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『幼馴染じゃ足りないって、先に言ってよ』 朝霧律 × 星野灯真 #2

##2


****


灯真は、雄女化の申請をした。

怖くなかったと言えば嘘になる。


身体が変わることも、体力が落ちるかもしれないことも、発情期が来るようになることも、専門医から聞いた説明はどれも現実的だった。


でも、それ以上に思い浮かぶものがあった。


律と同じ家で目を覚ます朝。

律が作った朝ごはんの匂い。


「起きろ、灯真」と、昔から変わらない声で呼ばれる未来。

特別な何かになりたかったわけじゃない。


律のいる日常を、これからも続けたかった。

ただ、その日常に“家族”という名前をつけたかった。


****


専門医の説明室で、律はずっとメモを取っていた。


術後の体力変化。

発情期の過ごし方。

定期検診の時期。


医師が一つ説明するたび、律のペンが動く。

灯真は隣で、少しだけ笑った。


「律、メモ取りすぎ」

「必要だろ」


「俺より真剣じゃん」

「灯真が自分で真剣に管理できると思ってない」


「信用ゼロ!」

「朝、自力で起きられるようになってから言え」


「それは一生無理かも」

「じゃあ一生起こす」


さらっと言われて、灯真の胸が跳ねた。

医師の前なのに、顔が熱くなる。


律は何でもない顔で、さらにメモを取っている。

こういうところが、昔からずるかった。


****


処置後の朝。

灯真は、病院のベッドの上でぼんやり目を開けた。


身体が重い。

眠い。


いつも以上に起きられる気がしない。


「……無理」


小さく呟いた瞬間、カーテンの向こうから声がした。


「知ってる」


律だった。


いつもの声。

小学生の頃、寝坊した灯真を迎えに来た時と同じ声。


灯真は、泣きそうになるくらい安心した。


「律……」


「起きられるか」

「無理」


「だろうな」

「そこは励ませよ」


「じゃあ、ゆっくりでいい」


律はベッド脇に座り、水の入ったコップを差し出した。


「まず一口」

「病院でも管理されてる……」


「これからもする」

「重い」


「今さら」


灯真は、弱った身体で笑った。


変わったかどうかより先に、律がいつも通りそこにいる。

それだけで、怖さが少し薄れた。


****


律は、灯真の顔をじっと見た。

灯真は少し身構える。


「……何」

「顔色は悪くない」


「第一声それ?」

「目は少し潤んでる。熱は?」


「医者かよ」

「灯真係」


「何その係」


律は、当たり前みたいに灯真の額へ手を当てた。

その手が、昔と同じ温度だった。


「律」

「ん」


「俺、いつも通りに見える?」


律の手が止まる。

それから、少しだけ眉を寄せた。


「変わったところはある」


灯真の胸が跳ねる。


「でも、灯真だ」


律は静かに言った。


「朝起きられないところも、すぐ腹を空かせるところも、俺がいないと無理するところも、何も変わってない」


「そこ褒めてる?」

「全部、俺がこれからも起こす灯真だと言ってる」


灯真は、何も言えなくなった。

律は、いつもそうだ。


甘い言葉を言うつもりなんてない顔で、灯真の一番弱いところを真っ直ぐ温めてくる。


「……俺、そんなに変わってない?」

「変わったところはある」


「でも、変わったから別の誰かになったわけじゃない」


律の指が、灯真の手に触れる。


「俺が知ってる灯真のまま」


その言葉で、ようやく息ができた。


****


術後しばらく、灯真は以前より疲れやすくなった。


階段を上っただけで息が上がる日もある。

急に身体が熱くなって、ぼんやりする時間もあった。


「律、俺、弱くなった?」


灯真が不安そうに言うと、律は淡々と答えた。


「生活の組み方が変わっただけ」

「そういう言い方、律っぽい」


「朝は早めに起こす。昼はちゃんと食べる。夜は寝る。無理に動く日は減らす」

「俺の生活、完全に律の管理下じゃん」


「前からだろ」

「否定できないのが悔しい」


律は、灯真の手を取った。


「弱くなったんじゃない」


低い声だった。


「俺が一緒に調整することが増えただけ」


灯真の胸が熱くなる。


「……じゃあ、頼っていい?」

「最初からそのつもり」


「律ってさ」

「何」


「たまに、すげぇプロポーズみたいなことを普通に言うよな」


律は少し考えた。


「普通に言ってるつもりはない」

「え」


「灯真には、ちゃんと伝えたいと思ってる」


灯真は顔を覆った。


「……そういうの、ほんと無理」


「具合悪い?」

「違う。照れてる」


「そう」


律が少しだけ笑った。


「じゃあ、休憩」


「照れにも休憩いるの?」

「灯真にはいる」


「過保護!」


そう言いながら、灯真は律の肩に寄りかかった。


少し疲れていた。

けれど、怖くはなかった。


自分の身体の変化を、律が一緒に覚えようとしてくれている。

そのことが、何より心強かった。


****


退院してから、律は本当に生活の組み方を変えた。


朝は、以前より少し早く灯真を起こす。

ただし、急には起こさない。


カーテンを少しだけ開けて、部屋に光を入れてから、灯真の名前を呼ぶ。


「灯真」

「んー……」


「起きろ」

「あと五分……」


「三分」

「減った……」


「その代わり、朝ごはんは卵サンド」


灯真は薄目を開けた。


「……起きる」


律は少しだけ口元を緩めた。


「知ってた」


「俺、食べ物で動く人間だと思われてる?」

「違うのか」


「違わないけど!」


律の作る朝ごはんの匂い。


カーテンから入る朝の光。

眠い身体を起こす、昔から変わらない声。


灯真は、こういう毎日を続けたかったのだ。


特別な奇跡ではなく。

律がいて、自分がいて、朝ごはんがある。


その積み重ねに、家族という名前をつけたかった。


****


昼。

大学の中庭で、灯真はベンチに座っていた。


少し歩きすぎて、足がだるい。

以前なら、平気な顔で無理をしていたかもしれない。


でも今は、律に言われた言葉が頭に残っている。

生活の組み方が変わっただけ。


弱くなったんじゃない。

俺が一緒に調整することが増えただけ。


「……調整、ね」


灯真が呟いた時、律がやってきた。

手にはペットボトルと、小さな紙袋。


「やっぱりここにいた」


「何で分かるの」

「灯真は疲れると、日陰のベンチに座る」


「俺の生態に詳しすぎない?」

「幼馴染だから」


律は隣に座り、紙袋を渡した。

中には、温かい惣菜パンが入っていた。


「食べろ」

「律、俺を太らせる気?」


「体力落ちる方が困る」

「真面目」


「あと、灯真は空腹だと機嫌が悪い」

「そこまで詳しくなくていい!」


文句を言いながら、灯真はパンを受け取る。

一口食べると、身体が少しだけ楽になった。


「……うま」

「よかった」


律は、それだけ言って水を渡す。


過剰に心配しない。

でも、ちゃんと見ている。


昔から、律の優しさはそういう形だった。


灯真が自分で歩けるように、少し先で待っている。

倒れそうになったら、すぐに手を伸ばす。


その距離感が、どうしようもなく好きだった。


****


夕方。

灯真は、律と一緒に新居候補の資料を見ていた。


律は、雄女化後の灯真の生活を想像するのが早かった。


朝、起きやすい部屋。

体調が悪い日にすぐ横になれる距離。


台所から灯真の声が届くリビング。

駅からの帰り道に、無理なく歩ける距離。


恋人の家を探しているというより、灯真が毎日ちゃんと帰ってこられる朝を探しているみたいだった。


「律」

「何」


「家探しって、もっとわくわくするものじゃないの?」

「してる」


「すごい真顔だけど」

「真剣にわくわくしてる」


「それはもう真剣なんだよ」


律は間取り図に視線を落としたまま、ペンで印をつける。


「この部屋、寝室に朝日が入りすぎない」

「俺が起きやすいから?」


「起きやすくなるとは思ってない」

「信頼がない」


「眩しすぎると機嫌が悪くなるから」

「生態観察が怖い!」


律は次の間取り図を見る。


「ここはキッチンが近い」


「何に?」

「リビングに」


「普通では?」

「灯真がソファで寝落ちしても、起こしやすい」


「俺、どんだけ寝る前提なの」

「寝るだろ」


「寝るけど!」


律は少しだけ笑った。

灯真もつられて笑う。


家を探しているのに、話しているのは、ほとんど灯真の生活のことだった。


でも、それが嫌ではなかった。

律が自分を縛るために考えているわけではないと分かるから。


灯真が、これからも灯真らしく笑って、食べて、寝て、起きられるように考えている。

そのことが分かるから。


****


「ここはどう?」


灯真が一つの間取り図を指差した。

律が見る。


「駅から少し歩く」


「でも、途中にパン屋ある」

「灯真基準だな」


「大事だろ。朝、焼きたての匂いがしたら起きられるかもしれない」

「それは少し信頼できる」


「俺じゃなくてパンに?」

「パンに」


「ひどい!」


灯真が笑うと、律も小さく笑った。

その笑い方を見ると、灯真は胸が温かくなる。


律は大きく感情を出さない。

でも、ちゃんと楽しんでいる。


ちゃんと、二人で暮らすことを考えている。


「あと、この部屋なら」


灯真は少し照れながら続けた。


「キッチンから、リビング見える」

「うん」


「律がご飯作ってる時、俺がソファでゲームしてても話せる」


「手伝う気は?」

「ある。たまには」


「たまには」

「……多めに」


律がこちらを見る。

灯真は顔を赤くした。


「俺もさ」

「うん」


「律に作ってもらうだけじゃなくて、一緒に作りたい」


律の目が少しだけ揺れた。


「そう」


「そういう反応薄いのやめろ」

「嬉しい」


「もっと顔に出せ!」


律は少し考えてから、灯真の手に触れた。


「かなり嬉しい」


その一言で、灯真の顔が熱くなる。


「……顔に出さないで言葉だけ強いの、ずるい」


「そうか」

「そうだよ」


灯真は文句を言いながらも、律の手を握り返した。


新しい家。

新しい生活。


でも、そこにあるのは、昔から変わらない二人の距離だった。


****


同居準備は、少しずつ進んだ。

食器を選ぶ時も、律は灯真の生活導線を考えていた。


「軽い皿にする」


「何で」

「灯真が眠い朝に落としにくい」


「俺、そんなに信用ない?」

「ある」


「どこに?」

「食べることへの執着」


「褒めてないだろ!」

「でも大事だろ」


「大事だけど!」


寝具を見に行った時も、律は真剣だった。


「柔らかすぎるベッドは駄目」


「何で」

「灯真が起きない」


「ベッドのせいにするな」

「半分くらいはベッドのせい」


「残り半分は?」

「灯真」


「俺じゃん!」


そんなふうに言い合いながら、二人は生活を少しずつ形にしていった。


雄女化したから、急に別人のような未来が始まるわけではない。

ただ、今まで当たり前だったものが、少しずつ正式になっていく。


朝起こしてもらうこと。

一緒にご飯を食べること。


疲れたら休むこと。

同じ家へ帰ること。


それらすべてに、夫夫という名前がついていく。

灯真は、そのたびに少しだけ照れて、少しだけ嬉しくなった。


****


ある夜。

灯真は、律の部屋でソファに沈んでいた。

同居前なのに、すでに半分住んでいるようなものだった。


テーブルには、律が作った野菜スープ。

膝にはブランケット。


横には律。


「……俺、完全に甘やかされてない?」


「今さら?」

「今さらって言うな」


「体調は?」

「大丈夫」


律はじっと灯真を見る。

灯真は慌てて背筋を伸ばした。


「ほんとに大丈夫!」

「ならいい」


「疑い深い」

「灯真が平気なふりをするから」


灯真は少し黙った。


昔からそうだった。

明るくしていれば、だいたいのことは誤魔化せると思っていた。


でも、律には通じない。


「……律」

「何」


「俺、ちゃんと家族になれるかな」


律は顔を上げた。

灯真はブランケットを握る。


「幼馴染は、得意なんだよ。ずっとやってきたから」

「うん」


「恋人も、まあ、最近ちょっと慣れてきた」

「うん」


「でも、家族ってなると、急にちゃんとしなきゃって思う」


律は少し黙った。

それから、灯真の隣に座り直す。


「ちゃんとしなくていい」

「え」


「灯真は、朝起きられないし、腹が減ると機嫌が悪いし、眠いと俺の肩に寄りかかる」

「すごい言われよう」


「でも、それでいい」


律の声は静かだった。


「それを毎日見るのが、家族になるってことだと思ってる」


灯真の胸が熱くなる。


「……律」

「何」


「それ、プロポーズっぽい」

「そうか」


「否定しないの?」


律は灯真を見た。


「否定する理由がない」


灯真は、顔を真っ赤にしてブランケットへ沈んだ。


「もう無理」


「具合悪い?」

「照れてる!」


「じゃあ、水はいらないか」

「いる」


律は少し笑って、水を取りに立った。


その背中を見ながら、灯真は思う。

自分が欲しかったのは、劇的な変化ではない。


律とこんなふうに暮らすことだ。


起こされて、食べて、笑って、照れて、たまに不安になって。

そのたびに律が、いつも通り隣にいることだ。


****


数日後。

二人は婚姻手続きの説明を聞きに行った。

書類には、現実的な言葉が並んでいた。


氏名。

住所。

同居予定。

家族登録。


灯真は、少しだけ緊張していた。


「灯真」


隣で律が呼ぶ。


「何」


「手、冷たい」

「緊張してるだけ」


「うん」


律が、机の下でそっと手を握る。


「大丈夫」


その言葉に、灯真は笑いそうになった。

何回、律にそう言われてきただろう。


小学生の発表会。

中学の試験。

高校の体育祭。


そして今。

夫夫になるための手続きの席。


いつだって、律の“大丈夫”は同じ温度だった。


「……律」

「ん」


「俺、やっぱり律のいる日常が好きだ」


律の手に、少しだけ力がこもる。

灯真は続けた。


「雄女化したのも、家族になりたいのも、特別な誰かになりたかったからじゃない」


声が少し震える。


「律と、いつもの明日を続けたかったから」


律はしばらく黙っていた。

それから、静かに言った。


「俺も」


たった二文字。

でも、それだけで灯真には十分だった。


****


帰り道。

夕方の風が、少し冷たかった。


灯真がくしゃみをすると、律がすぐに上着を掛けた。


「早い」

「寒そうだった」


「俺、何も言ってない」

「見れば分かる」


「律ってほんと、俺係だな」

「そう言っただろ」


「じゃあ俺も律係になる」


律が少しだけ目を丸くする。

灯真は得意げに笑った。


「律が無理してないか見る係」


「俺は無理しない」

「嘘。俺のことになるとする」


律は黙った。

灯真は、律の手を握る。


「俺ばっか管理されるの悔しいし」


「張り合うところか?」

「張り合うところ」


律は少しだけ笑った。


「じゃあ頼む」


灯真の胸が弾んだ。


頼まれた。

律に。


いつも支えられてばかりだと思っていたけれど、きっと自分にもできることはある。

律が一人で抱えようとしたら、隣で文句を言う。


律が疲れていたら、ご飯を作る。

たとえ焦がしても、一緒に笑って食べる。


そうやって、二人で家族になっていく。


「律」

「何」


「明日の朝、起こして」

「もう予約か」


「うん」


律は、いつもの温度で答えた。


「分かった」


灯真は笑った。


「朝ごはんは?」

「卵サンド」


「やった」


「その代わり、起きろ」

「努力する」


「そこは約束しろ」

「……起きる」


律が少しだけ笑う。

灯真も笑った。


特別な何かに変わったわけじゃない。


ただ、明日の朝も律がいる。

その明日を、これから何度も積み重ねていく。


灯真にとって、それが一番幸せな未来だった。

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