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『記憶をなくしても、お前だけは忘れなかった』 九条瑛一 × 桜庭湊 #2

##2

****


成人して、湊は雄女化の申請をした。

迷わなかったわけではない。


身体が変わることも、術後の体調管理が必要になることも、怖くなかったと言えば嘘になる。

でも、一番怖かったのは、変わることではなかった。


瑛一の記憶が戻る日を、ただ待ち続ける自分になることだった。

瑛一が思い出すまで、幼馴染の顔をして隣にいる。


瑛一が選んでくれるまで、自分の未来を止めておく。

そんなふうには、もうしたくなかった。


湊は、瑛一の記憶を急かしたいわけではない。

けれど、自分の人生まで事故の日に置いていくつもりもなかった。


過去の瑛一に選ばれたいだけじゃない。

今の瑛一と、これからの自分で、ちゃんと未来へ進みたかった。


だから、選んだ。

待つためではなく、進むために。


****


処置後。

湊は、病院の更衣室で鏡の前に立っていた。


以前より少し柔らかくなった輪郭。

わずかに変わった声。

きめ細かくなった肌。


けれど、そこに映っているのは、知らない誰かではなかった。


桜庭湊。


瑛一の幼馴染で。

瑛一をずっと好きで。

瑛一に「誰」と言われた日からも、隣に残った男。


「……瑛一、分かるかな」


その呟きには、二つの意味があった。

今の自分を見て、瑛一がどう思うのか。


そして、もう一つ。

記憶の中にいるはずの自分と、今ここにいる自分が違ってしまった時、瑛一はどちらを見るのだろう。


過去の湊を探すのか。

今の湊を見てくれるのか。


湊は、思い出してほしかった。

でも、過去だけを見てほしいわけじゃなかった。


今ここにいる自分を、ちゃんと見てほしかった。


****


扉が開く。


「湊」


瑛一の声。

湊の心臓が跳ねた。


「……瑛一」


瑛一が入ってくる。

そして、湊を見た。


息を呑む。

けれど、すぐに「可愛い」とも「綺麗」とも言わなかった。


瑛一は、まるで何かを探すように湊を見つめている。


顔。

目元。

唇。


視線の揺れ。

強がるみたいに結ばれた口元。


それから、ゆっくり手を伸ばしかけて、止めた。


「……見たことある」


湊の呼吸が止まる。


「え?」


瑛一は、額に手を当てた。


「湊、その顔」


声が震えている。


「俺、昔も見た」


湊は動けなかった。


「今の顔そのものじゃない」


瑛一は、苦しそうに眉を寄せた。


「でも、分かる」


「何が……?」

「湊が、俺に見られて逃げたいのに、逃げない顔」


湊の胸が止まりそうになった。


「俺、昔もその顔を見て、苦しくなった」


その瞬間、瑛一の頭の奥で、何かが弾けた。


****


夏祭り。

夜の川沿い。

提灯の光。


白い薄手のシャツを着た湊が、少し照れた顔で振り返っている。


「瑛一、見すぎ」


あの時の湊は、今とは違う身体だった。


声も、輪郭も、今とは少し違う。

それでも、同じだった。


見られると強がるところ。

逃げたいくせに、瑛一の前からは逃げないところ。

照れた時に、ほんの少しだけ唇を尖らせるところ。


そこにいたのは、間違いなく湊だった。


あの時の自分は、何と言った?

思い出せない。


でも、胸の奥が熱くなる。


好きだと思った。

あの日、自分は確かに思った。


湊は綺麗だと。

誰にも取られたくないと。

自分の隣にいてほしいと。


でも、言えなかった。


怖かった。

幼馴染という場所を失うのが、怖かった。


****


「……湊」


瑛一の声が震える。

湊は不安そうに見上げた。


「何か、思い出したの?」


瑛一は頷きかけて、首を振る。


「全部じゃない」


正直に言う。


「でも、思い出した」


「何を」


瑛一は、湊へ一歩近づいた。


「俺、昔も同じこと思った」


湊の目が揺れる。


「何を?」


瑛一は、苦しそうに笑った。


「湊を見て、胸が苦しくなった」


湊は言葉を失う。

瑛一は続ける。


「言わなかった」

「……え」


「たぶん、怖かったんだと思う」


瑛一は自分の胸を押さえる。


「幼馴染のままなら隣にいられるって、俺も思ってた」


湊の目に涙が滲む。

それは、湊がずっと抱えていた気持ちと同じだった。


自分だけじゃなかった。

瑛一も、同じ場所で立ち止まっていた。


「瑛一……」

「湊」


瑛一は、頬に触れたまま言った。


「過去の湊を思い出したから好きなんじゃない」


湊の目が揺れる。


「今ここにいる湊を見て、昔の俺の気持ちが戻ってきた」


瑛一は、ゆっくり息を吸った。


「だから、過去だけじゃない」

「……瑛一」


「今の湊も、ちゃんと好きだ」


湊の涙が落ちた。

瑛一は親指でそれを拭う。


「俺、忘れても湊が好きだった」


その一言で、湊の中にあった不安が崩れた。


全部ではない。

まだ怖い。


でも、今の言葉だけは信じたかった。


****


「……でも」


湊は震える声で言った。


「記憶、全部戻ったわけじゃないんだろ」


瑛一は頷く。


「うん」


「じゃあ、まだ分からない」


言ってしまってから、湊は唇を噛んだ。


「ごめん。違う。信じたいんだ」


瑛一は黙って聞いている。


「でも、怖い」


湊の声が小さくなる。


「お前が思い出してるのが、昔の俺だけだったらどうしようって」

「湊」


「今の俺を見てるんじゃなくて、記憶の中の俺を探してるだけだったらって」


瑛一の手が、湊の指を包んだ。


「じゃあ、確認して」

「確認?」


「何回でも」


瑛一は、湊の手を握った。


「俺が、今の湊を見てるか」


湊の目が揺れる。


「俺が湊を好きかどうか」


「……何回でも?」

「何回でも」


瑛一はまっすぐ湊を見る。


「朝起きた時でも、飯食う時でも、不安になった時でも」


手を強く握られる。


「聞いてくれたら、答える」


湊は涙をこらえきれなかった。


「……本当に?」

「本当」


「面倒にならない?」

「ならない」


「記憶が戻っても?」

「戻っても」


瑛一は、湊の額へ自分の額を寄せた。


「むしろ、戻ったらもっと言う」


湊は泣きながら笑ってしまった。


「それはそれで怖い」


「じゃあ慣れて」

「雑」


「湊が安心するまで言う」


瑛一の声が、深く胸に落ちる。


「好きだ」


湊の肩が震えた。


「湊が好きだ」


もう一度。


「記憶がなくても、戻りかけても、全部戻っても」


瑛一の手が、湊の指に絡む。


「好きだったことだけは、もう疑わない」


湊は、泣きながら瑛一に抱きついた。


****


それから、瑛一は記憶の欠片を少しずつ思い出し始めた。


夏祭り。

湊が射的で失敗して、悔しそうに唇を尖らせた顔。


中学の帰り道。

湊が眠そうにしながら、瑛一の肩へ寄りかかったこと。


高校の文化祭。

湊が他の男子に褒められた時、なぜか腹が立ったこと。


全部、断片だった。


順番も曖昧で、完全ではない。

けれど、そのすべてに湊がいた。


「また湊だ」


瑛一が呟くと、湊が隣で顔を赤くした。


「何が」


「思い出すこと、だいたい湊」

「……俺が幼馴染だからだろ」


「それだけじゃないと思う」


瑛一は、湊を見る。


「俺、昔から湊を見すぎ」


湊は顔を覆った。


「記憶戻りかけの人間が、そういうことを冷静に分析するな」


「だって本当だし」

「言うな」


「湊」

「何」


「照れてる?」

「照れてない」


「嘘」


瑛一が笑う。

その笑い方は、事故後の不安げな笑顔とは少し違っていた。


昔の瑛一に近い。

それが嬉しくて、湊は少し泣きそうになる。


****


一方で、瑛一の不安も完全には消えなかった。


記憶が戻り始めた分、自分がどれだけ失ったかを自覚してしまう。

湊が一人で抱えていた時間。


事故直後の不安。

病室で「誰」と言われた時の顔。


その全部を、瑛一は覚えていない。

覚えていないことが、湊を傷つけた。


夜。

瑛一は、湊の家のソファで目を覚ました。


隣に湊がいない。

それだけで、胸がざわつく。


「湊?」


声が少し震えた。

キッチンから湊が顔を出す。


「いるよ。水取りに行っただけ」


瑛一は、息を吐いた。

けれど、すぐには落ち着かなかった。


湊が戻ってくると、瑛一はその手を掴んだ。


「瑛一?」


「確認」

「何の」


「湊がいるか」


湊の目が揺れる。

瑛一は苦笑した。


「ごめん。俺も怖い」


湊は、そっと瑛一の隣に座った。


「何が?」

「また忘れること」


瑛一の声は小さかった。


「今度は、好きだって分かった後で忘れたらどうしようって」


湊は息を止める。

瑛一は、湊の手を握ったまま続けた。


「湊を二回傷つけるのが怖い」


湊の胸が痛くなった。


怖いのは自分だけじゃない。

瑛一も怖い。


失った記憶の向こうで、自分を好きだったことに気づいたからこそ、また失うのを恐れている。


「瑛一」


湊は瑛一の手を握り返した。


「じゃあ、俺も確認する」

「うん」


「瑛一が忘れそうになったら、俺が言う」


瑛一が顔を上げる。

湊は少し照れながら続けた。


「お前は俺が好きだって」


瑛一の目が揺れる。


「俺も、言う」


「何を?」

「湊は俺の好きな人だって」


その言葉に、湊の顔が一気に赤くなる。


「……急に強い」

「覚えやすいだろ」


「そういう問題?」


瑛一が少し笑う。


湊も笑った。

不安は消えない。


でも、二人で確認していける。

そのことが、少しだけ未来を明るくした。


****


数日後。


湊は、瑛一と一緒に夏祭りの会場へ行った。

記憶の断片が戻った場所。


提灯の光。

川沿いの風。

屋台の匂い。


瑛一はゆっくり歩きながら、周囲を見回していた。


「思い出す?」


湊が聞く。


「少し」


瑛一は頷いた。


「ここで、湊が射的外した」

「そこ思い出さなくていい」


「悔しそうな顔してた」

「忘れろ」


「無理」


瑛一が笑う。


湊は照れ隠しに歩く速度を上げた。

その背中を見て、瑛一の胸が熱くなる。


あの時も、こうやって見ていた気がする。


湊の背中。

振り返る横顔。

提灯の光に照らされた目元。


そして。


「湊」


瑛一が呼ぶ。

湊が振り返る。


「何?」


その顔を見た瞬間、瑛一の中で、記憶がまた一つ戻った。


――俺、湊のこと好きかもしれない。


過去の自分の声。


夏祭りの夜。


言えなかった言葉。

飲み込んだ本音。


瑛一は立ち止まった。

湊が不安そうに近づく。


「瑛一?」

「思い出した」


「何を」


瑛一は、湊を見つめた。


「この場所で、湊が好きだと思った」


湊の目が大きくなる。


「でも言わなかった」


瑛一は苦しそうに笑う。


「怖かったんだと思う。幼馴染じゃなくなるのが」


湊の目から、涙が落ちた。

瑛一は、その涙に手を伸ばす。


「ごめん」

「何で謝るんだよ」


「遅くなった」


湊は首を振った。


「俺も言えなかった」


瑛一は湊の手を取る。


人通りの端。

提灯の光の下。


過去と今が、少しだけ重なっていく。


「でも、今分かった」


瑛一は、湊の手を握った。


「俺が戻りたいのは、この場所だけじゃない」


湊が顔を上げる。


「過去の夏祭りだけじゃなくて、今の湊がいる場所に戻りたい」


瑛一の声は、もう迷っていなかった。


「だから、昔の俺が言えなかった分も、今の俺が言う」


瑛一は湊の手を強く握った。


「湊」

「うん」


「昔の俺も、今の俺も、湊が好きだ」


湊は泣きながら笑った。


「……それ、ずるい」

「ずるくても言う」


「記憶、全部戻ってないのに」

「戻ってない」


瑛一は頷く。


「でも、好きだったことは戻った」


湊の手を強く握る。


「そこだけは、もうなくさない」


湊は、瑛一の胸へ額を押し付けた。


「……信じたい」

「うん」


「まだ怖いけど」

「うん」


「でも、信じたい」


瑛一は湊を抱き締めた。


「じゃあ、毎日信じさせる」

「重い」


「幼馴染期間が長いから、その分重い」


湊は泣きながら笑った。

その笑い声を聞いた瞬間、瑛一は思った。


この声を、ずっと覚えていたい。

たとえ何かを忘れても。


何度でも、ここへ戻ってきたい。

湊の声がする場所へ。


****


帰り道。

瑛一と湊は、手を繋いで歩いていた。


湊はまだ少し照れている。

瑛一は、その横顔を何度も見ていた。


「見すぎ」

「見てる」


「開き直るな」

「忘れないように」


湊が黙る。

瑛一は少し笑った。


「でも、忘れたらまた見る」

「……え?」


「また好きになる」


湊の目が揺れる。

瑛一は繋いだ手に力を込めた。


「記憶がなくても湊を好きになったなら、俺は何回忘れても、たぶんまた湊を選ぶ」


湊は顔を伏せた。


「そういうの、ほんと反則」

「じゃあ覚えてて」


「何を」

「俺が反則なくらい湊を好きなこと」


湊は笑った。

泣きそうな顔で。


「覚えてる」


小さく答える。


「俺が覚えてる」


瑛一は頷いた。


「じゃあ、俺も覚える」


二人の手は、最後まで離れなかった。


記憶はまだ完全ではない。

過去は欠けたままだ。


それでも、二人は前へ進み始めていた。


忘れた恋を、もう一度。

今度は、言葉にしながら。

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