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『甘やかして育てた後輩に、逆に甘やかされています』 霧生朔也 × 綾瀬楓 #1

##1


霧生朔也きりゅう・さくや は、昔から綾瀬楓あやせ・かえで が好きだった。


最初から。

ずっと。


けれど、楓はそれに気づかない。

いや、気づかないふりをしているのかもしれない。


楓は、誰にでも優しかった。

困っている後輩を放っておけない。


課題に詰まっている同級生がいれば、夜遅くまで付き合う。

体調の悪い奴がいれば、飲み物を買ってきて、背中をさすって、家まで送る。


そういう人だった。

だから朔也は、楓が好きだった。


そして、その優しさが嫌いだった。


****


大学のラウンジ。

綾瀬楓は、机へ突っ伏していた。


柔らかい茶髪。

眠そうな目。


面倒見がよくて、頼まれると断れない性格。

そのせいで、いつも誰かの世話を焼いている。


「楓先輩、また寝不足ですか」


朔也が、温かい缶コーヒーを机に置いた。

楓は顔だけ上げる。


「……後輩の課題見てた」

「俺以外の?」


「そこ引っかかる?」

「引っかかります」


朔也は楓の向かいへ座った。

楓は缶コーヒーを手に取り、少しだけ笑う。


「ありがと、朔也」


その笑顔だけで、朔也の心臓は簡単に壊れる。

けれど、顔には出さない。


出したら負けだ。


「先輩、俺にも課題教えてください」


「お前、昨日終わったって言ってただろ」

「忘れました」


「嘘が雑」

「先輩に構ってほしかったので」


楓が呆れた顔をする。


「お前、そういうこと平気で言うよな」

「平気じゃないですよ」


「嘘つけ」


朔也は少しだけ笑った。

楓は知らない。


朔也が、どれだけ平気じゃない顔を隠しているか。


****


楓は、朔也をよく甘やかした。


「朔也、お前また単位危なかったんだって?」

「先輩が助けてくれるんで」


「甘えんな」


そう言いながら、楓は結局レポートを見る。

赤ペンで直し、参考文献を示し、提出期限まで確認する。


「ここ、論点ずれてる」

「先輩、厳しい」


「落としたくないなら直せ」

「優しい」


「厳しいって言った直後に?」


朔也は、そういう楓が好きだった。


甘いだけじゃない。

誰かのために怒れる。


駄目なものは駄目と言える。

でも最後には、必ず手を貸してくれる。


「楓先輩」

「ん?」


「俺のこと好きなんですか」


楓は赤ペンを止めた。


「後輩としてな」

「残念」


「残念がるな」


楓は朔也の額を軽く小突く。


「お前、俺にだけ距離近くない?」

「気のせいです」


嘘だった。


楓にだけ近い。

楓にだけ甘える。


楓にだけ、わざと困らせるようなことを言う。

楓が自分を放っておけないと分かっているから。


ずるい自覚はあった。

でも、楓の視線がほしかった。


****


楓は、誰にでも優しい。

それが朔也の胸を何度もざらつかせた。


「綾瀬先輩、これ見てもらってもいいですか?」

「いいよ」


「ほんと助かります!」


後輩の男子が、楓の隣へ座る。

距離が近い。


楓は気にしていない。

自然に笑う。


その瞬間、朔也の中で何かが冷えた。


「……楓先輩」


楓が振り返る。


「朔也?」

「先輩、無防備すぎません?」


声が低かった。

楓が瞬く。


「は?」

「誰にでも距離近いし」


「普通だろ」

「普通じゃない」


朔也は楓へ近づく。

後輩が気まずそうに席を立った。


楓は眉を寄せる。


「何怒ってんの」

「嫉妬です」


真顔だった。

楓の顔が、少しだけ赤くなる。


「……さらっと言うな」

「ずっと言わないで我慢してたので」


「それはそれで重い」

「先輩が誰にでも優しいからです」


楓は言葉に詰まった。

朔也は続ける。


「俺だけ見てほしいって思うくらいには、ずっと重いですよ」


楓の心臓が跳ねる。

今まで、朔也の言葉を冗談にして逃がしていた。


でも、今の声は冗談じゃない。

それが分かってしまった。


****


飲み会の日。


楓は酔った。

もともと強くないのに、後輩たちに勧められて少しだけ飲みすぎた。


「楓先輩、大丈夫ですか?」

「んー……大丈夫……」


全然大丈夫ではない。

頬は赤い。


目はとろんとしている。

声もいつもより少し柔らかい。


周囲の後輩たちがざわついた。


「綾瀬先輩、酔うと可愛いんですね」


その瞬間、朔也の目が冷えた。


「見ないでください」


笑っている。

でも、目が笑っていない。


空気が止まる。

楓はぼんやり顔を上げた。


「朔也ぁ」

「はい、楓先輩」


「眠い……」

「帰りますよ」


朔也は楓の荷物をまとめ、立ち上がらせる。

楓が素直に寄りかかった瞬間、朔也の理性が削れた。


軽い。

温かい。

近い。


楓は、こういう無防備さを誰にでも見せてしまう。

それが嫌だった。


「先輩」

「んー?」


「今の顔、他の人に見せないでください」

「何の顔?」


「俺が困る顔です」


楓は酔ったまま、ふにゃりと笑った。


「朔也、変なの」


その笑顔を見て、朔也は思った。

本当に、この人はずるい。


****


楓の部屋。


「水」


朔也はペットボトルを渡した。

楓はソファに座り、両手でそれを受け取る。


「……ありがと」

「飲んでください」


「朔也、世話焼きになったな」

「先輩に育てられたので」


楓が苦笑する。


「育てた覚えはない」

「ありますよ」


朔也は楓の前に膝をつく。


「レポート見て、飯食わせて、風邪引いたら看病して」

「それは後輩だから」


「俺は、後輩で済ませたくないです」


楓の手が止まる。

酔いが少しだけ覚めた。


「……朔也」


「好きな人がいます」


楓は瞬く。


「相談なら明日にしろ」

「先輩です」


空気が止まった。

楓は、まるで言葉を理解するのに時間がかかっているような顔をした。


「……俺?」

「はい」


「先輩後輩だぞ」

「知ってます」


「男同士だし」

「知ってます」


「俺の方が年上だし」

「全部知ってて好きです」


逃げ道を塞ぐみたいな声だった。

でも、乱暴ではない。


真っ直ぐすぎて、逃げられない声だった。

楓の胸が熱くなる。


「……ずる」

「はい」


「そんな真っ直ぐ来られたら、逃げられない」


朔也は少し笑った。

けれど、その顔は苦しそうだった。


「逃げてほしくないです」


楓は息を呑む。

朔也の手が、楓の手に触れる。


「先輩、誰にでも優しいから嫌でした」

「……」


「俺だけ見てほしかった」


その声が、胸に深く刺さった。


楓は、朔也を後輩として可愛がってきた。

甘えてくる生意気な後輩。


少し危うくて、放っておけない年下。

そう思っていた。


でも、違った。

朔也は、ずっと一人の男として、自分を見ていた。


「朔也」

「はい」


「俺、たぶんお前を甘やかしすぎた」

「知ってます」


「なのに、今さら男の顔するな」

「無理です」


朔也は、楓の手を握った。


「もう、後輩だけでいるのは無理です」


楓は目を閉じる。

胸が苦しい。


でも、嫌ではない。


「……俺も」


声が震えた。


「お前が他の誰かに甘えたら、嫌かもしれない」


朔也の目が揺れる。

楓は視線を逸らした。


「まだ、好きって言い切るのは怖い」

「はい」


「でも、後輩としてだけ見るのも、もう無理だ」


その瞬間、朔也の表情が崩れた。


嬉しそうで、泣きそうで。

年下のくせに、ずっと大人びた顔をしていた男が、初めて本当に年下らしく見えた。


「楓先輩」

「何」


「待ちます」


楓は目を見開く。

朔也は、握った手を離さない。


「先輩が俺を恋人として見られるまで、待ちます」


楓の胸が熱くなる。


「……ずるい後輩だな」

「先輩が甘やかしたので」


「それ、便利に使うな」


楓は少し笑った。

その笑顔を見て、朔也もようやく笑った。


****


それから二人の距離は、少しずつ変わった。

楓は相変わらず世話焼きだった。


「朔也、飯食った?」

「まだです」


「食え」

「先輩が作ってくれるなら」


「甘えんな」


そう言いながら、楓は結局キッチンに立つ。

朔也はその背中を見ている。


昔なら、ただ甘えていた。

でも今は違う。


楓が疲れている時は、朔也が皿を洗う。

楓が眠そうにしていれば、ブランケットをかける。


楓が無理をして誰かの相談に乗ろうとすれば、横から止める。


「先輩、今日はもう休んでください」

「まだ大丈夫」


「大丈夫な人は、さっきから同じ資料三回読んでません」

「……見てたのか」


「先輩のことは、見てます」


楓の顔が赤くなる。


「そういうことをさらっと言うな」

「さらっとじゃないです」


朔也は、楓の手から資料を取った。


「俺も、先輩を支えたいんです」


楓は黙った。


いつの間にか、朔也はただの後輩ではなくなっていた。

甘えてくるだけの年下ではない。


楓が倒れる前に気づく。

楓が笑って誤魔化す前に、踏み込んでくる。


そんな男になっていた。



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