始めていた。時間があっという間に過ぎていく。その頃にはベイリー家の私兵団が屋敷に戻って来ており、父と兄が無事帝国騎士団に保護され、安静にしているとの報告が入った。ニチカも容態は安定しているようだ。
残務のため執務室から離れられない母を残した後、私はそのままリベラが休んでいる客室まで足を運んだ。早朝に会うのは躊躇われたけれど、母への状況報告の際にリベラが一睡もしていない事を聞いて、少しでも早く安心させてあげたいと思った。母からは護衛を傍につけるのならばと条件付きで面会を許可された。
彼女が魔術式を完成させてくれたおかげで父と兄が救われた。魔術式が完成していなければ、今頃どうなっていただろう。考えたくもない。
客室を訪れるとリベラはやはり起きていた。先触れを出していたのもあり、リベラはソファに座って私の到着を待っていた。
「ニチカの治療が終わったと伺いました」
着席するなり不安そうな顔をしたリベラが私に尋ねる。
「はい。ニチカ様の治療が終わりまして、体内にいた魔物の討伐も完了しました。まだ安静にする必要はありますが、ニチカ様は無事です」
「よかった! 本当に……よかった、あぁ」
リベラはくしゃりと顔を歪め、祈るように胸を抑える。何度もよかった、よかったと繰り返し呟く。その姿を見ていると胸の奥がじわりと熱を持つ。彼女の大切な人を守る事ができて本当によかった。リベラに対しては形容し難い感情があるけれど、苦しんで欲しいわけではなかった。彼女もまた被害者なのだから。
「ニチカは今どこにいるのですか? どうしているのですか?」
「今はスローパー公爵邸におり、帝国騎士団に保護されていると報告を受けております。回復のために眠り続けていると」
「帝国騎士団が? これはまたどうして? イベルト様とイファデール様が向かわれたと思っておりましたが……」
リベラが再び心配そうにこちらを見る。リベラの言うように、今回は本来であれば帝国騎士団の介入は必要なかった。皇帝は父と兄にニチカの治療にあたるよう命を出していたのだから。
「魔物の力が想定外に強く、父と兄では対処できない場面があったようです。なので、救援要請のため帝国騎士団が出動する運びとなりました。ただ、リベラ様にご協力いただいて完成した『攻撃内包型・代替免疫操作術』の魔術式をベイリー家の私兵団に預け、父と兄に伝えてもらいました。結果的にそれがうまくいき、治療を無事終えたようです」
「え……あの魔法が」
「ええ。リベラ様の協力によりニチカ様が救われたのです。魔法の完成にご協力いただきありがとうございました」
リベラがあんぐりと口を開けたまま私を見つめている。信じられないといった様子で目を見開いている。
「え、でも、どうやって。距離が近いとはいえ、ここからスローパー公爵邸まで数刻かかるはずです。夜に早馬を出したと考えれば或いは可能ですが……しかし、魔術式を理解していなければ扱うのが難しいはず」
「ご推察の通り、信頼できる者に魔術式を預け、早馬を出しました。父と兄は『代替免疫操作術』の開発に関わっていましたし、リベラ様の魔術式も非常に分かりやすいものでしたから。あの魔術式がなければ父と兄も無事ではいられなかったかもしれません。改めまして、この度はありがとうございました」
感謝の念で頭を下げる。セツの存在を明らかにするわけにはいかないため、詳細を伝える事はできないけれど、礼は伝えたかった。頭を上げるとリベラは何とも言えない表情をしていた。私に何か言いたげな様子があったけれど、そこは知らないふりだ。そのまま彼女に笑いかけると、リベラはこれまた困ったように眉を顰めた。
問い詰めたがっているリベラと知らないふりをする私。しばらく無言で見つめ合っていたけれど、仕方ないと言った様子でリベラが表情を崩した。
「感謝の言葉を言うべきなのは私の方です。アルデルファ様に危害を与えたのにも関わらず、連れ去られた私を救っていただきました。それに、ニチカを救う手立てを共に考える機会をいただけ、最後にニチカを救ってくださいました。ベイリー家の皆様——特にアルデルファ様にどう感謝を申し上げればいいか言葉が見つからないほどです。ですが、このリベラ・スローパー、アルデルファ様に心からの感謝申し上げます。誠にありがとうございました」
リベラは立ち上がり足を折ると、私に対して帝国式の最上位の礼をとった。
窓から差し込む朝日がリベラを照らしている。すっと背筋を伸ばし、凛とした姿が美しく、まさしくその姿はスローパー家の次期当主としての威厳があった。私を真っ直ぐ見つめるリベラの碧眼は、物の怪の世界の影響を受けて以前よりも色を失っていたけれど、でも、希望で光り輝いているように見えた。
もうあの悪夢のような幻はきっとリベラからは生まれない。そう確信できる強さが彼女から溢れ出ていた。
◇◆◇
金の装飾が施された赤漆喰の壁に、漆が塗られた黒檀の床。贅を尽くした一室に男が一人、文机に向かっている。文机に置かれた蝋燭の灯を頼りに男は筆を進めており、巻物の上を筆が這う音だけが静けさの中で響いていた。
男はしばらくそうしていたが、ふと筆を止める。顔を上げると、ゆっくりと振り返った。
「ムギ、おかえり」
その男の言葉と共に室内に風が吹く。窓のない暗い部屋の中。風が巻き起こる不自然さをものともせず、男は黒い瞳を何もない空間に向け続ける。
男の視線の先の空間がぐらりと歪み、虚空から細長い蛇——否、龍が現れる。細長く突き出た顔には灰白色の髭が生え、ぎょろりとした金色の瞳を男に向けている。長い身体は群青色の鱗に覆われ、蝋燭の光に照らされ宝石のように輝いていた。ムギと呼ばれた龍は男の前に現れると首を垂れて男に敬意を示す。
「ただいま戻りました、ソウマ様」
「お疲れ様。一通り片付いたんだよね?」
「ええ。後処理は使い魔に任せております」
ムギが頭を下げた男——ソウマがムギの頭を撫でると、ムギは幸福そうに目を細める。その様子を見てソウマは初めて安心したように顔を崩す。
「ルーファは無事だよね?」
「はい。スローパー公爵邸に向かわれた際は肝が冷えましたが、無事ニチカの治療を終えると、ベイリー公爵邸に戻られています」
「よかった。体調も問題なさそう?」
「かなり魔力を消費されていますが、十分な休養を取れば回復するかと」
ソウマはその言葉を聞くと安堵したように目の前のムギに顔を埋めた。ムギの顔を抱き締めるその身体はほんの僅かに震えている。
「でも、ルーファが屋敷を離れていてよかったのかもしれない。あのまま屋敷にいれば敵の存在に気づいて動かれてしまう可能性があった」
「そうですね。結果として良かったのかもしれません」
「ルーファは心を割いてしまうから。リベラの件も、ニチカの件も……ルーファが気に病む必要なんてないのに。でも、そういった面が愛しいと思うのだから困ってしまうよ」
ムギから身を離しながら困ったようにソウマが笑う。困ると言いながらもその声は誇らしげで、表情も幸福そうだった。ただ、それも一瞬の事であり、ソウマはすぐに視線を落とす。
「それで、ベイリー公爵邸周辺に身を潜めていた集団の素性は今の所分かってる?」
「捕縛したばかりで尋問はこれからです。ただ、今の所はルビナール商会の名を騙った別の組織である可能性があります。イヅル人が数名紛れていますので、反帝国派が背後にいるかもしれません」
「反帝国派……馬鹿馬鹿しい」
ソウマは吐き捨てるようにそう言うと、自分の怒りを何とか抑えようと拳を握る。それでも落ち着かなかったのか、自分の髪を荒々しく掻き毟った。
「僕が尋問する。イヅル国まで連れてきてほしい」
「畏まりました。ただ、良いのですか? 帝に目をつけられているのではないのですか?」
「これくらいは何とかできるから大丈夫。用が済んだら帝国騎士団にでも身柄を引き渡しておくよ。にしても、僕が一度転移したくらいで騒ぎ立てるこの国はおかしいよ。僕はレイ帝国の貴族だ。イヅル国を出て何が悪い」
ソウマは呆れたように目を回す。
実のところ、ソウマはルーファを助けるため、一度転移で出国しているが、それがイヅル国内の宮廷秘術師に悟られ、咎められていた。物の怪の世界に用があったと誤魔化し、難を逃れているものの、ソウマへの監視の目は厳しくなっている。
ソウマの言うようにソウマはレイ帝国の貴族であるからして、このように出国する事を咎められる道理はないのだが、3年間行方不明であった来賓を保護しているという名目でソウマは軟禁に近い扱いを受けていた。一定の自由はあるものの、帝専属の宮廷秘術師の監視がついている状態だ。
「でも、うまくやるよ。この国である程度功績を残して、それなりに人脈が作れたらレイ帝国に帰る。両親を追い出して、ムスビ家の当主になったらルーファを妻に迎える。今はそのための準備期間だ」
先ほどまでげんなりしていたソウマは、気持ちを持ち直したのか明るい表情でムギに向き直る。生き生きとした様子にムギは安堵する。
「ソウマ様はルーファ様の事を深く愛しておられるのですね」
「愛しているじゃ足りないくらいだよ」
ソウマは迷いなくはっきりとルーファへの愛を口にする。その様子をムギは目を細めて感じ入る。髭を垂らし、今聞いた言葉を心に刻むかのようにしっかりと目を閉じる。ソウマはムギの様子に不思議に思うも、次の仕事まであまり時間が残されていない事を思い出す。
「そろそろ仕事に戻るよ。ムギも尋問の準備を頼む。ルーファを守る使い魔達の指示も引き続きお願いしたい。僕が前に出た方がいい場合は遠慮なく連絡するように言って。必ず対応する」
「畏まりました。あと、ソウマ様」
「ん? どうした?」
文机に向かおうとしたソウマは不意に呼び止められ、振り返る。ムギがこの上なく優しく顔を崩してソウマを見つめていた。
「私はお二人の事を必ずお守りいたしますからね。この命に誓って必ず」




