暗香雲雨(雨露に濡れる七夕)
明日は七夕だというのに、朝から重く雲が垂れ込めている。
退庁する頃には降ると予想して備えをしてきたが、太史局から雷雨の兆候が報告され、皇帝は即座に斎殿へ下がった。雷雨は不吉とされているからである。
官吏も早く退庁するように通達があり、支度をして門を出れば、どうにか屋敷までもちそうな空模様だ。同僚との挨拶も手短に済ませて馬上の人となり、景廷毅は家路を急いだ。
(芳修はもう戻っているだろうか)
妻は今日、里帰りをしている。荘園の地黄について次兄と相談したいことがあるそうで、随分前に義母の許しを得ていた。
ここ数日、花采蓉は目に見えて浮かれている。里帰りに加え、七夕が近いからだろう。
内院の中庭に設える、きらびやかな七夕の祭壇──乞巧楼に興味津々で、どのような飾り付けをするのか侍女たちに訊いて回り、義母や趙氏を苦笑させている。華やかな女性の節句を控え、少々浮ついている屋敷の女たちにつられているようにも見える。
花家の内院から女主人が消えて六年、賑やかな七夕とは縁遠く過ごしていたから、余計に楽しみなのかもしれない。
(だが嵐になるかもしれない……一度解体した方がいいか)
竹で小山のような檀を組んで幕を張り、花や飾り物、灯籠を飾り付ける乞巧楼は、高さも重さも相当なものになる。
空気は生ぬるく湿って淀み、一過性の雷雨ではないことを予感させる。判断が遅れないうちに片付け、明朝再度組み立てた方がよさそうだ。
完成を楽しみにしていた妻は、中庭で準備が進むのを見ながら出掛けただろうから、一度解体すると言ったら落胆するかもしれないが――。
屋敷に戻ると、花采蓉はまだ帰っていなかった。代わりに趙氏が正妻の居所に現れ、挨拶の後、脱いだ官服の手入れを始める。
「今日は留守にするから代わりに、と少夫人に頼まれまして。侍女に任せているのかと思いきや、いつもお手ずからお手入れなさっているそうですね」
官服は、一族の誇りである。特に賜衣であれば、その手入れは細心の注意を払って行う必要がある。
汚れや破損は複数の目で確認し、火熨斗掛けは数人がかりで行う作業となるため、周囲には何人もの侍女が控えている。それを意識した、趙氏の言葉遣いである。
「女の仕事を何故おできになるのかと伺いましたら、儒医の兄君のために覚えられたのだとか」
「あの兄弟は、深く慈しみ合っているからね」
「今日はさぞ楽しんでお過ごしでしょうね」
趙氏の口調はいつもと変わらないが、何故か引っ掛かるものがあった。
まるで、普段は楽しんで過ごしていないような──。
手入れは時間を掛けて丁寧に行われたが、景廷毅は黙って終わるのを待ち、趙氏の居所に移った。人払いして話をするためである。
正妻の居所で側妻と二人になるのは、正妻の面子を潰す言語道断の暴挙となる。趙氏とは男女の関係ではないが、花采蓉の体面を保つために必要な配慮だった。
「雲妹」
再従兄妹が二人、円卓に向かい合って座る。
「梨雲」という名に由来する幼い頃からの呼び名で、景廷毅は、今は有能な家政担当となった再従妹を呼んだ。
「芳修は随分君に懐いているようだが、最近気に掛かることでも?」
「いいえ、別に。いつまでも彼を子供のままにしておきたいと思うのは、兄君だけではないのね、と思っただけです」
「どういう意味かな」
こちらも幼馴染の口調に戻り、趙氏が答える。
「女は、子供のままではいられない。それを許さないのが男であり、母となることを期待するのが世の中というものでしょう。芳修は男であっても、地坤の正妻──いつまでも覚悟を決められない立場に置かれるのは、あの子のためにならないのではないかしら」
「……何故そう思う」
「ここ数日、明るい顔をしているからよ」
それの何が悪いのか、と顔に書いた景廷毅をまっすぐ見つめ、趙氏は静かに続けた。
「しばらく前、薛氏のことを聞かれました。毅哥は今も地坤を嫌っている……そう思っているようです」
「そんなことを……?」
「理由は、自分の胸に聞いてみては?」
勿論、今も大半の地坤は嫌っている。正確に言えば、花家の兄弟以外は視界に入れる価値もない。
その分、彼らとは誠実に付き合ってきた。花家もよく訪れ、ともに勉強する合間に小さな末弟の遊び相手も務めたほどだ。
六年前──長男が強引に召され、実家に戻された次男は傷心に閉じこもり、醜聞の責任を取らされた父親が僻地に隠居した時、花家の屋敷は空っぽだった。阿月は乳母の家に一時避難しており、茫然と残された十三歳の少年の面倒を見たのは、景廷毅だ。
悪夢に目覚めたら側にいられるように、泣き疲れて眠る三男を胸に抱いて横になった、あの夜。
少年は突然高熱を出し、清童から地坤へと成熟を遂げた。立ち込めた信香から逃れることもできず、気がつけば景廷毅はほっそりとした首筋に鼻を埋め、その芳しい香りを胸いっぱいに吸い込んでいた。
そして、熱に魘されるいたいけな少年の項に歯を立てたのだ──。
「心を偽り、夫にこれ以上嫌われまいと振る舞うのは、みじめなことよ。だから今日は、その必要もない実家で、のびのびと過ごしているでしょう。絶対に自分を傷つけることのない兄君に、手厚く慰めてもらって」
あの時はすでに官吏として忙しい日々を送っており、寝る時間を削って花采蓉に付き添っていた。
子供嫌いだというのに、それほど大切にしてきたのに、まさか妻は、幼い頃から慕う「景哥」に嫌われていると思っている──?
「ところで……夫の不能は妻側が申し立てる離婚理由に該当すると、わかっているの?」
自分の胸に聞いたところで心当たりなどない、と断言する寸前、趙氏の密やかな問いが景廷毅を驚愕させた。
声音こそ密やかだが、口にしていることは、男の矜持を踏み躙る威力がある。
一体どんな手を使ったのか、それとも女の勘か――二人がいまだ真の夫婦ではないことを、幼馴染の再従妹は察知しているようだ。
花采琳が食いつきそうな話題だが、趙氏を通じて母の耳に入るのは──非常にまずい。
「せっかく早くに帰宅できたのだから、降り出す前に迎えに行って、きちんと話をしてはどうですか。──不妊を理由に離縁するには、妻が五十歳になるまで待たないといけないけれど、夫の不能の場合、猶予期間はたった三年……。あと二年と少し、そして光陰矢の如し」
「……楽しそうに見えるのは気のせいか、雲妹?」
「図星に見えるのも気のせいかしら」
「――花家に行く」
言い捨てて、景廷毅は足早に再従妹の居所を出た。
空模様はいよいよ怪しく、雨が降り始めた。
馬で出掛けた妻のために、馬車で花家へ向かう道中、景廷毅は何を話すべきか考えあぐねていた。
明るく振る舞っていたとは思わなかった。──それも、地坤であることを理由に嫌われているかもしれない、と思い悩んで。
花采蓉は、手強い。
番の信香に包まれても理性を飛ばすことなく、大人しく夫の胸元に収まって健やかな寝息を立てる――それがもう十月続いている。
彼の次兄は子を孕むことができなかったが、花采蓉は番との交合を求めないのだから、それ以前の問題である。
彼に関することは、何もかもが思い通りにはならない。
叔父たちが独立して屋敷を構えるまでは、同じ姓を持つ従兄弟姉妹と一緒に育ったが、子供の頃から子供嫌いで、年下の面倒を見るのはごめんだった。ただし花家の末っ子だけは例外で、遊び相手になったのは自ら進んでのことである。
媚を売る地坤に辟易し、清心丹と安神香で常に身を守っていたのに、安全な花家、しかも危急の時で相手は子供だと油断していたところを、成熟したばかりの少年の信香に襲われた。強制的に番とされたのだ。
意地を張っているのか、断固として交合を求めることはない妻も、与えられる快楽には素直に身を任せ、毎夜夫の愛撫を待ち望むようになっている。そもそも愛されて育った甘えたがりだから、心を許した相手に親密にされることは、それが誰でも彼にはうれしいことなのだ。
そうして無垢な体を手懐けて、荘園視察に送り出し、夫が側にいない寂しさを思い知らせる。早く帰りたいと手紙で泣きついてくるかと思いきや、その書面に溢れるのは、荘園暮らしを満喫していることがありありとわかる、生き生きとした筆致だった。
地黄の群生地を見つけ、早速栽培と販路の段取りをつけるあたりは流石花家の人間だが、何通も送られた手紙の殆どが義兄の記載で占められていることが、何故か景廷毅の気に障った。
口に出さないだけで、片時も長男を忘れることはない母は、涙ぐみながら何度も読み返していたが――。
修武で妻は、絶対的に心を許す「兄」という属性の男を、血縁以外にもう一人見つけたのだ──夫ではない男を。
これは精神的な不貞といえるのではないか、というのが景廷毅の導き出した結論である。
嫁いだ今、花采蓉が頼るべき男はただ一人、夫のみのはずである。幼い頃から見守り続け、慈しんできた者こそが、守護者であるべきではないか。
だから、予定を延長して二週間も遅れて帰京した妻に、間を置かず納妾の話をした。
家政を預かる母と相談した上でのことではあったが、意趣返しの意図があったことは否めない。家政補佐として受け入れるといっても、側妻はいつ主人の手がついても不思議ではない存在である。少しは気を揉み、夫に集中するように画策したのだ。
しかし花采蓉は、「趙姐」と呼んですっかり懐いてしまった。気を揉むどころか、嫉妬する素振りもない。
(まったく、何という妻だ)
結婚前、こんな日々は予想していなかった。
母によく仕えて可愛がられ、学びを疎かにしない姿勢で父にも目を掛けられ、楽しそうに義理の甥の面倒を見る妻は、今や景家の陽だまりのような存在だった。生母が去り、そして兄が去り、静寂に包まれて時が止まったようだった家が、息を吹き返したように明るさに満ちている。
その上彼は、景氏に新たな富をもたらそうとしている。地味ではあるが、長期的な視点に立った、医療に貢献する富だ。
地黄の他にも薬草を見つけたそうで、それは福田院(貧民の救護施設)に寄付し、一族の積徳とすることになっている。
世にも得がたい福妻は、しかし今も、仮初の妻だった。
可愛い弟分を守る代わりに、彼が嫌う天乾の妻となり番の務めを果たしてもらう──契約のつもりでいた。それ以外は望んでいなかった。しかし、それ以外のことばかりが上手くいく。
(六年前から番となっていることを、明かした方がいいのか……)
「取引」を持ち掛けた手前、景廷毅は待つことしかできない。
その上──考えたくないが、趙氏が知っているなら、同じく不妊による離縁を経験している花采琳も、この状況に気づいている可能性が高い。
そもそも仲の良い兄弟である。夫との営みについて、兄に悩みを相談しているかもしれない。そしてここぞとばかりに、三年拒めば家に戻れると唆されていたとしたら──?
離縁しても、尚書家の元正妻という肩書きがある限り、彼に及ぶ危険は取り除かれる。弟を守るために景家に嫁がせた花采琳が、弟を取り戻す条件は整っているということだ。
花采蓉の兄であることに、絶対の自信と確固たる覚悟を持つあの美麗な男は、弟のためなら何をしてもおかしくない。きちんとつかまえておかなければ、番を──陽だまりに咲く桃花のような妻を、永遠に失うことになりかねない。
「──駄目だ」
口を突いて出た言葉の強さに、景廷毅は驚いた。
馬車の横を歩く従者が、風に消されないように声を張り上げる。
「公子、何か? 花家までもうすぐですが」
「……何でもない、気にするな」
番であることは、もはや関係なかった。
花采蓉が番──地坤であることが重要なら、信香に反応しない平庸の男と親しくしても気にならないはずだ。あの懐の深い兄なら、尚更だ。
それがじくじくといつまでも気に食わないのは──。
雨足が強まる中、馬車は花家に到着した。
子供の頃から通う屋敷である。従者の取り次ぎもその後の案内も双方慣れたものだが、この雨の中、何故か花家の家僕が手間取っている。
妻に会うのに、濡れ鼠にされてはかなわない。
慌てる家僕を尻目に半ば強引に回廊を進み、勝手知ったる花采蓉の居室の前に立ち──景廷毅は強い違和感を覚えた。
風雨が強まる中、夏でも戸を閉めるのは当然である。空は暗く、陽が落ちる前から室内に蝋燭の明かりが揺れているのも自然なことである。
しかしその明かりを受けて、薄絹の張られた格子戸に浮かび上がる影は、──抱き合っている二人にしか見えない。
「芳修っ」
問答無用で格子戸を開け放った景廷毅の目に飛び込んできたのは、景廷章の胸に顔を埋める妻の姿だった。
「……何をしている」
折しも雷鳴が低く轟き、景廷毅を、密会する二人を裁く地獄の王のように際立たせる。
見たこともない冷ややかな表情の夫に凍りつき、花采蓉が目の前の男にしがみついた。その様に、景廷毅の全身にびりっと苛立ちが走る。
ただならぬ弟の形相に、景廷章は怯える少年を背に庇い、──景家の兄弟は三年ぶりの再会を果たした。
「大哥、まさか妻の実家で会おうとは」
「──黙っていてすまない。帰京したのには事情が」
「弟の妻と抱き合うのに、一体どんな事情が?」
「……気になるのはそっちか?」
そっちなのか?と呆れたように繰り返す兄を怪訝に思ったが、その肩越しに顔を覗かせた妻が大木に頼るリスのようで、また感情が硬直する。
「義兄上は悪くないんですっ。全部僕がお願いしたことなんです」
「……芳修、面白いが話がややこしくなるから、ここは任せてくれるか。見てごらん、君の夫が羅刹のようだ」
面白いが面倒臭いだろう、と太々しい間男が余裕たっぷりにのたまう。
景廷毅はこめかみが引き攣るのを感じた。
「この状況で、何を釈明するつもりです」
「釈明も何も……完璧すぎると心配していた二弟にも、我を忘れる相手ができたんだな。……何だか安心したよ」
そうして兄が語ったのは、上京の目的だった。
以前から花采琳は、地黄の栽培地を視察したがっていたが、儒医として多忙である。代わりに商談も兼ねて、兄が花家を訪れ、収穫前の現状報告をする予定になっていたのだという。
稚拙な言い訳だ、と景廷毅は冷たく退けた。
「しかしここに、その花家当主はいない。それにいかなる状況であろうと、弟の妻と二人きりで抱き合うというのはどういう了見です」
「言い方に語弊があるな……それは自分の胸に聞いたらどうだ」
また、だ。
再従妹と同じ台詞──よほど景廷毅という男は、大切な妻の心情を汲むこともできない、木石のごとき人間と思われているらしい。
一日に二度も身内から同じ指摘を突きつけられて、さらに不快さが込み上げる。
「つまり私のせいで、夫のある身でありながら、芳修は大哥と抱き合うことになったと言いたいのですね」
「私のせいではないことは確かだな」
「妻を唆した記憶は私にもありませんが」
このやりとりが花采蓉に与える誤解に、景家の兄弟は気づかなかった。
不貞を疑われているのだと、彼がこの時ようやく思い至ったことにも。
何かを象徴するように、バリバリと空が引き裂かれるような、けたたましい雷鳴が大地を打った。
「こんな悪天の中、不毛な言い争いをする気はないぞ。まずは従者を遣って、景家に連絡するんだ。馬車で来たのだろうが、雷雨の中を無理に帰ることはない。この感じでは一晩中荒れそうだし、二弟もここで嵐を避けて、ついでによく話をしたらいい。二人とも、どうにも言葉が足りていないようだ。私の証言が必要というなら、嵐が止んでからにしてくれ」
建設的な提案である。しかし、一時的な退却ともとれる。
凍りついた空気を悠然と割り進み、景廷章は堂々たる足取りで廊下に姿を消した。
吹き込んだ風で蝋燭の灯りが揺らめく部屋には、苦い顔の夫と、呆然と青ざめたままの妻が残された。
それでも花采蓉には、やらなければならないことがあった。当主が不在の間、家の差配は彼に委ねられるためである。
「……二哥は往診に行っています。長患いの方が急に調子を崩されて、しかもこの嵐だから、今日は帰らないかもしれない」
「ならば我々は泊まった方がいいな。主人が不在では、何かあった時に具合が悪いだろう」
景廷毅は家へ使いを出し、花家の家僕が急な泊まり客の支度を慌ただしく済ませる。とはいえ、夫婦が泊まる部屋は元々花采蓉の居室であり、嫁いだ後も清掃を欠かさずそのままになっているから、支度といっても着替えくらいで大したことではない。
雷を怖がる阿月には景廷章が付き添うことになり、回廊の移動で濡れ鼠にならないように、食事も各部屋に届けることにして、嵐の夜の備えは一通り済んだ。
その頃には往診先から使いがあり、やはり花采琳は今夜戻らないという。
日暮れ前、普段はまだ明るい時間でも、本格的な嵐のせいで外は黒々と暗い。その上、雷公の怒りから身を遠ざけるために厳重に戸締りをして、厚い帳を下ろしているから、室内は夜同然である。
方卓で向かい合い、早めの夕餉を取りながら、花采蓉が静かに口を開いた。
「さっきのこと、誤解しないでください。義兄上は何も悪くない。僕の話を聞いて、慰めてくれただけです」
いつもの彼であれば、心当たりのないことを疑われたなら、わかりやすく機嫌を損ねて抗議してくるだろう。それを平坦な口調で説得するように告げられて、余計に猜疑心が湧き上がる。
そもそも景廷毅にとって何より許し難いのは、悩みがあるのに、側にいる夫ではなく他の男を頼ったことである。
「抱き合って慰めてもらうような、どんな話を?」
「──景大人、お願いがあります」
色の失せた顔で、花采蓉が食事の途中にもかかわらず箸を置いた。
兄の次に食べることが好きな彼の、常ならぬ様子に、景廷毅も箸を置き背筋を伸ばす。妻の悩みは深刻で、嫉妬で追い詰めている場合ではないと察したのだ。
一旦矛を収めた夫に、妻は淡々と言い渡した。
「僕のことを嫌いでもいいから、孕ませて。天乾の子が生まれたら、もう僕をかまわなくていいから。側妻を入れるなら、反対しないから」
それは、青天の霹靂だった。
夫をようやく受け入れ、正妻の寛容さを見せるようで、その実、完全に拒絶している。夫婦でありながら、歩む道は一生交わることはないと宣言しているに等しい。
そう理解した途端、覚えのある痛みが──鷲掴みにされた心臓が引き千切られるような《《あの痛み》》が、景廷毅を貫いた。
帳越しにもわかる鋭い稲妻が走り、間を置かずに雷鳴の轟音が、再び地上のすべてを震わせた。
「……突然、何を」
「政略結婚って、そういうものでしょう」
「私たちのどこが政略結婚だというんだ」
二人の結婚は、家の都合によるものではない。
そんなものを優先するなら、もっと早くに結婚していた。
正妻には出世の助けになる同じ士大夫の令嬢を選んだであろうし、事実縁談は降るようにあった。地坤を娶るなら香妻にして、跡継ぎが生まれたら手厚くその暮らしを保証し、以降一切関わらなかっただろう。
景廷毅の妻は、そのどちらでもない。何故なら妻は、唯一無二の花采蓉だからだ。
《《あの件》》も夫の心情も知らず、政略結婚などと口にする妻が憎らしい。
意識する間もなく口調は刺々しくなり、それが気に障ったのか、花采蓉が上目遣いで睨んでくる。
「景哥は地坤が嫌いで、僕は天乾を嫌いだと知っていて、それなのに僕を選んだのは、花家が名家で財力もあって、大哥を攫った皇族とは相婿の関係になれて、色々都合がいいからでしょう。都合がいい結婚を、政略結婚というんでしょ!」
「都合というなら、君ほど都合の悪い相手はいない!」
言うに事欠いて「都合がいい」とは──憤りと驚きで、景廷毅は声を荒げていた。
雨と雷鳴がすべてを掻き消してくれるのをいいことに、大人気なく、夫婦は一歩も譲らず睨み合う。
「親しい友の弟として──年長者として世話をしていたのに、隙をついて私を誘惑し番にしておいて、その上被害者ぶるとは……解語花とはよく言ったものだ」
「褒めてるの、貶してるのっ」
解語花──文字通り、言葉を解する花である。美貌だけではなく、聡明で人の心を察することができる人の意味で、花家の地坤の美称でもあるが、この場合、皮肉にもなる。
花采蓉は、敏感に夫の当てこすりを感じ取った。
それでも涙目で、褒めているのかと踏みとどまる様子に、景廷毅は──不意に、どうでもよくなってしまった。
「この期に及んで褒め言葉かと聞いてくる君には負ける。……勿論、褒めているんだ。私の解語花を」
この稀有な花に勝とうと──優位に立とうと考えたこと自体が、無意味で、誤りだったと悟ったのだ。
天乾として、地坤から受けた屈辱をそのままにはできない。その思いを貫き、自身の欲望に毎夜苦しめられながらも「取引」を継続してきたが、無駄なことだった。
花采蓉は地坤である前に、母代わりの二人の兄が、惜しみなく愛情を注いで育てた解語花なのだ。
その兄たちの境遇のせいで、天乾に対する警戒心は人一倍強いが、兄という属性には人一倍弱い。そして、昔から「景哥」は実兄に準ずる存在で、無条件の信頼を寄せる相手だった。この状況で、褒めているのかと口にできるほどの、絶対的な信頼だ。
そんな彼に、夫婦の駆け引きなど通用しないことは、最早自明の理である。夫が嫉妬するとは露ほども思わず、だから無防備に夫以外の男を頼り、それが好ましくないこともわからないのだ。
良くも悪くも十一年上の「景哥」は、彼にとって兄の域を出ない存在──男として意識されていない。身を飾るあらゆる肩書きも、彼の前では何の価値も持たない。
婚礼を済ませ、ともに暮らすだけで、夫婦になれるわけではないのだと、景廷毅は悟らずにはいられなかった。互いに歩み寄り、役割を果たした結果として、そう呼ばれる関係に至るのである。
花采蓉は、「取引」に従った夜の営みも含め、妻の務めを果たそうと奮闘している。
つまり夫側に、相当の努力が必要ということである。
「一体どうして、香妻のようなことを言い出したんだ。……私のせいか?」
「どうして謝ってくれないの」
小姑のような身内の言葉に従ってみると、素直に恨めしそうな答えが返ってくる。
しかしそんな顔をしても愛らしいのだから、解語花は手に負えない。
「僕が儒医を目指して勉強していたこと、景哥は知っていたでしょう。それなのにどうして、夢が絶たれるとわかっていて僕を妻にしたの? 僕を選んだの?」
「──一つ、はっきりさせておきたいことがある」
全面降伏するにしても、これだけは明らかにしておかなければならない。
景廷毅は軽く咳払いした。
「選んだのは私ではない。君が私を選んだんだ、番として」
何を言っているの?と妻が言葉以外の全身を使って反論するのを、無視して続ける。
「高熱で覚えていないだろうが、君の体がその証拠だ。地坤として覚醒した時に信香で私を操り、番とした。だから君は地坤特有の誰も彼もを誘う匂いがなく、私以外の天乾が近づくだけで気分が悪くなる。番のいる地坤特有の症状だろう」
医学の知識と自身の心当たりで、花采蓉が目を丸くする。
何度も瞬きをした末に、呆然と呟いた。
「……僕、ずっと前から景哥の番だったの?」
「出会い頭の事故のようなものだった。だからこれまで言わずにいた。天乾嫌いを悪化させたくなかったんだ。──それより今は、私たちが夫婦であることが大切だ。嫁いだことで芳修が受ける不利益は、できる限りなくそう。私だけの籠の鳥にしておきたいというのが本心だが、君の心を殺したいわけではない」
話しながら、ある企みが頭に浮かぶ。使えそうな男もいるし、なかなかの名案かもしれない。
内心でほくそ笑む夫をよそに、花采蓉は立ち上がって自分の椅子を隣に並べた。桃花眼と称えられる美しい目で、至近距離からしっとりと見つめられ、さしもの木石も胸が騒ぐ。
「僕を嫌いじゃないですか」
「何とも思っていないただの番なら、初夜に『取引』などせず、そろそろ君は産月だっただろうな」
「僕を好きですか」
僕が貴方を好きなように、と妻が問う。
「……それは兄を慕う『好き』なのか」
「夫として、大好きです。……霄郎」
強烈な告白に、歓喜で心臓が強く脈打った。
霄郎──字の子霄から一字取った、「私の愛しい男」という呼び名。二人きりの場のみで使われる、妻が夫に愛情を示す最高に甘えた呼び方である。
誘われるように景廷毅は、妻を膝の上に抱き上げる。すんなりと妻の腕が首に回され、二人はどちらからともなく口づけを求めた。
何をしても嵐が覆い隠してくれるのをいいことに、夫が与える口づけはいつもよりいやらしかった。執拗に舌を絡め、口内をまさぐり、派手な水音が耳を打つたびに、背骨が溶けたように花采蓉の体から力が抜けていく。
ようやく唇が離れた時には、二人ともかすかに萌していた。
「──棚上げにしていた大仕事を片付けようか」
「今? これから⁈」
愛しい妻をすくい上げ、そのまま悠々立ち上がるのが天乾の膂力である。
力強い足取りで寝台まで進み、その上にそっと下ろすと、花采蓉が拒むように慌てて身を起こした。
その理由は明白──雷雨の交合は禁忌だからである。
天地の陰陽が大いに乱れる中の交合は気血の安定を乱し、また雷公の怒りに触れるため、不具の子が宿りやすいと言われている。
「天地の厳忌です、医書にも書いてありますっ。絶対にダメですから!」
「私たちは平庸ではない。天乾地坤が交われば、宇宙の秩序と調和をもたらす陰陽の交わりとなる。雷公であっても、この真理を曲げることはできないのだよ」
「き、詭弁では……?」
寝台に乗り上げ、手早く衣服を脱いでいく夫に、妻が弱々しく反論する。
にこやかに聞き流して中衣姿になったところで、景廷毅は逞しい肉体で覆うように、愛しい人に伸し掛かった。
「私の解語花を、誰が騙すものか。ただ、ずっと待ち続けた君が欲しいだけ。……どうしても嫌か、心上人?」
心上人──我が心に住まう人。
霄郎に呼応する、夫からの詩的で美しく、情熱的な呼び掛け。
腰を直撃する心地好い低音の響きに、煽られた体から眩暈がするほど甘い香りが立ち上る。
花采蓉の理性の砦は、熱した蜂蜜のようにとろりと溶け落ちてしまった。




