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『国民的アイドル、俺の前だけ大型猫になります』 天峰奏 × 枢木伊織 #2

##2


****


交際が始まってから数週間後。

事務所で、新しい企画会議があった。


大型密着ドキュメンタリー。

天峰奏のライブ裏、素顔、努力、孤独。


番組側は、奏の“支える人”として伊織も映したいと言った。


「枢木さん、画になりますし」


プロデューサーが笑う。


「雄女の専属マネージャーが国民的アイドルを支える、って絵面も強いです」


伊織は、仕事用の顔で頷いた。


「必要であれば、最低限の範囲で対応します」


奏は黙っていた。


笑っている。

完璧な営業用の笑顔。


けれど、伊織には分かる。

怒っている。


ものすごく。


会議が終わった後、楽屋のドアが閉まるなり、奏は低く言った。


「断る」

「奏」


「伊織は映さない」

「でも、番組としては奏の裏側を見せる企画です。俺が少し映るのは自然です」


「自然じゃない」


奏は伊織を見る。


「伊織を、俺の商品価値の一部にしたくない」


伊織は言葉に詰まった。


奏の声は静かだった。

だが、その奥に強い怒りがあった。


「俺は見られる仕事を選んだ」


奏が一歩近づく。


「でも伊織は違う」

「……俺はマネージャーです」


「だからこそだよ」


奏の指が、伊織の手首に触れる。

仕事中なら絶対にしない触れ方だった。


「伊織は、俺を生かすために裏にいる」


伊織の胸が熱くなる。


「その伊織まで消費されたら、俺はどこで息をすればいいの」


****


伊織は、困っていた。

奏の言っていることは分かる。


嬉しいとも思う。

でも、仕事として考えれば、密着番組は大きなチャンスだった。


奏が完璧な商品としてだけではなく、一人の人間として見てもらえる可能性がある。

伊織はそれを支えたかった。


「奏」

「嫌」


「まだ何も言ってません」

「言う前から嫌」


「子供ですか」

「伊織に関しては子供でいい」


奏はソファに座り、伊織の腰へ腕を回そうとする。

伊織は台本でその手を叩いた。


「仕事中です」

「痛い」


「大げさ」

「恋人に叩かれた」


「マネージャーがアイドルの暴走を止めただけです」


奏は不満そうに見上げる。

その顔が、少しだけ幼い。


完璧なアイドルの裏側。

伊織しか知らない顔。


「奏」


伊織は静かに言った。


「俺は、あなたの隣に立つのが嫌なわけじゃありません」


奏の目が揺れる。


「でも、表に出たいわけでもないです」

「うん」


「俺は、あなたがステージで息をするための場所を守りたい」


伊織は台本を胸に抱いた。


「だから、番組に出るかどうかは、俺が選びます」


奏は黙った。

伊織は続ける。


「奏が隠したいから隠す、ではなくて」


少しだけ息を吸う。


「俺が、俺の意思で、どこまで見せるか決めたい」


奏の表情が変わった。

独占欲で覆っていた顔から、少しだけ力が抜ける。


「……そういうところ」

「え?」


「伊織、そういうところが好き」


伊織の顔が熱くなる。


「今、それ言う場面ですか」

「言う場面」


奏は伊織の手を取った。


「ごめん」


伊織は驚いた。

奏が、素直に謝ったから。


「俺、伊織を守りたいって顔して、閉じ込めようとしてた」

「奏」


「見せたくないのは本当」


奏は苦しそうに笑った。


「でも、伊織の意思まで奪いたいわけじゃない」


伊織の胸が、静かに満たされる。


「……では、仕事として線を引きましょう」

「うん」


「俺は顔出し最小限。名前と役職は出していい。ただし、雄女であることを見世物にする編集は禁止」

「絶対禁止」


「奏の睡眠不足や食事管理については、必要なら話します」

「怒られるやつだ」


「怒ります」


奏は少し笑った。

その笑顔は、ステージのものではない。


伊織の前でだけ見せる、安心した顔だった。


****


密着撮影の日。

カメラが楽屋へ入る。


奏は完璧だった。

カメラに向かって笑い、スタッフに礼を言い、リハでは一度も音を外さない。


“天峰奏”として、どこまでも美しかった。

伊織はカメラの外に立ち、時間を確認する。


「奏、次の移動まで七分です」

「了解」


奏は笑顔で答える。

だが、カメラが一瞬外れた隙に、伊織へだけ視線を向けた。


疲れている。

伊織には分かる。


「水」


小さく言うと、奏は素直に受け取った。

密着スタッフが感心したように言う。


「枢木さん、本当に奏さんのこと何でも分かるんですね」


伊織は仕事用の笑顔で答えた。


「仕事ですので」


その瞬間、奏が小さく不満そうな顔をした。

伊織は見逃さない。


あとで拗ねるな、と思った。


****


撮影の休憩中。

プロデューサーが言った。


「少しだけ、枢木さんにもカメラ前で話していただけますか?」


伊織は頷いた。


「内容によります」

「奏さんにとって、枢木さんはどんな存在か、という流れで」


奏の空気が変わった。

伊織はすぐに振り返る。


「奏」


低く名前を呼ぶ。

奏は何も言わない。


けれど、目が明らかに嫌だと言っていた。

伊織は小さく息を吐く。


「俺が答えます」


奏が顔を上げた。

伊織はカメラの前に立った。


ライトが当たる。

視線が集まる。


正直、苦手だった。

自分は表に出る人間ではない。


けれど、逃げない。

奏を支える立場として、自分で線を引くと決めたから。


「天峰奏さんは、完璧なアイドルです」


伊織は言った。


「でも、完璧なままでは人は生きられません」


カメラの向こうで、奏が息を呑むのが分かった。


「俺の仕事は、奏さんを完璧に見せることではなく、奏さんが明日もステージに立てる状態を守ることです」


言葉を選ぶ。

でも、嘘は言わない。


「ファンの皆さんが見ている天峰奏を、俺も尊敬しています」


伊織は、少しだけ奏を見る。


「でも俺は、その裏で水を飲んで、寝て、ちゃんと生きている奏さんも大事にしたい」


撮影現場が静かになった。

奏は、伊織を見ていた。


完璧なアイドルの顔ではない。

泣きそうなほど、素の顔だった。


****


撮影後。

楽屋で、奏はしばらく黙っていた。


伊織は片づけをしながら言う。


「何ですか、その顔」


「伊織」

「はい」


「今の、放送したくない」

「またですか」


「違う」


奏が立ち上がる。


「見せたくないんじゃなくて」


ゆっくり近づいてくる。


「俺だけが聞きたかった」


伊織の手が止まる。

奏は伊織の前で立ち止まった。


「伊織は、俺を商品にしない」

「……当たり前です」


「でも、俺はずっと自分を商品だと思ってた」


奏の声が少し震えていた。


「求められるなら笑う。求められるなら歌う。求められるなら寝なくてもいい」


伊織の胸が痛む。


「奏」

「でも伊織は、俺に寝ろって言う」


奏が小さく笑った。


「飯食えって怒る。水飲めってうるさい。無理したら本気で怒る」

「全部必要なことです」


「うん」


奏は伊織の肩へ額を寄せた。


「俺、伊織がいないと、人間に戻れない」


その言葉が、伊織の胸を深く刺した。

伊織はそっと手を伸ばし、奏の背中へ触れる。


「戻れます」

「ほんと?」


「俺が戻します」


奏が息を吐く。

安心したみたいに。


「じゃあ、伊織」

「はい」


「俺の生活に入って」


伊織の呼吸が止まる。


「マネージャーとしてではなく」


奏が顔を上げる。


「恋人として」


伊織は何も言えなかった。

奏は続ける。


「仕事の予定表じゃなくて、俺の帰る場所に伊織の名前を入れたい」


顔が熱くなる。


「……アイドルがそんなことを簡単に」

「簡単じゃない」


奏の声は真剣だった。


「ずっと考えてた」


伊織は目を伏せる。


「俺は、奏の生活に入ったら、仕事との線引きが難しくなります」

「うん」


「あなたの評価に影響するかもしれない」

「うん」


「ファンに申し訳ないと思う日も、きっとあります」

「うん」


奏は全部聞いていた。

逃げずに。


「でも」


伊織は、小さく息を吸った。


「俺も、あなたが一人の部屋に帰っていくのを見るのは、もう嫌です」


奏の目が揺れる。


「帰った後に食べないのも、寝ないのも、平気な顔で次の日に笑うのも」


伊織は、奏の服を掴んだ。


「もう嫌です」


奏が、伊織を抱き締めた。


強く。

でも壊さないように。


「伊織」

「はい」


「一緒に帰って」


その一言は、プロポーズみたいに派手ではなかった。

けれど、奏にとっては何より重い言葉だった。


帰る場所を、伊織に差し出している。

天峰奏を降ろす場所へ、入ってほしいと言っている。


伊織は目を閉じた。


「はい」


小さく答える。


「一緒に帰ります」


奏の腕に、ぎゅっと力がこもった。


****


それから、奏のスケジュール表は少し変わった。


収録。

取材。

リハーサル。

ライブ。


その隙間に、伊織が新しく書き込んだ項目がある。


“食事”

“睡眠”

“帰宅”

“伊織確認”


奏がそれを見て、少し笑った。


「伊織確認って何」

「俺が奏の状態を確認する時間です」


「毎日?」

「毎日」


「恋人っぽくない」

「健康管理です」


「じゃあ、俺も書く」


奏はペンを取った。

スケジュール表の一番下。


“伊織と帰る”


そう書いた。

伊織の顔が熱くなる。


「仕事用の表に書かないでください」

「大事な予定」


「公私混同です」

「伊織が俺の生活に入ったから」


奏は当然みたいに言った。

その顔があまりに嬉しそうで、伊織は叱る言葉を失った。


「……奏」

「何?」


「ちゃんと食べて、ちゃんと寝てください」

「うん」


「無理したら怒ります」

「うん」


「それから」


伊織は少しだけ迷って、続けた。


「俺の前では、天峰奏じゃなくていいです」


奏が目を見開く。

伊織は視線を逸らさなかった。


「完璧じゃなくていいです」


奏の表情が、ゆっくり崩れた。

ステージでは絶対に見せない顔。


伊織だけが見ていい顔だった。


「伊織」

「はい」


「今すぐ帰りたい」

「まだ仕事中です」


「冷たい」

「でも、終わったら一緒に帰ります」


奏は、それだけで満たされたように笑った。

その笑顔を見て、伊織も少しだけ笑う。


天峰奏は、みんなのアイドルだ。

けれど、ステージを降りた奏が帰る場所は、これから伊織が守る。


表に見せるためではなく。

商品にするためでもなく。


ただ、奏が明日も生きて、笑って、歌えるように。


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