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『国民的アイドル、俺の前だけ大型猫になります』 天峰奏 × 枢木伊織 #1

##1


天峰奏あまみね・かなでは、完璧なアイドルだった。


雄咲市のライブ会場を、一人で悲鳴みたいな歓声に変える男。

顔がいい。歌がうまい。笑顔が甘い。


カメラがどこにあるか、どの角度で光を受ければ一番綺麗に映るか、すべて分かっている。

ファンに手を振る時も、番組で笑う時も、取材で言葉を選ぶ時も、天峰奏は一度も隙を見せない。


“天峰奏”という商品は、完璧だった。


****


「奏、水」


ライブ裏。

枢木伊織くるるぎ・いおりがペットボトルを差し出した。


伊織は奏の専属マネージャーだった。

成人後に雄女化済みで、柔らかい声と整った顔立ちをしているが、本人はそれを売りにする気がまったくない。


むしろ、見た目で舐められるのが嫌で、仕事中は誰よりもきっちりしていた。


「ありがとう」


奏はペットボトルを受け取り、ソファへ沈む。

ステージ上の王子様みたいな声とは違う。


低くて、少し疲れた声だった。


「奏、今日は無理しすぎです」

「平気」


「平気な人は、リハ後に三十秒無言で壁を見ません」


スタッフが小さく笑う。


「枢木さんだけだよね、奏くんにそこまで言えるの」

「普通、奏くんに休めって命令できない」


伊織は笑わなかった。


「休まないと死にます」

「言い方」


奏が少しだけ笑う。

その顔を見て、スタッフたちがまたざわついた。


「今の顔、レアじゃない?」

「完全に気許してる……」


伊織は聞こえなかったふりをした。


仕事だ。

奏をステージに立たせること。

奏を壊さないこと。


それが伊織の仕事だった。


****


伊織は、奏のスケジュールを全部把握している。


起床時間。

移動時間。

収録。

取材。

食事。

睡眠。


全部、管理していた。

奏は昔から、自分を雑に扱う男だった。


求められたら笑う。

求められたら歌う。


求められたら完璧な顔をする。

その代わり、食事を抜く。寝ない。倒れる直前まで止まらない。


「奏、三十分だけ寝てください」

「嫌」


「子供ですか」

「伊織、膝」


「は?」

「貸して」


メイクスタッフが吹き出した。


「奏くん、また始まった」

「大型猫だ……」


伊織は顔を赤くしながらも、結局ソファの端に座った。

奏は当然みたいに伊織の膝へ頭を乗せる。


「重いです」

「うるさい」


「寝るなら五分以内に目を閉じてください。目を閉じないなら水飲んでください」

「伊織の声、うるさいけど落ち着く」


その一言で、伊織の心臓は簡単に乱れた。

けれど顔には出さない。


出したら負けだ。

自分はマネージャーなのだから。


****


奏は、伊織にだけ違った。


ファンには王子様。

共演者には完璧な好青年。

スタッフには礼儀正しいスター。


でも、伊織の前では違う。


「伊織」

「はい」


「眠い」

「寝てください」


「一緒に」

「寝ません」


「冷たい」

「仕事中です」


「じゃあ仕事終わったら?」

「話を変な方向に持っていかないでください」


奏はつまらなそうに唇を尖らせる。

それを見たメイク担当が、こっそり呟いた。


「枢木さん、奏くんの飼い主みたい」


伊織は即座に振り向いた。


「聞こえてます」


「ごめんなさい」


奏は少し笑っていた。


その笑顔は、ファンに向けるものよりずっと柔らかい。

伊織は、その顔を見るたびに胸が痛くなる。


自分だけが知っている顔。

けれど、自分だけのものではない顔。


奏は、みんなのアイドルだから。


****


ライブ終了後。

照明が落ち、歓声が遠ざかる。


ステージ袖へ戻った瞬間、奏の表情から光が抜けた。

“天峰奏”を降ろした顔。


伊織だけが知っている、空っぽみたいな顔だった。


「奏」

「……疲れた」


小さい声。

伊織はタオルを渡し、汗を拭く位置まで指示した。


「お疲れ様でした。水分、先に取ってください」


「伊織」

「はい」


「いる?」


伊織は一瞬、言葉に詰まった。


「います」

「そっか」


奏の肩から、少し力が抜けた。

それだけで、伊織は胸が締めつけられる。


奏は、伊織がいるかどうかを確認する。

歓声がどれだけ大きくても。

賞賛がどれだけ降ってきても。


最後に探すのは、伊織だった。


その事実が嬉しい。

嬉しいのに、怖かった。


****


ある日。

番組収録の合間、若手タレントが伊織へ話しかけてきた。


「枢木さんって、マネージャーなのに目立ちますよね」

「え?」


「雄女でその顔なら、裏方にいるのもったいなくないですか?」


伊織は表情を崩さなかった。

この手の言葉には慣れている。


悪意がないことも分かっている。

だからこそ、面倒だった。


「俺は裏方の仕事が好きなので」

「でも、奏くんの隣にいると絵になりますよ。今度、企画で一緒に映ればいいのに」


その瞬間。

空気が変わった。


「伊織」


低い声。

振り返ると、奏が立っていた。


笑っている。

けれど目が笑っていない。


「戻るよ」

「あ、はい」


伊織はすぐに立ち上がる。

奏は伊織の腕を掴み、楽屋へ連れていった。


バタン、とドアが閉まる。


「奏?」

「何あれ」


「ただの雑談です」

「違う」


奏が近づく。

ステージ上の甘い王子様ではない。


低く、冷えた声だった。


「伊織を見てた」

「人と話してたら見るでしょう」


「そういう見方じゃない」


伊織は息を止める。

奏の視線が、伊織の顔、喉元、手元をなぞる。


見られている。

仕事相手としてではなく。


一人の男として。


「奏」

「俺は、見られるのが仕事だからいい」


奏の声が少し掠れる。


「でも伊織は違う」


伊織の胸が跳ねた。


「お前は商品じゃない」


その言葉が、思った以上に深く刺さった。

伊織は雄女化してから、何度も見られてきた。


綺麗だとか、柔らかそうだとか、表に出ればいいとか。

笑って流してきた。


仕事に必要ない言葉だと、切り捨ててきた。

けれど奏は、それに怒っている。


伊織自身より、ずっとはっきりと。


「……俺は平気です」

「俺が平気じゃない」


奏は伊織の肩へ額を押し付けた。


「伊織が他の奴に見られるの、嫌だ」


直球だった。

伊織の顔が熱くなる。


「そんな子供みたいなこと」

「子供でいい」


奏の腕が、伊織の背中へ回る。


「伊織は俺のマネージャーだけど」


低い声。


「それだけじゃ、もう無理」


伊織の呼吸が止まる。

奏は、顔を上げた。


「好きだよ、伊織」


ステージ用の甘い声ではなかった。

何の加工もない、生身の声だった。


「お前がいないと、俺は天峰奏を降ろせない」


伊織の目が熱くなる。


「奏は、みんなのアイドルです」

「知ってる」


「俺だけのものじゃない」

「でも」


奏が、伊織の手を取った。


「天峰奏じゃない俺は、伊織がいないと息ができない」


伊織は、もう逃げられなかった。


****


付き合い始めても、伊織は仕事中に線を引いた。


「奏、十五分後に取材です」


「伊織」

「仕事中です」


「冷たい」

「仕事中です」


「恋人なのに」

「仕事中です」


「三回言った」

「大事なので」


奏は不満そうにしながらも、伊織の指示には従う。

けれど、以前より少しだけ甘えが増えた。


楽屋で伊織の袖を掴む。

移動車で伊織の肩に寄りかかる。


食事を渡すと、まず伊織を見る。


「食べましたか?」

「伊織が先に一口」


「毒味じゃないんですよ」

「伊織が食べるなら俺も食べる」


「面倒くさいアイドルですね」

「伊織限定」


その限定が、伊織をだめにする。

けれど、だめになってはいけない。


奏を守るためには、自分が揺れてはいけない。

そう思っていた。


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